小さい頃、巷ではカードダスが流行ってて、駄菓子屋で100円玉を入れると何枚かのカードが束になって出てきて、中にキラカード(ラメ入りのキラキラしたやつ)が入っていないかワクワクして開けたのを覚えている。
我が家は裕福ではなかったから、そんなに沢山集めたりは出来なかったけど、お金持ちの子たちはいっぱい持っていた。
近所の子が遊びに来てカードで対決したりして、彼らが帰った後に気づいたら自分のキラカードが無くなっていて、あの時の感情は忘れられない。
年下の子で、家よりも裕福とは言えない家の子だったと思う。
怒りよりも、なんだか途端にその遊びに冷めてしまったのを覚えている。
失ったのは物ではなくて、それまで積み上げてきた楽しい時間だったのだと思う。
カードに本来備わっていた遊びとしての機能を付加価値が越えて、分断を生んだのだから皮肉でしかない。
この世界の物質の総量は大体決まっていて、紀元前の時代から現代に至るまで、金の価値は常に最上の位置にある。
金の値段が下がる事はほぼ無いだろうから、投資家の言葉を借りれば、握っといて間違いない、そういうものなんだろうと思う。
妻は転売サイトの運営で働いていて、仕事柄日々めまぐるしく変わるトレカや靴の値段などを毎日目にしている。
かたや隣には、ほぼほぼと言っていい程物欲を無くした私が、自然の中で生き物や菌糸の観察などをして、これはなんだ、あれはなんだと、何の金にもならぬ、誰のためにもならぬ世界を具に見つめて美しいとかキモいとか言ってるのだから、その振り幅は想像するだけでも脳がバグりそうだ。
老いも若きもワンピースだとかポケモンだとかのカードの新作が出たらそれを開き、夢を見ては日々自分や誰かが仕事に費やした時間の対価をスポイルされている。
たった一枚の紙切れが6億の値段で取り引きされるのだという。
かたや洋服で言えば、何かのブランドの名前がプリントされている服を着る、という事は、着る人はもう広告なのだ。
kudanzと書かれたスウェットを着るという事はそういうことだ。
だから物を買う時はまじで一旦超考えた方がいい。
私がめちゃくちゃダサい事で捕まったとしてもそれを着れる覚悟があるのかどうか。
刺繍だったらワンチャン安全ピンとかで綺麗さっぱり取れそうだよね。
くだらない話はさておき、世の中が非常に得体の知れない、殺伐とした空気に満ちているような感覚を覚えているのは私だけだろうか。
人嫌いが加速していて、皆怖がっているように思える。
時に見知らぬ人の優しさにさえ拒否反応を示す程の恐怖感みたいなものに人々が包まれているように見えてならない。
コロナや様々なものが分断を生んだことは間違いないだろうけど、なんとなく、今感じているのは、人が都市部に集まりすぎている事が大きいように思う。
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いつのまにか、人類は増えすぎてしまったから、これ以上増えてはいけないような空気がいつからか世の中に流れていたけど、ほんとうのところはどうだろう。
田舎から離れ東京に何年か住んで、人の多さにすっかり疲れ果てた自分は、人口が過密になると、他者への配慮や関心が薄れていくのだということを身をもって知った。
そして、今の世間のあり方も、それまでの自分自身のあり方も、都市型の暮らしに依存しないと享受出来ない物事があまりにも多すぎて、いつのまにか何もかも欲しくなくなった。
ほんとうに、心の底からありとあらゆるものがどうでもよくなった。
電気ガス水道各種ライフラインに始まり、あたかもそれが無いと人間は生きていけないような錯覚の中で、満員電車に揺られ、リハ終わりに抱えていたギターをぶん殴られながら生きていく事が、自分の幸福と繋がるようには思えなかった。
それは後になって、別の選択肢を教えてくれた両親の愛によるものだと気づいたのだけど、それを知らない子どもたちは今も彷徨ってる。
何かに依存して生きるのは嫌だったから、それからの人生は、自分の国を作る事に費やそうと思った。
山奥に古い家を買い、伸び放題の庭の木を何本も自作の抜根機でバンドメンバーと抜いたりして、柱以外を全部壊して、家を作ってる。
途中で両腕の腱が切れて、作業も音楽活動も中断して、何やってんのかなと思ったりもしたけど、国を作るんだからそのくらいは仕方ない。
50歳くらいを目標に、電気ガス水道を全部自分で賄える、自宅兼スタジオ、サウナや民泊もそのうち形になったらやってやろう、馬鹿みたいなエネルギーが湧いてきて、今を生きてる。
人生自家発電、他人の夢に承認欲求のガソリンぶっかけてくるような馬鹿な奴らの話は聞き飽きたから、変なのが寄ってきたらマッチ持って追いかけてやれば大抵逃げる。
こっちは勝手にやるからそっちも勝手にやってくれ。
なんで時間をかけようとしない。
なんで簡単に手にしようとする。
自分がやりたい事、その全部を自分の目で見たくないかい?
世の中なんていつのまにか勝手に意見が変わってて、はなからそうだったみたいな面してうまく取り繕ってるだけ。
そんなのに時間割いてるの無駄すぎる。
20代で吐いた言葉、借金みたいに今も胸にあって、返す為に毎日生きてる。
くそダサい理想まみれの若気の至り、でもあの気持ちはやっぱり間違ってなかったと思いたい、それだけの為に毎日へろへろになって生きてる。
世話になった人に喜んで欲しいのもあるけど、間違ってなかったって思いたいだけだと思う。
言葉は借金みたいなもの。前借りできる。
前借りする奴は大体どっかで飛ぶ。
何が言いたかったか思い出してる。
そう、古民家買って他人の捨てられなかった物捨てまくった。
直してでも使い続けたい物以外、物に価値はない。
大切な手紙、それを書いた人の時間、それを燃やしてる知らん人が私。なんなんだこれは。
大切に思い合える人との時間、この一生の中で限られた線が繋がる一瞬の点、なるべく線にしたいから、金はそこに使う。
どうせなら融点まで熱い濃密な時間。
美しい時間。美しい音楽。景色。食事。あと睡眠。
シャットダウン。
