『ミリオンダラー・ベイビー』とレンブラントとカラヴァッジョ
『ミリオンダラー・ベイビー』の凄さはその映像表現にある。クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン、この映画に出てくる人物には危うい美しさが漂う。
光と影を効果的に使って、ストーリーとテーマが持つシリアスさ重厚さといったものを観客にびんびんに伝える。蛍光灯ほど野暮な発明はないと言わんばかりに光と影が交錯するシーンが続く。
それはそれはまるで1枚の絵画の美しさが2時間続くような感覚。映画は絵画よりも多弁だから、第一等の評論家がつきっきり1枚の絵画の歴史と解釈をしてくれるような感覚。
この感覚は物語の終盤で極地に達する。イーストウッドがヒラリー・スワンクを生かすべきかどうかを神父に問うた時に流すあの涙。いや正確には涙ではない。顔の半分は光で照らされ哀しい眼がみえる、しかしもう半分は影でよく見えない。ただ“涙らしいもの”がみえるだけ。あの顔を切り取っただけで10億はくだらない。(ちなみに興収は大体100億だ!)
『ミリオンダラー・ベイビー』の光と影、これは監督イーストウッドの映画美学の一つの完成形だろう。
ということで、『ミリオンダラー・ベイビー』についてでした。今回はちょっとキザっぽく書いてみたぜ!思ったことをそのまま書いたんですが、読み返すと気持ち悪いすな
※ちなみに、上に載せた画像は1枚目は映画のワンシーン、2枚目はレンブラントの自画像、3枚目はカラヴァッジョの『聖マタイの召命』です!
※ちなみにちなみに、僕はこの映画が大好きなんですけど、ネットでものすごい酷評を見つけました。すっごく面白い感想だったのでのっけときます!→(・ε・)