立体的相互関係 | KUDANZササキゲン「散文と音楽」

KUDANZササキゲン「散文と音楽」

ササキゲンのソロプロジェクト KUDANZ(クダンズ)の日記

映画やドラマや小説、長い事うまく入り込めなくなっていて、その事について自分自身の事、社会的潮流も含めて物思いに耽る時間が増えた中で、いくつかの気づきみたいなものがあった。


我々はそういった作られた物語に触れる時、その単一で描かれた視点を元に世界を見ている。

今、何か興味のある世界に触れようとすれば、誰かの視点で完結なショート動画やニュース、その他諸々の情報を手にする事自体は簡単だけれど、そのソース自体が正確なものであるかどうか、中立な視点であるかどうかを見極める事がとても難しい。


皆、不確実かつ個人的視点な情報があまりにも多いせいで、何を信じたらいいのか分からなくなっているのだと思う。

分かった気になって何かを話すなんて、そんな簡単にできることではない。

実際そのくらい世界や社会というのは複雑なバランスで成り立っている。

それに嫌気がさして、皆好きなものを好きな視点で見る事に慣れている。自分自身も同じだ。

それが現実的な問題であろうと、作られた物語であろうと、本質的な問題は大して変わらない。

例えば永く対立しあう者同士の物語があったとして、リアルタイムで同時にその人達の感情を享受する事は出来ない。

私たちはいつも、その時々で一つの物語を選ばなくてはいけないのだ。

何か一つの問題が起こった時、その問題に居合わせた出来る限り多くの人達の感情と向き合わなくては、ぐしゃぐしゃに絡んだ糸を解く事が出来ない。

その糸を解く事が出来るのは、物事を立体的に捉える事が出来る俯瞰の目線だ。

私が爆笑問題の太田光を好きなのは、そのすべての視点で物事を捉えようとする優しさに他ならない。

私も歪み合う人間同士の絡んだ糸を解く手伝いがしたいと思った事は何度もあるが、その難しさと骨の折れるような我慢と、自分自身の力の無さにいつも打ちひしがれてきた人生だったと今思う。


その様な事を繰り返すうちに、わざわざ創作物で誰かと誰かが複雑に絡んで苦しんでいく視点を見て、何かを考える時間そのものすらも楽しんでみる事が出来なくなっていったのだろう。

現実の方がよっぽどドラマを感じている。

そして現実は殆どの場合、そんなに美しく簡単に問題解決などしてはくれない。


その点、格闘技は一対一の相対する物語が見やすく、結果も勝つか負けるかという非情ではあるがシンプルな世界なので、長く好きで観ていられる。


この先、エンターテイメントの世界も様々な技術によって大きく変化していく事だろうと思う。

例えば、ドラマでも映画でもいい、登場人物すべてを主人公にする事がもう出来るようになるだろう。

視聴者はどの主人公の視点で観るかを選ぶ事が出来る。

登場人物同士が同じ空間にいる時と、それぞれがそれぞれの時間を過ごしている時の経緯が、全て観る事が出来る。

想像の範疇を越えた答え合わせが出来るだろう。

それは親と子の物語かもしれないし、敵国同士の話かもしれない。

この事は、この世界のテーマである、相互理解に繋がる鍵を握っているように思います。

何故ならこの世界では、皆が主人公だから。


今そういうぶっ飛んだような話が、オープンワールドのゲームの世界では既に起こっている。

そして市場自体は更に大きくなっていくのだろう。


そうやって、想像もしないようなスピードで変化していく世界の中で、自分がどの様な事が出来るのか、また、どんな風に生きていきたいかを考えている。

一人の人間としての役割や、音楽家としての有り様について思いを馳せても、この先多くの事は出来ないだろう。

だからこそ、これまで生きて音楽を続けてきた結晶のようなものになればいい。