亡き父の古くからの友人に松田おじちゃん(故人)という奄美大島出身の優しい力持ちの男がいた。
父とおじちゃんはお互い20代の頃に東京で出会い意気投合した。
ギターでの演奏を教えたのも父だったそうだ。
父と出会った頃のおじちゃんはひょろひょろで、酔っ払って相撲を取ればいつも簡単に父に投げ飛ばされていたらしく、それがとても悔しかったおじちゃんは、酒屋のバイトを選んで、ビールケースをわざわざ毎日上下に上げ下げしながら階段を登って、次に会った時は簡単に投げ飛ばされたと笑いながら父が話していたのを記憶している。
父は幾つか歳が上で、おそらくいつも偉そうだったのだろうけど、身体を鍛える事も、音楽に関しても、いつのまにか松田おじちゃんは賭けた時間がどんどん備わっていって、多分父も、もう敵わないなというところまであっという間に駆け上がっていった。
埼玉に住んでいた頃、夏休みにみんなで岩手の西和賀にキャンプに行った時、焚き木をみんなで集めていたら、おじちゃんは立ち枯れした大きな木を一本肩に担いで持ってきて、みんなでたまげたのを覚えている。
今大人になって想像しても、50kgじゃきかないくらい、大人一人で到底持ってこれるサイズではないから、ほんとうに力持ちだったと思う。
このおじちゃんの話は、今はなきブログに書いた事があると記憶しているが、もうそのブログはないので、今改めて書いてみたいと思った。
前述した通り、松田おじちゃんは奄美の出身で、学生時代に日本は高度経済成長期を迎えた。
少ない日銭を稼ぎ、でも食べる物にこだわらなければそこまで困らないような島の暮らしの中に、突如として消費者金融のキャッシングシステムが訪れる。
テレビで観ていた豊かさが、キャッシングディスペンサーに行けば手に入ってしまう仕組みが訪れると、多くの人達は返すあてのない家電を買ったり、酒代などを暴利で借りて、感じたことのないであろうひとときの幸せを前借りしては破綻していった。
松田家も同じような道を辿り、若くして一家離散を経験したおじちゃんは上京した中で、父や友人と出会い、音楽に出会った。
彼の作る歌は、子供ながらに奥ゆかしく、分かりやすく、朴訥としていて、それでいて辛辣で可愛らしかった。
「つんつん 冷たい クリスマス 坊や サンタは嘘だよ 寒いなぁ」
サンタが親だって事はもう気づいていた自分がこの歌を聴いた時は、なんてひどい歌詞だろうと思ったけど、それと同時に押し寄せる、なんとも言えないその孤独に引き込まれたのを覚えている。
逃げ場のない現実を突きつけられ、家族が離散する様な状況に陥った青年が辿り着いた東京は、彼にとってどんな風景だったのだろう。
これは自分自身も少なからず感じた事だけど、親元を離れ、身体一つで都会に出てきた人間が感じる、圧倒的な、どうにもやりようのない出自、生活の格差、そういったものを現実的に幾つものレイヤー(階層)として捉えてしまった時の、行き場のない絶望感と怒り、そこからどう自身の人生を作り上げてきくか、無い頭で考える日々の事。
たった数分の曲で彼は私に教えてくれたのだと思う。
彼はわたしにとっての「良い歌」を沢山遺した。
埼玉から岩手に戻って程なくして、父の共通の友人から、彼が亡くなった事を聞いた。
アパートの中は全て綺麗に空になっており、唯一持っていた自家用車の軽バンに持っている全てを綺麗に積み込んで、運転席で血を吐いて死んでいたそうだ。
死んだ後まで、他人の気持ちを考える人間が、想像し得る最良の終わり方だったのだろうと思うと、今でも胸が締め付けられる。
子供にとって、クリスマスやサンタクロースがくれる幻想というのは一体どういうものなのだろう。
親がサンタさんなんだと知った時のあの申し訳なさや、悲しさも教育の一つなのだろう。
親ではない他者によって暴かれる人もいるかもしれない。
教育に幻想は必要なのだろうか。
分からないし、子育てもない人生だけど、例えば親が親の都合で怖がらせたり、言う事を聞かせるために使った畏怖すべき対象(我が家でいうトロル)など、目に見えない何かがわたしたちを見ている、悪さをすると迎えに来るなど、そういった幻想を元にした教えみたいなものも、ある一定のラインを越えないかぎりは、かなり有効だと言えるし、トラウマを残す事にもなる。
結局のところ、幻想がもたらすものは得てして諸刃の剣なのだろうと思う。
子供の創造力を養う事には確実に寄与するだろう。
親はその幻想を扱う時に、そのディテールと善悪の判断を見誤らない事は大事だと思う。
親の都合で出てくる魔物の話は子供にバレてしまう。
ただ不思議な事に、人間は時々、人生でどうにも説明のつかないようなファンタジーに遭遇する事がある。
2011年、上京したての初夏、バンドメンバーと三人、目黒の仮住まいのマンションでパスタを一袋三人で分け合って平らげ、酒を飲みながら未来の話をしていた時、ふと夏の歌の話になり、松田おじちゃんの「カブトムシ」という歌を思い出して歌って聴かせた事があった。
きりきり舞いするカブトムシ
ビルの風に煽られて
落ちちゃ駄目だよカブトムシ
下は車ばかり
何処から来たのカブトムシ
デパートの昆虫売り場かな
それともネオンに誘われて
林を抜けてきたの
逢いたいなあの人に
もう何年も帰っていない
故郷
今度の夏は
今度の夏は きっと 帰る
この歌を歌って、その夜はお開きになってメンバーはそれぞれの部屋へ行った。
その直後、ブーンという不穏な音と共に、暗い部屋の開けていた窓のカーテンに何かがぶつかった音がした。
怖くなって部屋の電気をつけて、恐る恐るカーテンを裏返すと、そこには一匹のオスのカブトムシが止まっていた。
東京の大都会のど真ん中で、カブトムシの歌を歌った直後に、部屋にカブトムシが入ってきたのだ。
父にその事を伝えたら「松田だな。嬉しいな。」と言っていた。当たり前のように言っていた。
誰よりもリアルな歌を歌うおじちゃんが、何よりもファンタジーだった。
だから、今世の中に溢れかえる幾つも時を越えて伝播してきたお話も、はじまりはこういう事なのかもしれない。
それが人を介していく事で尾鰭がついて別の何かにすり替わっていくかもしれないけど、それぞれの心の中にある感性やアンテナを持ち続けていれば、ほんとうはこの世界はいつも奇跡の連続なんじゃないかって思います。
幼少期の子の言う嘘八百みたいな物語、否定するのは簡単だけど、姉が大人になってからよく言っていた、子供の頃色々なものが物凄く大きく見えたり、逆に小さく見える事があったって話、調べたら、アリスシンドロームと言って、ウイルス感染によってもたらされる作用だったり、科学的に解明され始めている事もある。
今、分かっている事が全てではないし、そういう余白みたいなものを楽しむ心を持つ事は、案外大切だったりするんじゃないかと思います。
もし自分に子供がいて、ファンタジーを信じる子の話を聞いた時に、それを疑ったりせずに楽しんで聞けるのか、馬鹿にする子なのか、どっちが良いかなと考えたりします。
どっちが間違いとかではないけれど、少なくとも私たちは断定できる立場にないのではないかと思うのです。
そしてそれはこの世界に必要な寛容性や優しさにも通じる気がします。
想像力と創造力、そして現状の認識が相まって、この世界に幾つもの革新的な表現や研究が日々生まれています。
無知な誰もが笑うような事を見つめ続ける人にしか訪れないものがあるのです。
生きている間に幾つか訪れる奇跡のような瞬間を誰かと共有出来たら、それ以上に幸せな瞬間って実はあまり訪れないんじゃないかと思います。
サンタクロースが居ない事を科学的に証明する事は出来ないでしょう。
誰だって明日、誰かのサンタになる事が出来ますから。
メリークリスマス。
そして良いお年を。
今年のタクシーで流したプレイリストです。
12/28(日)仙台ファシュタ
来られる方は是非
良い時間を過ごして2026年を迎えましょう
今年もお疲れ様でした!
https://www.kudanz.com/information/4223/








