2年振りの小浜島 | blog:kudoh

2年振りの小浜島

小浜島の地形はお散歩中に海がよく見えて素敵です。
2年前に八重山平和記念館の展示で知った小浜島特攻艇秘匿壕を見学に来ました。
画像の右です。左の鳥居は東表御嶽(アールムティワン)の鳥居です。

1945年に第26震洋隊こと引野部隊が造った壕で、震洋と云う特攻に使う小さなボートみたいのを置く為の場所です。

震洋隊が造ったって云っても小浜島の人達に手伝わせたんでしょうね、悲しいね。

ここは入口、内部は落盤してる所もあるけれど、横に小部屋があって、もう一本の平行する壕に行かれる横道もあります。
入口からすぐに犠牲者の卒塔婆がありました。
倒れ掛けてるのか、倒れないように斜めにしているのか分かりませんが、今は荒らされてはいませんでした。
以前には卒塔婆が散乱していた事もあるそうです。
ここに震洋を52艇も入れて、

この美しいアールムティの海岸で特攻の訓練をして、来たる日に備えていたんですね。
痛ましい。
今は長閑なトゥマールビーチ。
遠浅の海は昔も同じだったんだろうな。
もう二度と、誰かに特攻の準備をさせようなんて思う事がない世界にしようね。
すぐお隣には東表御嶽こと竜宮神社。
琉球王府に御用布を納めに行った兄の航海安全を妹がこちらで祈ったら、無事に帰って来たので、竜宮の神を祀って航海安全の御嶽になったそうです。
それで竜宮神社なんですね。
でもね、ここ、来るの大変だから、

東山(アールヤマ)御嶽の嘉保根御嶽(カブニワン、カフニワン、カボネワン)にお引越しされたそうです。
こちらは集落からとても近いです。
とても落ち着く、清らかで気持ち良い場所です。
小浜島の主要な神事を行う場所で、五穀豊穣の神様が鎮座していて、国の重要無形民族文化財である結願祭(豊作の感謝と翌年の五穀豊穣をお願いする島で1番大きなお祭りです)が行われる御嶽です。
戦時中は小浜国民学校(現在の竹富町立小浜小学校)の仮教室としても使われていました。
第26震洋隊の前に小浜島に駐屯していた第38震洋隊は、学校の校舎を兵舎として使っていたので、嘉保根御嶽や仲山御嶽を仮教室にしていたんですね。

鳥居の横に、雨乞いをする時に投げるカンドゥラ石があります。
昔、日照りが続いた時に空から落ちてきて大雨が降ったんですって。
だから日照りが続くとカンドゥラ石を投げたり、大岳から転がしたりして雨乞いするそうです。
でもね、でもね、こちらの石は本当はカントーラマ石と云うそうです。
カンは神、トーラマは友達、雨の神様と太陽の神様なんですって。
雨だけでも太陽だけでも農家はダメで、両方あっての豊穣だから、カンドゥラ(雷)ではなくカントーラマなんだそうです。
投げるとゴロゴロって雷みたいな音がするから、いつの間にかカンドゥラが広まっちゃったのかな?
7年前の2014年には25年振りに雨乞祈願が行われました。

こちら、集落へと999メートル続くシュガーロード。
そしてあちらは島で1番高い99メートルの高さの大岳(ウフダキ)。
左隣は島で2番目に高い西大岳(ニシウフダキ)。
石垣島から大岳と西大岳が綺麗に見えて小浜島に来たくなったので、登ってみようかな。
先ずは大岳展望台へ。
晴れてて湿度が低い、、、湿度が高くないから、見晴らし最高です。
正面は嘉弥真島(カヤマジマ)、奥に石垣島が望めます。
細崎(クバサキ)と西表島。
正面に竹富島が。平べったい。
右側に宿泊中のホテルの赤瓦まで見えてます。
トゥマールビーチの孤が美しい。
左は石垣島です。
海の色が宝石みたい。
2年前にも気になった横に逸れる道に今回は行ってみました。


普通に管理歩道でした。
でもすっきりしました。
大岳の階段の横にあるちゅらさん広場に馬が居ました。
お馬さんお食事中でしたか。
綺麗な仔達ですね。
 
翌日は西大岳に登りました。
西大岳の階段は灘らかなので楽ちん。
すぐ到着。
ちゅらさん展望台からお引越ししてきたちゅらさんの碑があるので、

取り敢えず記念撮影。
碑の反対側には、お引越し前にちゅらさんの碑があったちゅらさん展望台が見えます。
ちゅらさん展望台には行った事がないのですが、もし行かれたら由布島が眺められるんだろうなぁ。
ちゅらさん展望台は観光客のマナーが悪くて閉鎖しちゃったと云う噂もあります。(牛さんに病気が感染るから説もあります)
マナーに気を付けよう!と改めて思いました。
西表島が壮大で美しい!
右手にウ離島(ウバナリジマ)が見えます。
ウ離島ってまだ5億円で売り出しているのかしら?
正面に竹富島、右手に大岳。
黒島も平べったい。

仲山御嶽と佐久伊御嶽。
画像右に赤瓦の屋根がご覧頂けると思います。
こちらも戦時中に仮教室として使われていました。
仲山御嶽と佐久伊御嶽が合祀されています。
仲山御嶽は水の神様。
佐久伊御嶽は嘉弥真島の嘉弥真御嶽だったそうです。
すっごい昔、役人さんが黒島の神司さんを意地悪して嘉弥真島に置いてきちゃって、神司さんは嘉弥真島の東海岸に御嶽を作ったんだって。
でも生活が苦しいから嘉弥真島の人達と一緒に小浜島に来て、神様として祀られたそうです。

こちらナカンドゥワンは大阿母(ウフアムと読みます、神女、神職です)南風川田於那利(パイカーダウナリ)のお墓です。
お墓だけど御嶽です。
昭和47年に大阿母南風川田於那利の衣装及び茶器は指定文化財になりました。
於那利さんは美女だったらしいですよ。

2年前に休館ではなく閉館と聞いた小浜民族資料館。
諦めきれずに覗きに来ましたが、
文字が日に焼けて薄くなっている。
もしかしたら再開してないかなと思ったのですが、やはり駄目でした。
残念。

ペリポート。
小浜島には病院はなく、診療所がひとつだけなので、いざと云う時にはヘリで石垣島に患者さんを運ぶんだそうです。
因みに小浜島や波照間島、西表島の祖納と大原の診療所は沖縄県立八重山病院の附属診療所です。
(黒島や竹富島の診療所は町立です)

北側のウカー道にまだ新しいっぽい歌碑がありました。
山の子守唄。
一番の裏の小山は大岳、二番の裏の小川は小池(クモール)、三番の鎮守の森は嘉保根御嶽の事なんですって。
画像に光が入ってしまいましたが、[この子守唄は、作詞者で石垣市字石垣生まれの宮良高司(1905~1991年)が、小浜尋常高等小学校在職中(1929~1932年)に、夕暮れどきの嘉保根お嶽あたりを散策しながら、"教え子たちの夢よ、まどかなれ"との願いを込めて、島の清純な自然景観と人情ゆたかなふるさとの風情を童謡詩に詠まれたものである。  教え子の作詞に、恩師で近代沖縄が生んだ優れた音楽家宮良長包が作曲(1931年)し、いまや長包メロディーの中でも、「えんどうの花」や「桑の実」等と並ぶ名曲として、広く世に知られ愛唱されているのが、この「山の子守唄」である。 2003年11月3日建立 ]と記されています。

集落を歩いていると小浜駐在所が突然現れました。
民家の隣に普通にあるの長閑で好き。

保育所の隣にクレーン車が。
なんか作ってる。
何が出来るのかな?
小浜島複合型福祉施設だそうです。
複合型福祉施設って波照間が第一弾だった素敵施設ですね。
竹富町では保育所、幼稚園、高齢者施設をひとつにした複合型福祉施設を作って、地域の交流の場にするんですって。
波照間では既に完成して運用されているらしく、小浜島や竹富島、西表島の東部と上原で進行中なんですって。

コーキワンに来ました。
小浜島の最北端ユンドレークス(ユンドレスクとも)の照後御嶽(ティダクシワン)がこちらのコーキワンに遷座しましたが、更に西山御嶽にお引越ししたので、こちらには拝殿がありません。
そんな訳で鳥居の中までお邪魔しちゃいます。
鳥居からイビが見えていますが、
イビの
中を覗いちゃおう。
そしてイビの中へと思いましたが、ここで引き返します。
拝殿がないとわかっていても、余所者工藤はなんだか図々しいみたいで、なんか、なんか、やめました。

そしてこちら西山御嶽。
遷座した照後御嶽と川田御嶽が合祀されています。
照後御嶽は最北端にあり集落から遠かったのでこちらにお引越ししましたが、川田御嶽も南の海岸線近くにあり集落から遠かったのでこちらに遷座しました。
照後御嶽はカンピュール(神事の日)に火が現れたので神の霊地として信仰して航海安全、川田御嶽は火が現れたので神の御しるしとして信仰したら豊作になったそうです。
川田御嶽を探しに南に向かい、ウータ浜の方に行きました。
開けてる、、、
でも何処だか全然わからない。
お引越し後とは云え、鳥居があるかなぁと思ったのですが、見つけられませんでした。

牛さんが大勢いますね。
小浜島も近年は畜産業が増えてきて、昔程サトウキビを作らなくなったんだって。
確かに、12月だからサトウキビ沢山あったけれど、昔ほど、あっちにもこっちにもサトウキビって感じではないかも。

2年振りの小浜島とっても充実して楽しかったです。
雨が降ると寒いけれど、冬の小浜島も過ごしやすくて良いですね。
夏ならトゥマールビーチでシュノーケルしたいな。