昨週末の雪をもたらした寒波到来で、11月末に訪れ、紅葉に包まれていた湖西、坂本の
素晴らしい眺めも遠い過去のような気がする。
三井寺を訪れたら明智光秀の坂本城趾を訪れないわけにはいかない。
1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師のルイス・フロイスによると豪壮華麗で
安土城に次ぐ名城と記しているという。
昭和54年、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画され、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきている。 ただ目に見える跡はなにもない。
琵琶湖畔の坂本城址公園。
公園内の明智光秀像
坂本城の推定城郭部分、湖から西端までは3,400mであろうか。
(ウィキペディアに紹介される地図)
住宅に囲まれた二の丸跡の坂本城趾碑(大正4年建立)
城址公園を訪れた後、明智光秀菩提寺の西教寺へ。
天台宗真盛週宗総本山、聖徳太子が恩師である高句麗の僧のために創建されたと伝わる。
明智光秀とその一族の墓。
光秀の6年前に亡くなったと伝わる内室熙子(ひろこ、,細川ガラシャの母)の墓。
境内からは琵琶湖が目前、坂本城が手に取るようにに望めたことであろう。
本堂奥の石庭。
客室用庭
光秀、熙子像
明智光秀は本能寺の変の後、山崎の戦いで自刃したと伝わるが、光秀の墓がある西教寺の
記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あって、旧暦6月の暑さもあり
そのいずれも顔面の皮がすべて剥がれていたという。 光秀のものとして実検された首級が
著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されているという。
岐阜県山県市中洞(旧美山町、大桑城、城山の北裏)には、山崎の戦いの後こちらへ逃げ延びた
光秀の墓があり、子孫により今なお慰霊行事が続けられている。
今年1月の光秀の生誕地を訪れた際のブログ
一説とはいえ、歴史に対する興味が拡がります。
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