早大生のポイント映画感想文 -2ページ目

『火垂るの墓』の種明かし

火垂るの墓 [DVD]/辰巳努,白石綾乃

「4歳と14歳で、生きようと思った」

『火垂るの墓』のキャッチコピーです(by糸井重里!)。今回はこのコピーを元に本作を種明かしていきたいと思います。もっぱらの論題は「清太の生き残るためのプラン」と「プランの実行方法の是非」の2つです。


1. 清太の生き残りプラン

14歳の清太は何も希望を持たずに4歳の節子と生きようと思ったわけではありません。節子も生かさなければならなず、親戚に頼ることもできない清太でしたが、彼には生き残るためのプランがありました。

そのプランの骨子は以下の2つです。

①父の帰国
②母の7000円


(※補足…清太と節子の父は海軍軍人でかなりのエリート、空襲で死んだ母は2人に7000円の貯金を残していた。ちなみに劇中のセリフを頼りにすれば、7000円は米2斗(≒30kg)を買える額)

これらは並列するものではなく、重要度でいうと①>②です。つまり清太と節子の生き残るための唯一のプランは「父が帰国するまで母の7000円を使って生活する」ということです。


しかし、これが本作の「救いようのない映画」たるゆえんなのですが、父が戦死してしまう。

つまり、清太のプランは始めから破綻していたということになります。

ということで、「なにも清太は自暴自棄になって節子と二人で生きようと思ったわけではないよ」、「ちゃんとプランがあたんだよ」ということでした。ちなみに僕個人の意見としては、このプランは考えられ得る最上かつ唯一の策だったと思います。


では、これを踏また上で「清太のプランの実行方法は正しかったのか?」をみていきます。



2. プランの実行方法の是非

彼のプランは「父が帰国するまでに母の7000円を使って生活する」ということですから、その評価方法としては以下の2つが挙げられます。

①父の帰国の目処をどの程度予測することができたか?
②母の7000円を有効に使えたか?



①については、清太はその努力を全くしていません。

西宮の親戚の家を(節子のために)飛び出したのはやむ無しとしても、一家との関係を断絶してしまったことで俗世間との繋がりを完全に絶ってしまいました。清太のいとこは(軍需工場の?)工員だったので、戦局についてある程度彼づてに知ることもできたでしょう。

しかし、そもそも清太は父の帰国の目処を知る気は毛頭無かったとも考えられます。

というのも、戦局が悪化しているのは周知の事実であるにも関わらず、清太は「父は絶対に帰ってくる」と思い込んでいたからです。これは、物語の終盤で人づてに終戦を知った清太が気を取り乱す描写から窺い知れます。

周りの人間がバカスカ戦死している報も清太は聞いているはずで、自分の父だけは例外だと思い込むのは都合のいい解釈です。14歳という年齢を考えると仕方がないと言えなくもないですけどね…。


②については、致命的なミスを犯しています。

これは僕が本作を見ていて最も歯がゆかった点なのですが、
7000円を使い切る前に節子が死んでしまう

清太が街まで3000円の買い物をしている間に節子が死んでしまいます。物語は節子が死んだ時点で終わってしまいますが、清太は絶望の淵に立たされたことでしょう。3000円分の食料にも全く手が付けられなかったに違いありません。

また、もし仮に清太の「帰宅」が間に合っていたとしたら、プラン自体は破綻していたとしても、2人は助かったかもしれません。

物語の序盤に、神戸駅(?)で清太が死ぬのですが、その時の通行人のセリフでこんなのがありました。「もうちょっと生き延びりゃアメリカさんが来るのに」

このセリフを頼りにすると、「アメリカが来るまでに母の7000円を使って生活する」という決して想定できない「プラン」に清太が乗っかることができれば2人は死なずに済んだという仮説が成り立ちます。

こう考えると、あの3000円が間に合わなかったことが本作最大の悲劇だとも言えるでしょう。(←結論!!!)




ということで、久しぶりのブログ後進は『火垂るの墓』の種明かしでした。僕は何も清太を糾弾しているわけでも、本作を貶めようとしてるわけでもないのにはご留意願いたい!

『仁義』はみんなにパクられすぎ

仁義 [DVD]/アラン・ドロン,イヴ・モンタン

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監督はジャン・ピエール・メルヴィル!主演はアラン・ドロン!

本作の感想についてですが、ジャン・ピエール・メルヴィル監督のファンサイトにあるレビューがえげつない程素晴らしいです(もしかして、管理人さんはプロの文章屋…?)。なので、そちらを見ることを激しくおすすめします!

http://melville.nomaki.jp/lecerclerouge.html



というわけで今回は、「『仁義』はみんなにパクられすぎ」と題しまして、本作が如何に後進の作家たちに影響を与えたのか!?ってのを書きます。

ここでちょっと、仁義を観た直後の僕のツイートをみます。


アラン・ドロン主演の『仁義』、セリフ&音楽ほとんどなし!これぞいわゆる“ノアール”ってやつなんだなぁ。静か過ぎてつまんなかったけど、ビートたけしやジョニー・トーが本作を下敷きにしているのは明らかぁ。本作のおかげで、後進たちが静に対する“動”ってのを発明できたのだなぁ(どやぁ)。


『仁義』の特徴としまして、

①ほとんど喋らない  →10分近くずっと無言なんて当たり前
②感情を表に出さない →銃を突きつけられても全く驚かない


ってのが、あります。

ものすごく静かでカッコいい映画です。口にヒゲを蓄えたトレンチコート姿のアラン・ドロン、そしてゆっくりとした所作でジダンに火をつける…カッコ良すぎるよ!

ただ、本作はストーリーが結構複雑なので、セリフや感情表現がほとんどないのが過度な説明不足になっているのはいただけません。鑑賞者には一定の読解力が要求されます。


とまぁ、このように一つ一つの要素を見ていけば光るものはあっても、ストーリー全体を見れば『仁義』は失敗作だなぁと思います。




ただね!『仁義』がもしこの世になかったらと思うとぞっとする!
誰かが言った「失敗は発明の父」ってのは、映画史においてはまさにこの『仁義』のことをいう!

なぜならば、本作を明らかに下敷き(&反面教師)にしたであろう傑作が世にはごろごろとあるからです。その例として、『エグザイル/絆』と『ソナチネ』が挙げられます。

両作共に共通するのが「静と動」の対比です。

『仁義』のアラン・ドロンのように、無口&無感情な男ばかりが出てくるのは共通します。しかし、これらの作品は終始静かなわけではなく、突如として激しい銃撃など躍動感あふれる表現が出てきます。これが、静に対する動です。

『仁義』はクライム・アクションがあるにしても、ものすごく静かです。そのためか、観ていて変わり映えがなく飽き飽きしてきます。それに対し、ジョニー・トーや北野武は、静を中心に置きつつも、動も挿入して映画全体にメリハリをつける。

メルヴィル監督がアウトロー映画の中で「静」を発明したからこそ、後進たちが「静と動」を発明できたのではないでしょうか。

(また、『ソナチネ』に限って言えば、『仁義』における「ストーリーが複雑なのに、説明不足にしてしまった」問題を、「ストーリーを(半ば)放棄する」という変わった形でクリアしています。)




というわけで、『仁義』についてでした。

決して面白い映画ではないけど、多くの傑作たちのご先祖様としてこれからも愛され続けていく、そんな映画です。オススメ!

『ナイトミュージアム2』で知的好奇心を刺激するんだ !!!

ナイト ミュージアム2 (特別編) [DVD]/ベン・スティラー,ロビン・ウィリアムズ,エイミー・アダムス

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タイトルに「知的好奇心」なんて物凄く痛々しい言葉を使ってます。すごく恥ずかしいです。あー!うんこ!うんこ!

以下、スノッブな物言いをすると思いますが、生あたたかいお目目で読んでくださるとありがたいです。あー!うんこ!うんこ!



僕は本作『ナイトミュージアム2』がたまらなく好きなんですが、この映画を全人類すべからくにオススメする気は毛頭ございません。というより、本作は全年齢向けの映画ですが、前提となる知識がないと楽しめないと思います。

っで、本作を観て楽しめる人ってのはズバリ
「歴史にちょっとでも興味がある人」、この一点に尽きます。


「博物館の展示物が動き出す!」ってお話で、ナポレオンやイヴァン雷帝(もとは蝋人形)が主人公の行く手を阻んだり、アインシュタイン(もとは首ふり人形)が謎解きの助けをしてくれたりと色んな偉人たちが出てきます。

なので、そもそもナポレオンってどんな人か分からない方and分かろうともしない方には意味プーですし面白さも十分伝わらないでしょう。




っで、「どんな人が本作を楽しめるか!?」を書いたところで、お次は本作がどう知的好奇心を刺激するか!?」ってことです。あー!うんこ!うんこ!

『ナイトミュージアム2』っていうのはアメリカ映画です。ってことは、“あの歴史の浅い”アメリカ合衆国ではどんな人が有名なのか?が本作の登場人物から窺い知れます。

こりゃあ、海外経験もないし外人の友達もいない僕としては大いに気になるところです!

てなわけで、みなさんはこれから紹介する人を知っていますか!?
みーんな、映画でメインキャストとして出てくるアメリカの超有名人です(たぶん!だって全員ブリタニカ大百科に載ってるもん!)


アメリア・イアハート(1897~1937)
$早大生のポイント映画感想文-アメリア

1927年に女性初の大西洋横断飛行に成功した人です。彼女の偉業はアメリカの多くのマイノリティを勇気づけました。

本作では、主人公ベン・スティラーを助ける勇敢なヒロインとして登場します。頼りがいがあって、けど乙女チックなところもある素敵な女性です!



カスター将軍(1839~1876)
早大生のポイント映画感想文-カスター

南北戦争のヒーローで、インディアン相手に戦争をしてコテンパンにやられて死んでしまった人です(この戦いを「リトルビッグボーンの戦い」っていいます)。

本作では、明らかに無能なんだけど脳天気な性格がどこか憎めない“おめでたい奴”として出てきます。お笑い担当!



ジェデダイア・スミス(1798~1831)
早大生のポイント映画感想文-ジェダイア

西部開拓時代の探検家で、ソルトレーク~カリフォルニア間に至る道を“発見”した人です。

本作では、ミニチュアサイズで登場します(カウボーイルックで、『トイ・ストーリー』のウッディみたい!)。ベン・スティラーの大親友で、ストーリーにおいても重要な役割を果たします。





どうでしょう!?
3人とも知ってましたか!?

みーんなアメリカの超有名人です。たぶん!




ということで、『ナイトミュージアム2』についてでした。

こーゆー映画を親子で観に行って、ギャハギャハ笑ったりシクシク泣いたりしながらちょっとお勉強もできるなんてアメリカは良い国だなー。たぶん!

『崖の上のポニョ』の違和感





↓のつぶやきが僕の鑑賞終了直後の“違和感”です。


『崖の上のポニョ』の違和感。本作は現実と仮想が“共存”してしまっている。現実世界の大人たちが、仮想世界の半魚人を見て恐怖や驚嘆しないのはおかしい。この点『となりのトトロ』では、「子供にしか仮想を享受できない」という設定により、違和感なく現実と仮想を繋げられている。
6:31 PM Sep 27th


アニメの「現実」と「仮想」に関する言及ですが、なにもアニメに限らず全ての物語(実写映画であろうと、アニメ、漫画であろうと)は以下の3パターンに分類できます。

①現実をモチーフにした作品
②仮想を創り上げる作品
③現実をモチーフにしつつも、仮想も創り上げる作品

簡単に言うと、

①現実
②仮想
③現実&仮想


ってことです。

実写映画の場合は①現実が最も多く、アニメや漫画となると②と③の比重が比較的多くなると思います。

当たり前のことですが、たとえばポニョというキャラクターを実写で見せようとすれば相当な労力が要るわけで、仮想を創ろうと思えばアニメや漫画などの「絵で描く」という手法はまだ楽だと考えられます。だからこそ、②③のような作品にはしばしばアニメや漫画があてがわれるのでしょう。




※こっから『崖の上のポニョ』について!




『崖の上のポニョ』は「③現実&仮想」の作品です。

宗介たちがいる世界は現実がモチーフであり、ポニョたちがいる世界は宮崎駿が創った仮想です。また、これと同じ③のパターンにあたるジブリ映画として『となりのトトロ』が挙げられます。

っで、僕が本作にものすっごく強い違和感を覚えるのは現実と仮想が共存してしまっている点

「共存」というより「ごちゃまぜ」と言ってもいいかもしれません。

現実に棲む人間(特に大人)が、何か超越的な存在(作家たちはこれを仮想として創り上げる)を前にした時、果たして狼狽せずに平静を保てるのか?

もちろんそんなことは現実ではあり得ません。(だからこそ、超越的な存在を物語に登場させる際は、その存在が当たり前になるように、物語全てを「仮想」にしてしまう②の方法がしばしばとられます)

しかし、現実&仮想の『崖の上のポニョ』ではあり得てしまう。これが実に良くない。それでは、「あり得てしまう」描写をいくつか見ていきたいと思います。




まず、「宗介がポニョを発見し、ポニョの魔法によって怪我が治癒する」ところ。これは全然OKでしょう。子供ってのは、純粋無垢な存在ですからね。子供には仮想を現実的に受け入れてしまう性向があります。僕自身、小6までサンタさんを信じていましたし。

ただ、「宗介の母ちゃんリサが、半魚人状態のポニョを見て不気味がらずに受け入れてしまう」ってのはおかしい。

また、リサだけでなく町の大人たちのほとんどが、次々と起こる現実離れした出来事(ポニョの存在意外にも、大津波や古代魚の発生)になんの違和感も覚えない。これは酷い。完全に現実と仮想がごちゃまぜになっています。

中途半端に「現実」を取り入れるから、こんな破綻がおこったんでしょう。仮想が現実を完全に侵食しています。

(↓図にしてみたよ!)
$早大生のポイント映画感想文-ぽにょ




っでね。『崖の上のポニョ』と同じ「③現実&仮想」の物語である『となりのトトロ』はこの問題を見事に“回避”しています。



『となりのトトロ』がスゴイのは、
子供=現実と仮想を行き来できる唯一の存在」と設定しているところ。

先程述べたように、子供なら「見える」という設定は、妙に納得してしまいますしね。

(↓図にしてみたよ!)
$早大生のポイント映画感想文-トトロ

現実の良心ある大人が超越的なもの(トトロ・ネコバスなど)をそもそも見ることができなくしてしまうことで、現実と仮想を違和感なく両方見せることができます。こいつぁかなりスゲェ!

これぞ、大人も子供も楽しめる映画だと思います。




というわけで、『崖の上のポニョ』についてでした。うーん、宮崎駿の才能は『千と千尋の神隠し』を最後に枯れたのか……!!!

『ゲド戦記』には無かった「ジブリの良さ」とは?

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まず、僕の考える「ジブリの良さ」とはなんなのか?そして、その良さが『ゲド戦記』にはどのような形で現れていないのか?

これらはtwitterでつぶやいたので、まずはそれをのっけてから本ブログで補足説明します。



【ジブリ(あるいは宮崎駿)の良さ】大別して2つある。一つは「2時間たかだかで超広大な世界を創り上げる」点、一つは「1シーン1シーンのディテールに超こだわる」点。前者なら『もののけ姫』、後者なら『千と千尋の神隠し』がその好例として挙げられる。(ドヤ!)
1:39 PM Sep 24rd webから

先のツイートを踏まえた上で『ゲド戦記』の感想→2つの良さがまるでない。物語はアレン側(善)とクモ側(悪)に二極化しているし、映像は大体だだっ広い草原か無機質な砦。これじゃあ、観ていて楽しくはない。おまけに、物語の核となる「竜」もイマイチどんな存在か伝わってこない。 (ドヤ!)
1:41 PM Sep 24rd webから




最初のツイートで、ジブリの良さを

①2時間たかだかで超広大な世界を創り上げる点
②1シーン1シーンのディテールに超こだわる点


としました。



①の例で『もののけ姫』を出しましたが、あれはものすごく広い世界観を提示しています。

舞台は、サンの棲む「シシ神の森」とエボシが経営する「エボシたたら」がメインであり、そしてエイリアン・アシタカがこの2つを行き来し繋げます。いうなれば、この3側面(大別すれば2側面)しか“映像の中では”展開しません。

しかし、セリフなどからはもっと広い世界が享受できます。

たとえば、エボシたたらは「唐傘連」という組織に従属し、さらに唐傘連は「天朝」とよばれる大きな権威の下にあることがわかる。たった2時間で『もののけ姫』は、直接は描写されない「何か大きなもの」を観客に感じさせます。これはスゴイ!




②に関してはもっとわかりやすいかもしれません。

『千と千尋の神隠し』の湯場のディテールは精緻を極めています。「そんなところまで書き込むか!?」の連続です。これは、言葉では説明しようがないので、是非とも本編を観て画面の隅々まで眼を通していたただけばと思います。

また、この前本ブログでは『借りぐらしのアリエッティ』を散々こき下ろしましたが、この映画は「ディテール」の点で言えば、他のジブリ作品に引けを取らない出来ではあります。「小人の世界をこう表現するか!」と驚きの連続でした。

(けど、ストーリーが糞!詳しくは→『借りぐらしのアリエッティ』はこう改題しろ!




とまぁ、以上が僕の考える「ジブリの良さ」ですが、『ゲド戦記』にはこれらがほぼ皆無なんですねー…。こっから2番目のツイートについてです。

①の観点から云えば、物語は善(アレン側)と悪(クモ側)の2極化しすぎるきらいがあり、「善を浮きだたせるためにわざわざ悪をつくった」感じが否めません。

というのも、善サイドにはアレン・テルー・ハイタカと良いキャラが揃っているのに、悪サイドはどうでしょうか?少なくともクモくらいしかいません。ただでさえ、2極しかなく狭い世界観なのに、その2つの内の1つである悪に魅力が無ければ、善も引き立たないと思います。



②に関しても絶句ものです。

画面に映し出されるのは、だだっ広い草原、もしくは無機質なクモの砦ばかり。ジブリのあの「ゴチャゴチャした感じ」がまるで無い。強いて言えば、町「ポートランド」の市場の活気なんかは観ていて楽しかったですが、それもほとんど映し出されない。

これでは、観ていて退屈です。




っで、これら①と②を抜きにして、ストーリーだけ追ってみても実に酷い。

先程、『ゲド戦記』は2極化し過ぎた世界だと言いましたが、それを打破する存在として「竜」がいたと思います。しかし、その竜も物語の終盤にちょろっと出るだけ。竜がどのような作用を人々にもたらすのかもわからないまま、勝手に出てきて勝手に帰る。

監督の駿の息子は「原作を知らない人は観るな!」と言わんばかりの演出をしている。

思うに、竜を起点に世界に広がりをもたせればよかったのでは!?




というわけで、『ゲド戦記』は何から何まで糞な映画でした。

ただ、アレンとテルーが打ち解けるシーンは良かった!わかりあえない二人を「歌」が繋ぐってのは実に情緒的で素敵です!しかも手嶌葵の声が実に良い!ただ、それだけの映画でもある・・・。

(いやはやしかし、今日はノンストップでブログ書けたぞ…!)

『監獄島』のある重要なセリフ

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今回は映画評論家ばりに映画の紹介をしてみるよ!

アメリカのプロレス団体WWEが制作した、死刑囚10人が無人島でリアルサバゲーをするお話です。

サバゲーのルールはいたって簡単。「30時間以内に自分以外の9人を殺さなければ、足に仕掛けてある爆弾が爆発する」というもので、基本的には肉々しいアクションが売りの映画です。

ちなみに、これって、『バトル・ロワイアル』のモロパクリですね!

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そんな陳腐な映画かと思いきや、本作には実にユニークな点もあります。

それは、このゲームを仕組んだのは豪腕TVプロデューサーという点(ちなみに彼は悪役)。10人の死刑囚のサバゲーはインターネットで全国にリアルタイム配信されます。

っで、これが本作の立派、というよりA級映画たる由縁なんですが、「リアルな暴力を配信していいのか?」という社会派なメッセージが込められているんですねー。

アクションがいちばんの見所ですが、豪腕プロデューサーの下で「生中継」に携わるエンジニアたちが、徐々に自分たちのやっていることに疑問を感じ始めていくのもこの映画の醍醐味!




とまぁ、社会派な一面もある本作ですが、ひとつ物凄く“重要な”セリフがあったなのでその紹介&検討をしていきたいと思います。

このサバゲーを企画したプロデューサーのセリフです。彼は、サバゲーの倫理的な是非を識者(?)に尋ねられこう答えます。


「昔から人々は暴力を見たがるものだ」


…確かに!

ローマ時代から「パンとサーカス」つって剣闘士の試合が大人気だったし、中世でも騎士たちの戦争を農民がピクニック気分で見ていたっていいますしね。(詳しく知りたい君!Googleで「剣闘士」「百年戦争」と検索するんだ!)

現代においても、たびたびその是非が議論される「有害」ビデオゲームなんてのも、もともとの人間の性からすりゃあ、まかり通って当然といえば当然です。




けど、そんなことはどうでもいいんです!




問題は、本作『監獄島』がWWE制作だということ。

(スポーツではない)プロレスってのは、客観的にみて暴力で稼ぐ商売であります。そんな商売をしている人たちが「昔から人々は暴力を見たがるものだ」というネガティブなセリフを準主役級の人物に言わせる。

これは、何を意味しているのか!? 一見して、自分たち(WWE)の不利益になるとも捉えられるセリフなのに、なぜこんなことを言わせたのか!?

結論から言います。

このセリフはWWE、世界最大のプロレス団体による「プロレス=八百長宣言」です。ドヤ!

「映画の中で起こす」リアルな暴力(殺し合い)をネガティブなもとして観客に伝えることで、プロレスというのは筋書きがあらまし出来ている「安全な暴力」だと暗にアピールするためのセリフではないでしょうか。

簡単に言うと、「暴力イクナイ! けど、プロレスは安全! だからみんなマネしちゃやーよ♪」ということです。(簡単に言い過ぎちゃったかなぁ……)





ということで、『監獄島』についてでした。こんなB級テイストしかしないのに、A級に仕上がっている映画は中々ないぞ!良作!!!

『ツォツィ』は心理描写が甘すぎる

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こんなカス映画がアカデミー外国語映画賞をとるなんて当時のアカデミー会員は眼が腐っているんでしょうか。

本作の何がダメって、いちばんは心理描写の甘さです。

誰かが、今までの考えを改めて、何か新しい行動をおこす。左の文の読点(、)の位置に心理の変化があるわけで、そこをきちんと描写しないとストーリーが崩壊してしまいます。「あいつ、なんでいつの間にこんなことやってんの!?」となってしまう。

では、この心理描写、本作が如何に出来ていないかを見ていきます。




①主人公ツォツィが鼻から悪党に思えない

本作は、赤ん坊をGETした悪党がこれまでの所業を悔い改める話ですが、「どうしようもない悪時代→赤ん坊GET→悔い改め」の過程でツォツィがどれほど改心したのかがあまりにも伝わってきません。

これは、GET前のツォツィの超絶悪モードさが全く描かれていないためでしょう。序盤はもっと悪に描いていれば、相対的に心理の振れ幅が増したと思います。図で説明すると↓のようになるよ!

$早大生のポイント映画感想文-ツォツィ




②赤ん坊をGETしたことで、いい奴になったとは思えない

これがいちばんひどい。

再び、赤ん坊の親の豪邸に忍びこむ場面があります。そこで、ツォツィは(自分が奪った子の)父親を助けるために仲間の一人を殺してしまう。ちなみに、この殺人は、本作で描かれる彼自身が手を下した初の殺しです。

全く改心していない!
というより、(映画の中では)むしろどんどん悪になっている!

これじゃあ、なんのために天は「赤ん坊」という小道具を彼に与えたのか!?

僕が思うに、赤ん坊はツォツィに「子にとっての親の重要性」を教えるための小道具です。

またこれが、本作のメッセージとなっているでしょう。

どうしようもない父親の下で育ったために、不良となったツォツィは、この赤ん坊を通して「子にとっての親の重要性」を知ったということです。

しかし、だからといって仲間を殺していいのか?そんなことを知るために人一人殺していいのか?と考えると、このメッセージもどんどん希薄なものとなっていきますね!

・・・うーん。ここまで書いちゃうと、本作が駄作なのは「心理描写が甘いから」というより、「もともとの話からして糞だから」とすら思えてきます(笑)





というわけで、『ツォツィ』についてでした。

さらにひどい点を言うと、音楽の使い方がどうしようもなくダサいです。どんくらいダサいかというと、『男たちの挽歌』くらいダサいです。

『ブルーノ』はなぜつまらないのか?

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「お笑い無差別テロ」だなんて巷じゃ言ってるみたいですが、これはほんとつまらない。

はじめにことわっておきますが、僕は本作で多々見られる「不謹慎ネタ」や「過激な下ネタ」は大好きです。『バーン・アフター・リーディング』も『ハングオーバー!』なんか最高です。

ただ『ブルーノ』の場合は、別。不謹慎&下品すぎてドン引きしてしまう(⇔笑えない)。ということは全くなく、ただただ笑えない。

これには、2つ理由があります。①ブルーノの目的が曖昧になっていく②ゲイネタの多様、この2つです。



1.ブルーノの目的が曖昧になっていく

ゲイのオーストリア人(もちろん嘘。彼はただのユダヤ系イギリス人)である彼の目的は「セレブになること」です。数々の「バカ」も全てはこの目的を達成するため。

っで、彼の「バカ」もはじめの内は「セレブになること」とまだ関連性があったから、笑えました。


例を挙げると

①パリス・ヒルトンはセックスビデオが流出したから有名になれた→上院議員♂を誘惑してみる

②アンジー&ブラピ夫妻やマドンナには養子がいる→iPodと交換で黒人の子供を手に入れる



このように、ブルーノの「バカ」は理由がちゃんとあるからこそ笑える。セレブといわれる人や、彼らの「美しい行動」を圧倒的通俗で一笑に付すブラックジョーク、これが『ブルーノ』の魅力と云えるでしょう。

しかし!最後の「バカ」がすべてを台無しにします。

セレブにはノンケが多いから、自分もノンケになる

こう考えたブルーノは神父に相談しに行ったり、男社会である軍隊に体験入隊したりします(っで結局、ゲイネタを連発する)。

これはこじつけすぎです。はっきり言って、何でもいいからとりあえず破茶滅茶なことをしたい糞野郎と同じ発想。また、この「バカ」が最後にあることで、本作の「セレブになりたい」という物語は一気に崩壊します。




2.ゲイネタの多様

もうね。たった81分の間に何回の男同士のキスと何個のアナルを見たかわかりません。

ほぼ全ての「バカ」にこのようなゲイネタが適用されます。このネタ、はじめの内は新鮮さがあるものの、後半から飽き飽きしてきます。ゲイネタに頼り過ぎです。

「笑い」ってのは意外性に依るところが大きいと思います。当たり前のことをやられても全く笑えませんからね。

しかし、ブルーノの「バカ」には意外性が無くて笑えない!(より正確に言えば、『意外性が無くなっていって笑えなくなってくる!』) ゲイネタばっかで本当に陳腐です。

おまけに、先に言ったように、映画のラストの「バカ」がこのゲイネタのオンパレード…。完全に辟易しているところに、最後の最後がこれではキツい。もう、男同士のキスにもアナルにも馴れてしまっているよ!

ちなみに、僕が本作でいちばん笑ったシーンは、黒人の子供がヘッドフォンで聴いていたあの曲。「mother fucker !!! mother fucker !!!」とひたすら連呼するヘビメタをよくガキに聴かせたなぁと思います。これには大いに笑いました。




ということで、『ブルーノ』についてでした!

はじめの45分くらいは、エッジの効いたブラックジョークがあるし、ゲイネタにもまだ笑えます。まぁ、100円レンタルとかで観るのが無難でしょうけど。

『クローズZERO』の“喧嘩”を研究する

クローズZERO プレミアム・エディション [DVD]/小栗旬,山田孝之,黒木メイサ


僕の観たままの感想は下のtwitterのつぶやきをご参照ください。

kssk8040 『クローズZERO』めっちゃよかった!登場人物全員がキャラ立ちしている。個人的には山田孝之演じる芹沢がいちばん輝いていた。そして、なによりも喧嘩アクションが最高。特に雨中の喧嘩シーンは『七人の侍』級の大迫力!やっぱり三池崇史監督は最高に誇れる日本人だ!
9:05 AM Sep 13th webから

とりあえず、三池崇史最高!山田孝之最高!ってことです。



っで、今回は映画の感想そっちのけで、『クローズZERO』における喧嘩について考えていきたいと思います。キーワードは「個の武」「兵力の多寡」、そして「一騎打ち」です!




一見すると本作は一連のジャッキー映画のように「アリエネー!!!」を売りにしているアクション映画かと思われがちでしょうが、実はそんなこたぁないです。本作の三池アクション(喧嘩)にはそれなりのリアリティがあります。

そのリアリティってのは、「兵力の多寡が喧嘩の勝敗を左右する」というもの。

舞台となる鈴蘭高校でリーダーになれるような人物にいちばん必要な素質は、一に個の武、二にも個の武です。しかし!そんなリーダーたちも圧倒的な兵力の前に屈してしまう描写が2回もある。

あんなに強くてカッコいい小栗旬くんと宮崎あおいの旦那がボッコボコにされますからね・・・。

また、物語の中盤で敵の奸計に引っかかった小栗くんがライバル芹沢軍団に戦争を挑もうとした時、彼の側近がこう諌めます。側近「やめとけ!今やっても結果は見えてる!(多勢に無勢だ!)」

側近たちのこの諫言を受け入れた小栗くんは、次々と他クラスを屈服させて大軍団を築きます。これがもしジャッキーなら、一人で乗り込んで敵をけちょんけちょんにやっつけてしまうことでしょう。

と、このように個の武がリーダーの鉄の条件である「クローズZERO」の世界ですが、一方で兵力の多寡がモノを言う世界でもあります。




これらを踏まえた上で鈴蘭のテッペンを決める“喧嘩(決戦)”のプロセスとルールを考えていきます。


決戦までのプロセス

①個の武によって小軍団を屈服&吸収
→まずは一人でも屈服できる小さい軍団を相手にする。

②個の武によって軍団を統治
→リーダーの正統性は一にも二にも個の武!弱いリーダーには誰もついてこない。

ここまできたら次は決戦です。



決戦のルール

①リーダー自ら前線で戦う
→個の武によって統治しているわけだから、大将も戦わないと示しがつかない。

②勝敗を決めるのはリーダー同士の一騎打ち
→三国志か!

③雑兵どもの役割は一騎打ちのお膳立て
→プロセスの①にもあるように敵の軍団を屈服させるためには、個の武で敵のリーダーに勝つことです。つまり、そのためには個の武同士がぶつかり合う一騎打ちが不可欠。よって雑兵はそれのお膳立てのために戦います。

この3つのルールの中で③が最も興味深いです。強い軍団をつくれなければ、ライバルに勝負を挑むことすらできないってことですからね。




ここまで書くと、「個の武」と「兵力」の両方が鈴蘭高校でテッペンを取るために欠かせないものだとわかります。この2つは絶妙なバランスの上に成り立っています。

まとめると、

個の武→ 一騎打ちに勝つために必要

兵力 → 一騎打ちをするために必要


このようにいずれが欠けていてもいけません。個の武が無いと一騎打ちに勝てず、軍団を屈服&吸収することすらできない。また、兵力が無いと芹沢軍団のような大軍団に一騎打ちを挑むことすらできない。つまり、屈服&吸収する権利すら与えられません。




ということで、『クローズZERO』における“喧嘩”について考えてみました。鈴蘭高校のテッペンを取りたい人は、まず個の武を磨きましょう。まずは腕立て伏せからだ!

『マスター・アンド・コマンダー』にちょろっと出るネルソンという男

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『マスター・アンド・コマンダー』はラッセル・クロウの主演作の中でも最高傑作の部類に入ると思います。監督のピーター・ウィアーって人は『今を生きる』も撮ってるんですね。うん、すごいコンビだ!

欧州制覇をたくらむナポレオンの野望を打ち砕くイギリス海軍の話なんですが、話の規模は実に小さい。主人公の任務は、ブラジル沖でフランスの私猟船たった1隻をやっつけるというものです。「ナポレオン戦争」という巨大戦争サイクルの一局地戦にすぎません。

なので、ど派手な海戦シーンなんか期待して観た人はがっかりしたことでしょう。だって、海戦とかほとんどないんだもん!ずっと艦の中で起こることばっか撮るんだもん!

この映画は「ヒューマンドラマ」です。それも極上のヒューマンドラマ。

ラッセル・クロウ演じるオーブリー艦長を中心に「リーダーとは!?友情とは!?優しさとは!?」をひたすら魅せつけます。



ということで今回は、『マスター・アンド・コマンダー』の人情劇の中で僕がいちばん好きな場面を紹介&解説していくよ♪



物語の序盤
少年海軍候補生(たぶん10才くらい)が戦傷し、片腕を失う。

これを気の毒に思ったオーブリー艦長は、少年に一冊の本をプレゼントします。ネルソン提督の事績を書いた本です。

$早大生のポイント映画感想文-ネルソン提督

ネルソン提督は、世界史史上トップクラスの戦術家。ナポレオン軍をたびたび破り、最終的には自らの命と引き換えにイギリスをフランスから守りました。

っで、このネルソン提督の何がスゴイって、まるで恐怖心がないところ。彼は、総司令官であるにもかかわらず、常に陣頭で指揮を執っていました。そして、ついにはトラファルガーで戦死してしまう。

そしてこれが、いちばん本場面を読み解く上で重要な点。上の肖像画を見れば分かる通り、彼には片腕がありません。また、片足もなく片目も見えません。

「隻眼の将」ってのはよくききますね。伊達政宗・山本勘介・ハンニバル・夏候惇・フィリッポス2世などがそれに当たります。しかし、「隻眼・隻腕・隻脚の将」ってのはネルソン提督をおいて他にいないでしょう。怪我しすぎ!勇敢すぎ!




そんなネルソン提督の本を、幼くして隻腕になってしまった少年候補生にプレゼントをすることには大きな意味があります。

この少年は将来、海軍の士官としての道が待っている。しかし、一生残る傷を負った彼のショックは大きい…。そこで、艦長は彼を励ますためにネルソン提督の本をプレゼントする。

この行為には、こんな意味がこもっていると思います。

「お前の負った傷は大きい。しかし、くよくよせずにあの傷だらけの英雄・ネルソン提督のような勇敢な男になれ!」

言葉で言い表さず、思いを一つのモノに込めてさらっと伝える。不器用な男の最大限の優しさ…あまりの男気に思わずうるっときました。かっこよすぎるよ!




ということで、『マスター・アンド・コマンダー』についてでした。他にも、たびたび出てくる軍歌を仲間たちと“下手くそに”歌い合うシーンも最高です。

とにかく男男した映画なので、男は観るべき!ホモソーシャルな展開に酔いしれろ!