寒い日が続いたので電気カイロを布団に入れて寝てたのだが・・・
朝起きると脇の下あたりがヒリヒリする。
なんだろうと見てみると、小さな水ぶくれが・・・
あらまぁ低温火傷をしたみたい。

 

昨年は電気湯たんぽで足を低温火傷した。
こりゃいかん。
とはいえ寒いので今度は電気カイロをタオルで巻いて保護して寝たのだが・・・

朝起きると横っ腹がヒリヒリする。
まさかと思って見てみると、症状は浅いが、またも低温火傷をしているようだ。

 

寝相が悪いからかな。
もう電気カイロも電気湯たんぽも使わず布団に入ることにする。

こんな経験ある人いるだろうか。

 

ではでは。

iPhone低迷というニュースは今に始まったことでなく、何かと新しいiPhoneが出るたびに取りざたされて来た話題。

私もiPhone3からiPhoneを使い続けているのだが、とりあえずiPhoneなら間違いなしというiPhone一択ではない時代なのだとつくづく思う。

やもすればiPhoneを利用するユーザーが情弱とさえ思える時代になったのだろう。
それはApple製品全体にも言えることだと思う。
Apple以上に魅力的な製品が今では沢山あるし、これまでAppleが持つ個性というものやアイデンティティになんら興味が沸かなくなったという事もある。

 

いつしかそれはApple一択というダサさを感じるようにもなった。
何故そのような感情を抱くようになったのかは自分でも総括が出来ていない。

 

Applenに限らず、ブランドという商業手法に時代錯誤を感じているのかも知れない。
良いものは良いという選択眼をブランドだからというかまけた心理で選ぶ時代の終末を感じているのである。

 

上手く説明出来ないが、消費者はもっと賢い選択をしたいという欲求が高まっているのだと思う。

 

ブランド名にお金を使うよりも同等のパフォーマンスのものをより安く購入し、その価値を共有する方がはるかに有意義だと感じる時代なのだとつくづく思う。

 

しいてはブランド名すら邪魔なものとまで行きつくのだろうか。

変にブランド名が入っているから気になるのであり、無印良品やGUのようにブランド名が入っていないほうが妙なアイデンティティーや詮索がなくなるので気持ちが軽い。

 

そんな消費社会なのかもしれないと思う今日この頃です。

 

普段純文学なぞ読まない私です。
ただ、普段から何かつけて自然を満喫するために年に数回吉野の地を訪れる者として谷崎潤一郎の吉野葛とはいかなる作品なのかという事が今時分になって気になり、正月休みに読んでみた。

 

自分は吉野を何度も訪れているので、主人公のへの感情移入も出来、大変満足した作品だったのだが、果たして現代の世において吉野を身近に感じない人にとっても好い作品なのだろうかという事が気になった。

 

私がこの短編小説を面白がっているのは吉野の地を少しながらでも知っているからなのではないだろうか。

 

それとも昭和6年に連載されたというこの作品。
当時、吉野という地は歴史深く、様々な物語や歌の舞台にもなり、何かと当時の人々の関心を集めた場所だったのかもしれない。

 

時代へて、平成最後の年にこの作品を読んだのだけれども、今の時代の人たちが読んで、吉野の面白さに関心が芽生えるのであろうか。

 

そんな疑問を抱きつつ、私のお勧めの本となった谷崎潤一郎の吉野葛。

なかなか味わい深く、読後に吉野の光景にふける私なのである。

 

エスカレーターでは歩いては行けない。
そんな注意喚起を積極的にしている鉄道会社。
実際これを守ろうとするとそれなりに勇気がいることである。
急ぐ人のためにどちらか片側を空けておとなしくエスカレーターに乗っていれば特にトラブルはない。

だが、立ち止まって両側をふさぐとトラブルに見舞われる確率は高いだろう。
急いでいる人から何かしら「邪魔だよ!どけよ!」シグナルが出されるのが落ちだ。

そんなトラブルに見舞われる可能性が高いのに頑固に歩かないなんて選択肢はない。

 

だから何を今更鉄道会社はエスカレーターのマナー向上を言い出すのだろうと思うし、その程度の注意喚起で事が収まるとは到底思えない。

そもそもエスカレーターは駅だけではなく、商業施設にもあるし、エスカレーターと言えば駅よりも商業施設の方が馴染みが多いのだろうと思う。

 

商業施設が「エスカレーターでは歩かないで下さい!」と注意喚起をしないと、世の中のエスカレーターのマナーは浸透しないのではと思う。

 

商業施設でのエスカレーターの乗り方がそのまま駅のエスカレーターのマナーになるのだと思う。

 

なので鉄道会社は駅構内でいくらエスカレーターのマナーを説いたところで、商業施設での注意喚起がないとエスカレーターのマナーはいっこうに浸透しないのである。

 

私はそう思うのだがどうだろうか・・・

 

ではでは。

 

 

2018年の初頭、よく当たる占い師がいるとのことで家内に連れてこられた奈良県のマンション。
自宅で占い兼、カフェ、グッズの販売をしているのだとか。
占いの料金やカフェ代は無料なのだとか、その代わりにグッズの購入をしなければならぬとのこと。

 

グッズは海外で仕入れたの物や国内の若手作家の作品など。

アクセサリーや小物、置物などが多い。

価格帯は数千円から数万円のものが多く、数十万の高額商品を売りつけるという悪質なものではなさそうだった。

 

家内はこの占い師の元に何度か通っており、その力を信じているのだそう。
家内がしつこく推薦をするので、しぶしぶ初めて占い師の元を訪ねた。

 

端的に占いの結果を言うと、今年私は全てを失うのだという。
しかしながら私にはバイタリティがあり、またゼロから復活をするだろうとのこと。

 

全てを失うとはいったいなんの事だろう。
家族を失うのか、それとも仕事を失うのか、財産を失うのか。
財産なんてしょぼいものだし。

 

結果結論から言うと今年も残り1日の時点で家族も仕事も財産も失っていない。
確かに山谷はあろうけれどもそれは毎年のことである。

 

とにかく2018年の年の暮れ、私は全てを失っていない。
家族があり、職もあり、夢もある。

占いを否定するつもりはないが、運命は自分の努力で変える事が出来ると思っている。

確かに我慢我慢の一年であった。
決して安泰な一年ではなかったけれど、来年は飛躍の年になれればと願う。

 


ということでみなさん良い年末を・・・

それではまた来年。

ではでは。


 

 

クリスマスにはケーキを食べるという習慣が日本に広まったのはいつ頃なのだろう。

調べてみると1910年(明治43年)までさかのぼるという。

この年に洋菓子メーカーである不二家が創業したのだとか。

そして1922年(大正11年)頃、不二家が広め始めたとのこと。

 

クリスマスにケーキを食べるというのは当時の不二家の市場開拓戦略であったのだな。
その時代から100年近く経った今。
クリスマスといえばケーキだ。
という社会認識となった。

 

が、過剰供給となり、大量のクリスマスケーキが破棄されているという。
それが豚の餌となるのだそうな。

 

我々が祝い事として特別に購入するケーキ。
それが豚の餌となる。

 

なんとも言えない皮肉は社会だなと思うのだ。
何かが間違っているそんなもんもんとしたジレンマを感じる今日この頃。

 

大量に破棄されるケーキのために労働を強いられるのはエネルギーの無駄遣いなのではと思い、我々消費者や労働者は燃費の悪い車に強制的に乗せられているという社会感であるのは否めない。

 

ではでは。
 

旅先で出会ったこの子。

しっぽが曲がったかぎしっぽの子。

かぎしっぽの猫は幸運をそのしっぽで引っかけてくるともいう。

 

クリスマスイブの日に私の前に現れたのはサンタではなく、この子であった。

こりゃ来年は何か良いことがあるのかもしれん。

 

そういえば今年は良く野良猫を見かける年だったなぁ。

私がそのような場所ばかり行くからなのか。
それともやはり野良猫は増えつつあるのか。

 

そんなことを考えながら、特にクリスマス的なイベントをするわけでもなく、単なる休日として過ごす我が家なのであります。

 

ではでは。

先日再放送されていた「秘境路線バスに乗って飲食店を見つける旅 バスごろく」

洞川温泉行きの秘境路線でのバスごろくだったのだが、私が良くドライブしている国道309号線を走るバスであり、良く立ち寄る道の駅でサンドイッチマンが飲食店の場所を聞いていたりするのか見ると、ああ早く週末にならないかな。ドライブしたいなぁとなるわけで、日が暮れるのが早い季節ではありますが、午後からちょっと国道309号線をドライブへ出かけてきました。

 

 

道の駅「吉野路 黒滝」に到着したのが16時30分。
家を出たのが14時をまわっていたのでやはり到着時間がこれぐらいの時間になっちゃった。
日暮れまで行ける所まで行こうと思っていたのですが、家に帰る時間も考えると、どうやらここで引き帰した方がいいかなぁと。

 

いつもならこの道の駅で串こんにゃくを食べるのだが、あいにく到着時刻が閉店間際だったという事もあり、串こんにゃく屋は早々と閉店したようだ。

 

残念ではあるのだけれど、いつものマンネリから脱却して、新たな食の出会いを楽しもうという事で、絶品!ぼたん汁を頂こうかと。

 

夕暮れで冷え込む山。
ぼたん汁で体を温める。

 

食べたことのない独特の風味。
美味しさよりもこの風味の正体は何なのだろうかという事に気が行く。

ぼたん汁は初めて食べたけどなかなか旨いのである。

 

とにかく歳末のバタバタで時間のない中、少しでも山に来れた週末なのでありました。
ではでは。

 

何でも検索すればニーズに答えた商品を提案してくれるAmazon。

これはこれで便利なのだが、偶然の発見や、まだ話題になっていないものを発見する楽しみもこれまた買い物の楽しみなのである。

 

最近の世の中ではその傾向が強いとも思えて、1500円の入場料を取る本屋などが話題だったりする。

 

自分のアンテナ感度にはない、偶然の出会いほど刺激的は遭遇はそうめったにないものだ。

とはいえ人はその刺激を求めている。

 

検索ニーズでは満たされない何かを求めて。

 

そのニーズを満たしてくれるのが、私の場合は図書館なのである。
本屋とは違い、新旧のあらする本が閲覧できる図書館は、まさに宝さがしの面白さがある。

 

特に図書館司書の推薦コーナーなどは面白い。
時事ネタもあったりするが、タイトルからして面白うそうな切り口や編集の本ばかりだったりして非常に刺激的だ。

 

とかく検索ニーズありきの社会になりがちだけれども、偶然の出会いを求めてブラブラと図書館を散策するのも面白いと思う今日この頃。

 

そんな私は偶然に本屋で発見した昭和初期に書かれた山岳の本がべらぼうに面白かったのでそう思ったのでございます。

 

ではでは。

飲食店でBGMを流すことが普及したのはいつ頃なのだろうか。
カフェであれ、居酒屋であれ、ラーメン屋であれ、お好み屋に至るまで今では普通に店内にBGMが流れている事が当たり前だったりする。

 

私はあまりこのようなBGMが流れる事が好きではない。
お店のBGMって情報過多というか、忙しなく感じるのだが同じような考えの人って世の中にいるのかな。

BGM次第でお店の回転率に影響があるのだとか、お店都合のBGMもあるのかもしれない。
またBGM次第でワインの味が変わるともいうが・・・
 

そりゃまぁ気分次第って事なのでしょうけどね。
 

でも私はお店のBGMが耳障りになるケースの方が多い。
坂本龍一氏が良く行くお店のBGMがあまりにひどいので、自ら選曲リストを作成してお店に提案したとのエピソードもあったり。

BGMによる快適・不快という影響ってやっぱりあるものなのだなと思う。

 

私はお店でBGMを流さないでほしい派。
その方が音楽を気にせずに過ごせるし、会話の妨げにもならない。

 

お店で流すBGMってそんなに大切なものなのかなぁ。

そう思う今日この頃です。