早大生のポイント映画感想文
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ブログお引越し

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アメブロからFC2ブログに引っ越しました!
これからは↑の方をよろしくお願いします!

『ロード・トゥ・パーティション』は1分映画

ロード・トゥ・パーディション 特別編 [DVD]/トム・ハンクス,ポール・ニューマン,タイラー・ホークリン

¥3,465
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※前振りが長いので、まで読み飛ばすことをおすすめします!

サム・メンデス監督の『アメリカン・ビューティー』と『ジャーヘッド』が超好きなんでみてみたのですが、これはイマイチでした!(ちなみに、『アメリカン・ビューティー』は歴代アカデミー作品賞受賞作の中でいちばん好きな映画です)

「薄っぺらだなぁ」というのが率直な感想です。ではどのへんが薄っぺらなのか?

Wikipediaの『ロード・トゥ・パーティション』のあらすじに従って、この映画が如何に薄っぺらなのか見ていきたいと思います。リンク!→(・ε・)


(以下引用)
イリノイ州ロックアイランドで、妻と2人の息子と共に暮らすマイケル・サリヴァンは、良き夫・良き父でありながらアイルランド系マフィアの殺し屋という裏の顔も持っていた。マフィアのボスであるジョン・ルーニーは、サリヴァン一家を自分の家族のように溺愛していた。その一方で実の息子であるコナーに対しては冷ややかで、コナーはそれを苦々しく思っていた。

ある日、組織の幹部会で父から激しく自分のミスを攻め立てられたコナーは、父への恐れと、そんな父に自分以上に溺愛されるサリヴァン一家への嫉妬と憎悪の念を抱くようになりサリヴァンの妻と次男を殺害、。それを知ったサリヴァンは生き残った長男と共にコナーへの復讐を決意実の息子と、それ以上に愛したサリヴァン父子との間に板挟みになったジョンは実の息子を選び、サリヴァンの許に一流の殺し屋であるマグワイアを派遣。マグワイアの度重なる襲撃から逃れたサリヴァン父子は、かつて自分たちを愛してくれたジョンと、妻子の敵であるコナーを射殺。心身ともに憔悴しきったサリヴァンは息子と共に海辺の小さな家で一時の休息を過ごす。しかし突然サリヴァンの体を一発の銃弾が打ち抜いた。後ろを振り返るとマグワイアがいた。瀕死の状態でマグワイアを射殺したサリヴァンは、泣きじゃくる息子の腕の中で息を引き取るのであった。



この記事を書いた人は相当良い人だと思います。

下線のところがほんとに薄っぺらで見ていても伝わってこないのに、こんなに丁寧に書いてくれてます。「ひょっとして、これ書いたの関係者なんじゃないの?」と疑ってしまうくらい良心的な解釈!



まず一個目、「コナーがサリヴァン一家に憎悪を抱く」ところですが、これはドンである実の父が自分よりも部下であるサリヴァンの子供を寵愛したのが原因なのに、その描き方が薄っぺら。サリヴァンの子供が寵愛されている描写は序盤の一箇所「お通夜で一緒にカードをする」シーンしかありません。

次に二個目、「そんなドンがサリヴァン父子と実の息子で板挟みになった末に息子を選ぶ」ところですが、苦悩する描写が短すぎます。かなり苦しんだんでしょうが、見てる側としては即断即決に思えてしまう。

最後に、「サリヴァンは復讐を果たしたかに見えたが、マグワイアに殺されてしまう」ところは、薄っぺらというかベタすぎてため息もんです。こういう安易な不幸の塗り重ね方はほんとに辟易。韓流ドラマか!






そんな薄っぺらな『ロード・トゥ・パーティション』ですが、いちおう良いところもあります。それは、殺しの撮り方がめちゃめちゃかっこいい点です。流石は2002年アカデミー撮影賞!


特に、ドン役のポール・ニューマン(以下、新男)がトム・ハンクスに襲撃されるシーンは秀逸です。

雨が降る中、トムハンクスは新男を待ち構えていた。何人ものボディガードを連れた新男。彼が車に乗ろうとしたその時、トム・ハンクスは彼らを背後からマシンガンで襲撃する。応戦虚しく、ばたばたと倒れていくボディガードたち。しかし、新男だけは背を向けて静かに立っていた。

傘越しに撃たれるボディガードもかっこいいけど、諦観たっぷりにたたずむ新男も最高!幾度の修羅場をくぐり抜けた男の死に様は実に静か。新男の背中、哀愁ありまくりです。この1分間だけでもアカデミー助演男優賞もんだと思うんですけど、いかんせん作品自体が糞なので受賞には至らなかったのでしょう。



という訳で、『ロード・トゥ・パーティション』についてでした。
この映画を借りたら1h39mのところまで早送りして速攻で返却すべし!

『火天の城』で考える「邦画の駄目なところ」

火天の城 [DVD]/西田敏行,福田沙紀,椎名桔平


※余談が長いです。印からが本題

僕、苗字が佐々木って言いまして、今年の初詣は滋賀県の安土町にある佐々木神社に行ってきました。名前から分かるように佐々木源氏の氏神が祀ってある神社ですが、もちろん僕は源氏ではありません。農民の子です。ただ、うちのじいちゃんが自分のことを源氏だと言い張っていまして、そのゆかり(?)で佐々木神社にお詣りしにいくわけです。

っで安土に行ったついでに安土城址をみてきたら何だか無性にナショナリズムが高揚してきたので、『火天の城』という安土城築城物語の映画をみてみました。



この映画(というより原作の小説)が面白いのは、大工さん(岡部又右衛門・安土城を“建てた”人)を主人公においているところです。

ちょっと学をつけた小学生が「法隆寺を建てたのは誰でしょう!?」なんてクイズを出してきて、「聖徳太子!」と答えようものなら喜び勇んで「ぶぶー!大工さんでした~!」とほざき出すという日本でもトップクラスのくだらないやりとりがありますよね。本作は逆にそれをやってのけている点で面白いなぁと思います、逆に!



ただ、この映画には「主人公=大工」以外の面白さは微塵もありません。思うに、大作邦画にありがちな「駄目なところ」がぎゅっと凝縮されている作品です。今回は、よく言われる「邦画の駄目なところ」とは何なのか? これを、『火天の城』を見ていくことで解明したいと思います。



駄目① サブストーリーのノイズ化

映画という時間に制約がある芸術において、登場人物一人ひとりに固有のエピソードを挿入するのは作品のテーマを脅かす怖れが大いにあります。サブストーリーが、メインストーリーを(時間的に)圧迫してしまい、結果としてその作品のテーマが薄まってしまうんです。この現象を「サブストーリーのノイズ化」と呼びたいと思います。


さらに悪いことに、サブキャラが十分に描かれていない(≒魅力が感じられ無い)場合、ノイズ化したサブストーリーはそれ自体で深刻な問題を抱えてしまいます。それは、サブストーリー自体が全く面白くないということです。だって、現実世界でも赤の他人が死のうが生きようが何とも思わないでしょ?映画という仮想(創作)世界ならなおさらです。

もう話の軸はぶれるは、話自体つまんないはのダブルパンチ!!


ということで、以上のことを『火天の城』を例にとれば

・福田沙紀の恋バナ、および存在そのもの
・実は透破(くのいち)だった水野美紀
・緒方直人の切腹

が該当します。

特に「水野美紀=透破」はガチで意味不明。

また「緒方直人の切腹」については、「大工の生き様」「安土城築城の苦難」なんかを伝えるエピソードですが、いかんせん緒方直人の役自体に魅力が無いのでノイズ化していると感じました。


このような現象は、大作邦画にありがち。『踊る大捜査線』『BECK』『ルーキーズ 卒業』あたりを見て、「あのストーリーいるかぁ?」とか「あのキャラいるかぁ?」とか思った方は結構多いはず!!



駄目② 安すぎる特殊効果

日本は映画技術後進国なのでしょうか?
金がないのに背伸びしたがってるんでしょうか?

とにもかくにも、特殊効果が特殊効果とわかってしまう
(こればっかりは見てもらわないとわかりません…)

最近だと、『SP 野望篇』の特殊効果が安すぎるという悪評をよく聴きます。あの大傑作『十三人の刺客』でさえも、特殊効果が安すぎて(火牛の計のところ)若干興ざめしてしまいました。

もう無理してくれるな、邦画!
ハリウッドには勝てねぇよ!



駄目③ 寒すぎるキャスティング

役者が本業じゃない人がパッと出てくるのは、はっきり言って寒いです。しかも、それで演技がめちゃくちゃ下手だった時は目も当てられない。

『火天の城』なら、ココリコの遠藤章造が演じてた堺の豪商はひどい…。次長課長の河本準一の羽柴秀吉も、何だか製作者側の“媚びた”感じがして好きになれません。ただ、マエケンの白痴っぽい大工はいい味だしてたなぁと思います。

そもさん。
「寒すぎるキャスティング」といったら、僕は真っ先にあの超大作が思い浮かびます。

そう!20世紀少年!

(^ε^)




ということで、邦画の駄目なところを『火天の城』をdisることで考えていきました。

特に、①は深刻な問題だと思います。タレントをいっぱい出さなきゃいけない!見せ場をつくってあげなきゃいけない!など、色んな大人の事情が垣間見れますな!

『ライムライト』のメッセージ

ライムライト [DVD]/チャールズ・チャップリン

¥4,935
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「午前10時の映画祭」でみてきました。六本木まで往復600円くらいするのに、500円でみれるからこりゃ良い企画です。

僕も何本かチャップリンの映画をみてきましたが、いずれもDVD。今回が初劇場チャップリンでした。コメディってのはやっぱ劇場に限ります。他のお客さんの反応が直に伝わってくるから、面白いシーンはより面白くなるってもんです。なんといいますか、ナチュラルな笑い声SE付きで映画をみるって感じです。

っでこの『ライムライト』、チャップリン演じる落ち目のコメディアン・カルヴェロの笑いがことごとくすべっている。館内もしーんと静かか、時おり失笑に似た小さな笑い声が響くばかり。とにかく痛々しいんです、笑いが。

それもそのはず、『ライムライト』はこれでもかというくらいにカルヴェロ(=チャップリン自身)を「つまんない男」ブランディングし続ける。興行主に「あいつはもうオワコンだ」と言わせたり、カルヴェロに誰もいない劇場でスタンダップをやるという夢をみさせたりする。とにもかくにも「こいつは落ち目のコメディアンだ!」ってのを見せつけまくる。

そして、「つまんない男」をより(相対的に)つまんなくさせるのが自殺しようとしたところをカルヴェロに助けられた女性、元バレリーナのテリー。売れなくなった今の自分を投影してか必死に彼女を励ますカルヴェロ「人生は素晴らしいんだ!くらげにだって生きがいはある」。彼の決死の励ましが効いたのか、彼女はバレリーナとしてどんどん成功していく。まるで昔の自分を見ているようだ、しかし今の僕には仕事がない……。

そんな彼に大きな仕事が舞い込んできた。けど、それもすっかり有名となったテリーのコネ。彼女はカルヴェロに感謝するあまり彼に愛情まで抱いており、最大の恩返しと最大の愛情表現が「仕事をあげること」だと思っている。カルヴェロは自尊心を大きく傷付けられたに違いありません。しかし、そのことを言い出せない。言ってしまえばきっと彼女が傷つくと思ったからでしょう。

不器用なカルヴェロは、テリーの残酷なまでの愛情を“避ける”ために、彼女が昔片思いをしていた作曲家のネヴィルとの結婚をすすめる。しかし、それも叶わない。ネヴィルは私のことを愛してくれるのは嬉しいけど、私はカルヴェロを愛しているの。遂に、カルヴェロは彼女の愛に堪えられなくなり忽然と姿を消す。

しかし、スターの座に登り詰めたテリーの愛情はカルヴェロを見つけ出し「カルヴェロ復活ライブ」まで開かせるに至る。何十年ぶりだろうか、カルヴェロはかつての盟友(そしてライバル!バスター・キートン!)と共に超満員の観客の前で芸を披露し、万感の拍手と笑い声を一身に受ける。しかし悦に入ったのも束の間、ここで悲劇が起きてしまう。一気に高揚してきた彼は勢い余って舞台から転落してしまったのだ。しかし、しかし、決して芸をやめないカルヴェロ。

ここで一つ疑問なのが、「なぜ芸をやめなかったのか」ということです。結果としてこの転落がカルヴェロを死に至らしめます。落ちたときにきっとわかっていたはずです。「これは、やばい…」。「芸をやめなかった」理由は、落ちた瞬間「あ、このまま死のう」と考えたからだと思います。最高の舞台を作ってくれたテリーに「君がスターになれたのは君の力だ」ということを気付かせ、「もう自分を気遣わないで欲しい。あとは自分自身のためだけに生きて欲しい」と願ったからこそ、とっさに死を選んだのではないでしょうか。とにかく、僕はカルヴェロの死を「非業の死」とは認めたくはありません。彼の死には何か意味があると思うし、自身でその意味を持たせたと思うんです。そしてその意味こそ『ライムライト』、ひいてはチャップリンのメッセージでしょう。

では、その意味、この映画のメッセージとは何だったのか?

思うに、自分の人生は自分で切り拓けってことです。

誰かの助けが無くては生きていけないこともあります。テリーだってカルヴェロがいたからこそ、バレリーナとして再生できたのは確かです。しかし、テリーがスターになれたのは全てカルヴェロのおかげでしょうか。自分の実力と努力があったからこそあそこまでの名声を得られたのです。ラスト、もうこの世にはいないカルヴェロの前で一人最高の演技をみせるテリーの姿がそれを強く物語っています。

『ロボコップ』で考える公と私 (あとポール・バーホーベン論)

ロボコップ [DVD]/ピーター・ウェラー,ナンシー・アレン

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別に映画監督じゃなくてもいいんですけど、あるクリエーターを好きになるのって2パターンあると思うんです。一つは「自分をピンポイントで刺激してくれる作品を作り続けてくれるから」一つは「ころころ作風が変わってその人がどんな人なのかもっと知りたくなるから」ってのがあると思います。

簡単に言うと「作風にそそられるか」or「人となりにそそられるから」って感じでしょうか。

っで『ロボコップ』のポール・バーホーベンは間違いなく前者です。
(後者で僕が好きなのは北野武とかU2とかです)

今まで彼の作品は『ブラック・ブック』『スターシップ・トゥルーパーズ』、そしてこの『ロボコップ』を見ましたが、一貫した作風が見られます。もはや監督の性癖ともいっていいほど強烈な作風です。そんなポール・バーホーベンの作風は、下の2つで言い切れるでしょう。

①さりげなくグロい
②さりげなくエロい
③のくせに、意外と社会派


グロが売りの映画(スプラッターってなジャンルがそうですな!)とかエロが売りの映画(こいつぁ世界に五万とありますわな!)とかじゃないんです。ほぼコンテクストゼロからエロとグロをぶっ込んでくるんです。みていてずーっと「なにもそこまでやらなくても…。てゆか、やる必要ないじゃん…」って思いますよ、いやまじで、まぁ大好きだけど。




『ロボコップ』でそれが顕著に現れるのが「人を殺すシーン」。必要以上に残虐に殺し、かつその模様をカメラで追います。一発撃ちゃあ死ぬのに何発も何発も撃つ。映画のはじめの方で、会議中に2本足ロボが誤作動を起こして男を蜂の巣にするシーンなんかもうのっけから最低です(←褒めてます)。

けどまぁ、子供もみるSF映画ってことでさすがにエロはないのかなぁと思ったらやっぱりさりげなくある。ロボコップが美女を人質にとった暴漢を捕まえるときに、彼は何をしたか? これは酷いですよ…。答えは「美女の足の隙間に狙いを定めて、暴漢のちんちんを撃ちぬいた」です。




と言いつつも、これが意外と社会派ドラマだから見捨てておけない。テーマはずばり尊厳死あるいは公と私どっちが大事か?ってこと(尊厳死は『ミリオンダラー・ベイビー』もコレがテーマだったね!)。「延命措置」によってロボコップとなった警官マーフィーが、過去の記憶を取り戻していき苦悩する。

っでここが重要だと思うんですが、映画の最後の台詞。
ロボコップ「俺はマーフィーだ!」

人格を取り戻したマーフィーは果たしてロボとなってしまっていることを、ポジティブに考えてるんだかネガティブに考えているんだかわからない。ちゃんとした答えは明示されていませんが、僕が思うに「ロボになったことをどっちかというとネガティブに思っている」です。

というのも、マーフィーは完全に過去を取り戻した時点で、仮面を剥ぎとります。この行動は最後の台詞を強化するためのものと考えられるでしょう。つまり、自分が機械であることを忌み嫌い、一人間でありたいということを言葉だけなく態度でも示している

んじゃ、ちょっとのポジティブとはどっからきているのか? これは記憶を取り戻したマーフィーが生かされたことに絶望するわけではなく、その後も積極的に警官としての職分を果たしていることから、今後も悪を正せることへ喜びを感じているという意味でポジティブな気持ちもあるということです。

では最後に、【ポジティブ:ネガティブ】はどんくらいの比率かというと、考えるに【生前のプライベートの重要度:生来の正義感】と言えるでしょう。しかし、マーフィーにとってどっちが重いかはわかりかねます。




これは実に深い問題です。

機械となってしまったマーフィーは今後、生きがいをプライベートからは得られず、職業からしか得られない。

「人間、私生活が全てなのか仕事が全てなのか?」
「仕事のために死ねるのか?」


ロボコップになってしまったマーフィーはそんなことを僕たちに問いかけています。

「We are 0000!」の広告壁

0000fest
12月21日、中野ブロードウェイ3階のギャラリーHidari Zingaroにて0000festの1発目「We are 0000!」に行ってきました。「0000とはなんぞや!そもそもなんとよむんや!」という方は是非こちらを御覧ください。こりゃあ、想像のかなり斜め上を行ってます。→(・ε・)(^ε^)(・ω・)

展示されていたのは、0000の4方のポートレート、ロゴなどなど。全四回の展示の第一弾目ということもあってか「自己紹介」ってのがメインだったのかなと思います。「俺たちこれから凄いことするぞ!」みたいな熱い決意表明を感じました。

っでここがすげぇ!と思ったのですが、We are 0000!、自己紹介をするだけじゃなくてギャラリーの壁を広告にしちゃったんです。10cm×20cmくらいの企業や個人、はたまた大学の広告が色とりどり壁を埋め尽くしていました。この記事では広告壁の解釈を試みたいと思います。

(※こっから僕の解釈に入りますが、いかんせん眉唾ですよ!僕は美大出でもなけりゃ美術史を専攻しているわけでもない一介の経済学部生です!)


解釈(1)広告→作品→宮廷画家→広告→作品(以下無限ループ)

この広告壁、0000の一人である緑川さんに聴くとひとつ1000円の広告料を頂いているとのこと。ガチ広告です。それを作品にしちゃってるから、こりゃあおもしろいです。

ふつう作品ってのは作家が自弁でつくって、完成したら売っ払い制作費を回収するものです(たぶん)(銀行でお金を借りて作品をつくる人っていないはず!)。それを、売約済み(広告料が制作費《印刷代?》)の状態で作品をつくる。売約済みの「もの」を作品にしちゃう。順序が逆なんです。

これって、かつての宮廷画家とおんなじです。彼らは王侯なんかをパトロンにしてそっから制作費を捻出してたわけです。つまり「金→作品」。広告もこれに該当しますね。もちろん、出来上がった広告をみせてから金を取るのが世の中のルールってもんですが、「金を出す依頼者ありき」って点で「金→作品」は成り立つと言えるでしょう。

こんなことを書くと「何で宮廷画家の話をしたの?」となるでしょう。しかし、理由がちゃんとあります。彼らが熱心に描いたのは王侯のポートレートです。そして、「We are 0000!」に展示されている作品の主は4人のメンバーのポートレート。つまり、「広告主(パトロン)の金で作品(ポートレート)をつくった」という見方ができるのです。っで広告そのものも作品だから、これまたややこしい!

僕は広告壁をみて「広告が作品!?」という驚きと、ポートレートをみて「広告がポートレートに化けやがった!」という時間の流れをも含んだ驚き、この2つを感じました。


解釈(2)ギャラリーの壁はなぜ真っ白なのか!?

この広告壁をさらに際立たせたのが、30号くらいの真っ白いキャンバスの中央に控えめに描かれた0000のロゴ。一見すると「ただの白い四角」です。

ふつうギャラリーの壁ってほぼ例外なく真っ白なわけですが、どういうことか、それが反転してしまっている。「真っ白な作品」と「カラフルな壁」…なんでギャラリーの壁って白いんだと逆に考えさせられました、逆に。ほんとこれほど正しい「逆に」の使い方はないってくらい逆に考えさせられました。

僕のような国立美術館しか行かないアート音痴だと「ギャラリー=作品を展示する場」にすぎないってのが常識です。それが一気に崩れ落ちました。空間まるごと一個の作品、一個のアートにしてしまうから凄いの一言です。もうギャラリーの中、全部が全部アート。アートしかないアートな空間でした。



そんなこんなで僕は感動しっぱなしだったわけですが、一点だけ気になった点がありました。それは、「壁広告の色が名画から抽出されている」という点です。


コンテクストはどう解釈されるようアートに込められるべきなのか?

まずはこちらを御覧ください。一見ランダムに選ばれているように思われる広告の色にはちゃんと理由があるみたいです。→(^o^)

こうした試み自体は素晴らしいと思います。先に述べた①の宮廷画家のコンテクストがより強化されるからです。ただ、こんなこと言われなきゃわかりっこありません。実際に0000の方がtwitterで言ったから皆がわかったわけです。「広告の色は名画から抽出されてんだー!」

現代アートってのは基本ハイソな遊びだと思います。「作品に込められたコンテクストは何なのか?」を見つけるゲームで、それを考えたりするのが楽しいから僕はアートをみるのが好きですし、わかんなくても「なんか…すげぇ!」って感動が得られるから不勉強なりにも好きになれたりします。

っでここで問題にしたいのは「コンテクストはどう解釈されるよう込められるべきか?」ってこと。結論から言うと、僕自身は「鑑賞者が独自に解釈されるよう込められるべき」と思っています。なぜなら、そうじゃなかったら風流じゃないからです。

風流ってのは外国語でいうと「ユーモアがある」だとか「ウィットが効いてる」だとか「エスプリに富んでる」だとかって感じでしょうか。こういう状態ってのは「決して自分で説明しない」という大前提の上に立っています。

たとえば、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』っていう映画化もされた漫画がありますよね。物語のクライマックス、主人公田西はちはるを奪われた復讐として青山に決斗を挑むくだりがあります。そん時に田西は何をしたか?彼はモヒカンにしたんです。「なぜモヒカンにしたか?」は作中では描かれていません。しかし、『タクシードライバー』という映画をみたことがある人ならその理由は一発でわかるはずです。「田西はトラヴィスになったんだ…!」

この「田西=トラヴィス」ってのは鑑賞者に当たり前に共有されるべきであって、これを作中で言ってしまうことほど風流じゃないことはないです。作品の価値は半減するでしょう。

引用が長くなってしまいました。

つまり、「田西はトラヴィス」と言ってしまったのが「広告壁の色は名画から抽出されている」であり、言ってしまわないわからないつくりになってしまったのが爪の甘さだと思いました。(ほんと偉そうなことを言ってごめんなさい…)





ということで、「We are 0000!」の感想でした!

色んなことを書きましたが、まとめると「ほんといろいろと考えさせられる展示だった」ってな感じです!今後もじゃんじゃん新しい展示があるとのこと。しばらく中野に通う日々が続きそうです====3

『戦場のピアニスト』で痛感…芸は身を助く!

戦場のピアニスト [DVD]/エイドリアン・ブロディ,トーマス・クレッチマン,フランク・フィンレイ

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昨日、池袋でみてきました。

『シンドラーのリスト』『ライフ・イズ・ビューティフル』『イングロリアス・バスターズ』などなど、ナチスによるユダヤ人迫害を題材にした映画って多いですが、本作『戦場のピアニスト』はタイトルの通りピアニストってのがポイントです。

一言でいってしまえば、「芸を身を助く」ってコトワザを痛感させられた映画でした。

エイドリアン・ブロディ演じるシュピルマンは自身がピアニストとしてのキャリアがなかったら他の家族のように死んでしまっていたことでしょう。(もちろん、シュピルマンの忍耐力があればこそ生き残れたわけですが)



まず、ピアニストが「生きてくる」のがゲットーから強制(絶滅)収容所へ向かうとき。行ったら最後、ジェノサイドが待っています。しかしシュピルマン、家族と一緒にこれから収容所に行くところをユダヤ人ゲットー警察の知人に助けられ、ひとり収容所行きを免れる。

ただ、ピアニストだから彼だけが助けられたとは言い切れません。しかし、この警察官は何かとシュピルマン個人をよくしていることから、彼がピアニストだから助けたというのは大いに考えられることです。



次は決定的です。シュピルマンは、女優とバイオリニストの友人夫婦の力を借りて、ゲットーから脱出する。彼らはピアニストじゃなかったら確実に知り合えなかった人たちです。

ポーランドでも決して裕福な家庭とは言えなかった彼が、この夫婦のような上流階級と出逢たのにはひとえにその芸、ピアノのおかげなんですねー。



$早大生のポイント映画感想文-pianist

そして最後が極めつけ。廃墟のワルシャワで潜伏していたシュピルマンがドイツ兵に発見されものの、ピアノを弾いて助けられる。

もちろん、ドイツ将校ヴィルム・ホーゼンフェルトが良い人ってのは大いにあります。出会ってしまった人がたまたま良い人だったということです。ユダヤ人とわかるや否や殺してしまうことだって十分にありえます。

それがどういうことか、シュピルマンにピアノを弾かせる。

ここで重要なのは、仮にシュピルマンが上手くピアノが弾けなかったら(ピアニストだということが嘘だと分かったら)ドイツ将校は彼を生かしたかどうかということです。

僕が思うに、ピアノが無かったら殺されていたと思います。というのは、ドイツ降伏後に捕虜となった将校がシュピルマンの知人だというミュージシャンに「俺はピアニストを助けた!俺の名前はホーゼンフェルトだ!」と叫ぶシーンがあるからです。

つまりこの将校は、ドイツが負けるということを既に分かっていて、もし目の前にいるユダヤ人が高名な男だったら恩を売っておき、敗戦後に助けてもらおうとした、ということです。

えらくキツい書き方をしましたが、やったことは絶対的に良いことなので誰も彼を非難できませんよ!もちろん!(ちなみに、この人はイスラエルから「諸国民の正義の人」という称号をもらったそうです。ドイツ人では他にオスカー・シンドラーらがいます)



ということで、「芸は身を助く」って話でした。僕も子どもができたらピアノでもやらせようかな!

『ミリオンダラー・ベイビー』とレンブラントとカラヴァッジョ

$早大生のポイント映画感想文-ミリオンダラー・ベイビー
$早大生のポイント映画感想文-レンブラント自画像
$早大生のポイント映画感想文-聖マタイの召命

『ミリオンダラー・ベイビー』の凄さはその映像表現にある。クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン、この映画に出てくる人物には危うい美しさが漂う。

光と影を効果的に使って、ストーリーとテーマが持つシリアスさ重厚さといったものを観客にびんびんに伝える。蛍光灯ほど野暮な発明はないと言わんばかりに光と影が交錯するシーンが続く。

それはそれはまるで1枚の絵画の美しさが2時間続くような感覚。映画は絵画よりも多弁だから、第一等の評論家がつきっきり1枚の絵画の歴史と解釈をしてくれるような感覚。

この感覚は物語の終盤で極地に達する。イーストウッドがヒラリー・スワンクを生かすべきかどうかを神父に問うた時に流すあの涙。いや正確には涙ではない。顔の半分は光で照らされ哀しい眼がみえる、しかしもう半分は影でよく見えない。ただ“涙らしいもの”がみえるだけ。あの顔を切り取っただけで10億はくだらない。(ちなみに興収は大体100億だ!)

『ミリオンダラー・ベイビー』の光と影、これは監督イーストウッドの映画美学の一つの完成形だろう。





ということで、『ミリオンダラー・ベイビー』についてでした。今回はちょっとキザっぽく書いてみたぜ!思ったことをそのまま書いたんですが、読み返すと気持ち悪いすなにひひ


※ちなみに、上に載せた画像は1枚目は映画のワンシーン、2枚目はレンブラントの自画像、3枚目はカラヴァッジョの『聖マタイの召命』です!


※ちなみにちなみに、僕はこの映画が大好きなんですけど、ネットでものすごい酷評を見つけました。すっごく面白い感想だったのでのっけときます!→(・ε・)

トラン・アン・ユン監督の映画理論

うちの大学の(たぶん)看板授業に安藤紘平先生のプロデューサー特論ってのがあります。人気がありすぎて履修するのも一苦労、「もぐる」生徒がたくさんいることでも有名な授業です。

っで、その授業が12・9に大隈講堂で公開授業をやったんです。

この公開授業のゲストがやたらと豪華で、『ノルウェイの森』のトラン・アン・ユン監督とプロデューサーの小川真司さん犬童一心監督がゲストとして来ました。っでさらに!授業の後半には松山ケンイチもやってきたから、うちの大学もたまには粋なことをするものです。僕も女の子に混じってきゃーきゃー言ってしまいました。もうかなりのイケメンでしたよ…!

授業の詳しい内容については『ノルウェイの森』の感想の時にでも書きます。今回はトラン監督が話した映画論がとても興味深かったんでその話を!




$早大生のポイント映画感想文-トラン監督
ベトナム系フランス人。代表作は『青いパパイヤの香り』(カンヌ・カメラドール賞)、『シクロ』(ベネチア・金獅子賞)など。かなりのイケメンではじめ見たときは俳優かと思った(笑)

そんなトラン監督ですが、こんなことを言っていました。
(通訳の方の訳に僕が若干手を加えています…ご了承!)



「映画には3つのレベルがある。レベル1がストーリー、2がテーマ、3が映像表現。1に限界があるから2を定め、1と2を伝えるものとして3がある。そして、3がいちばん映画作りで難しい」



ちょっと補足するとこんな感じです。

レベル1&レベル2
映画の根幹にはストーリーがある。しかし、2時間という時間的制約の中で1つのストーリーを語り切るのは困難であるために、テーマを設けてそのテーマの中にストーリーを終着させる。

レベル3
といってもレベル1と2だけだと、2時間で読める漫画や小説と変わりない。映画には映画にしかできない表現、映像表現(レベル3)があり、これを以てストーリーとテーマに彩りを与える。そして、この映像表現が映画の本質である。




これは、僕が映画の感想を書くときに大いに役立つなぁと思いました。トラン監督の3レベル理論に沿って映画をみれば、直感で感じる「映画のおもしろさ(つまんなさ)」の原因がよくわかるからです。

「なんであの映画はつまんなかったんだろう?」と思ったときは、3つのレベルの内のどれかに問題があるということになります。僕が以前、岡村隆史主演の『てぃだかんかん』を散々disりましたが、今読み返すと「テーマ不在」と一言でつまらなさを片付けられます。いやぁーもっと早くこの理論を知りたかった…!




というわけで、トラン監督の映画理論についてでした。みなさんも参考にしてみてはいかがでしょうか!?自分の感情を自分の考えにすることができますよー。

『パッチギ!』の誤解




有名な映画レビューサイトで僕もよくみるサイト。

Yahoo!映画/Amazon.jp/みんなのシネマレビュー

これらのサイトに載っている『パッチギ!』のレビューの中には一部どうしようもないものがあります。以下、Yahoo!映画より「お役立ち度(レビューに対するレビュー機能)」が非常に高いレビューの引用。




「あなたを忘れない」さながらの反日映画

(前略)朝鮮人に頭を下げながら近づいていく日本人を映し出すことで自虐的史観をさらに植えつけようとしている。日本の過去の犯罪については暗示されているのに在日の犯罪率や脱税などの問題は一切描かれていない。

以上のように朝鮮寄りの話の流れになってますが、別に朝鮮人が日の丸を焼い
て抗議したからって機嫌を取らなくてもいいのですよ。
彼らは政府から歪曲された反日教育を受け洗脳された人たちですから・・・
とても日本人が製作したとは思えない反日映画でした




こういったレビューは何もこの人に限らず、他にも数多く投稿されています。

はっきり言って、本作をみてこのように感じる人には芸術を鑑賞する素養が全くない。審美眼のかけらもない。赤字の部分がその根拠であり、本作を誤解した結果です。以下、赤字に対して反論する形で、『パッチギ!』がどういう映画なのか解説します。

まず、赤字を要約すると「『パッチギ!』は朝鮮よりの映画」といった感じでしょうか。

答えから言うと、『パッチギ!』は日朝の友好を模索した映画であり、どちらか一方に肩入れした内容にはなっていません。では、その論拠はどこにあるのか?みていきましょう。




まず、本作を読み解く上で重要なのは登場人物たち。登場人物は以下の3パターンに分かれます。(一部、毛沢東思想の信奉者である高校教師(光石研)などが出てきますが、彼らは当時の時代風景を伝えるための役にすぎないので一端置いときます)

①朝鮮よりの人
②日本よりの人
③2つをつなげる人


①と②の人たちは朝鮮人であり日本人です。朝鮮人が朝鮮よりの発言をするのは当然なことですし、日本人が日本人よりの発言をするのは当然なことです。また③の人たちはというと、塩谷瞬・エリカ様、そして松永京子が演じたアンソン(高岡蒼甫)の恋人・桃子がいます。

これらを踏まえると、いくら作中で「日本人悪い!」と言ってもそれは朝鮮人のセリフなのでバイアスがかかっていることがわかります(その逆も然り)。しかも、出てくる登場人物は(日本人役にせよ朝鮮人役にせよ)教養があるとは思えない人たちばかりなので、彼らが正しい歴史認識を持っているようには思えません。

そのため、

作中での朝鮮よりの発言をもとに「この映画は朝鮮よりである!反日である!」というのはあまりにも早計。と言えます。

木を見て森を見ず!




では、『パッチギ!』の登場人物はパターン分け出来るんだよってことが分かった上で、肝心のストーリーの方を見ていきましょう。僕が重要だと思うシーン(作品のテーマを決定づけるシーン)は以下の2つです。いずれも終盤。

①鴨川の乱闘
②桃子の出産


一つずつ見ていきます。


①鴨川の乱闘

鴨川を挟んで朝鮮人と日本人で大喧嘩をする。物語は朝鮮高校vs府立高校という構図でのっけから進んでいきます。つまり、日朝の対立を喧嘩に当てはめている。なので。この最後の乱闘はその対立を締めくくるという点で非常に重要なシーンです。

しかし「この喧嘩の勝敗はどうだったか?」というと、引き分け。(桃子の出産に立ち会うために戦線を離脱したアンソンに彼の仲間(浪岡一喜)が「引き分けだった」と言う)

最後の最後でどちらか一方に勝ちを与えていないことから、「本作は日朝どちらにも肩入れしていない」ということが分かります。


②桃子の出産

男が戦っているなら、女も戦っている。

桃子は男の子を出産しますが、産まれた赤ちゃんは何人でしょうか?

日本と北朝鮮の二重国籍です。

そしてアンソンと桃子は出産を共に喜び赤ちゃんを慈しむ。これは、愛情は国籍を越えるってことを表していると思います。


さらに言うと、この出産は乱闘の直後の出来事です。

「戦っている」を共通項に、桃子をレペゼン日本人、アンソンをレペゼン朝鮮人とするとします。すると、「さっきまで大喧嘩していた日本人と朝鮮人が、今は手を取り合って日本人と朝鮮人のハーフの出産を喜んでいる」構図ができる。

つまり、「赤ちゃん=日朝友好のシンボル」と解釈することができます。





以上、このように見ていくと『パッチギ!』は日朝友好を模索しており、なおかつどちらか一方に肩入れしていないことが分かります。

ということでおわり!続編もありますが絶対に見ないほうがいいよ!
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