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高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

下関市吉田町はJR山陽本線・小月(おづき)駅から車で10分くらい

内陸部へ入ったところにあります。

現在は下関市の一部ですが、

晋作の時代は萩本藩の領地であり、

奇兵隊の陣屋が置かれていました。

 

奇兵隊陣屋跡

陣屋といっても単に寝泊りする所ではなく、

朝早く起床して漢字を学習した後、

夕方まで調練をするという厳しい生活だったそうです。

 

奇兵隊陣屋ジオラマ(東行記念館)

 

 

東行庵

1867(慶応3)年4月14日、

新地の林算九郎邸離れで永眠した晋作は、

この地の清水山に葬られます。

 

墓地の入り口には白石正一郎の碑があります。

 

石段を上がっていくと、やがて晋作の墓が見えてきます。

 

高杉晋作の墓

晋作の墓の周辺には高杉家の墓所があり、

妻のマサの墓もあります。

 

また一段下がった所には愛妾おうの(梅処尼)の墓もひっそりと建っています。

生前、決してでしゃばることなく晋作を陰で支え、

没後も長年菩提を弔って生きたおうのさんのはかなさを感じさせられます。

 

高杉東行顕彰碑

明治44年、井上馨(聞多)によって除幕されました。

碑文は伊藤博文が作ったものです。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」という名分が刻まれています。

 

高杉晋作陶像

 

晋作遺言墓碑銘の碑

功山寺で決起の決断をする前に、白石正一郎の弟である大庭伝七へあてた

「遺言」ともいえる手紙の内容です。

 

晋作像の一段下には、山県狂介の像があります。

平成27年にできたばかりで、まだきれいです。

晋作の下知を待っているかのようです。

 

晋作の墓へもどり、さらに奥へ進むと奇兵隊士・諸隊士たちの墓があります。

 

白石正一郎の墓

 

白石廉作の墓

 

隊士達の墓所のさらに下段には晋作の歌碑と

司馬遼太郎の文学碑があります。

 

晋作歌碑

1865(慶応元)年、桜山に招魂社を創建した際に詠んだ歌です。

「おくれてもおくれても 又君たちに誓ひしことを あに忘れめや」

 

司馬遼太郎文学碑

「長州は奇兵隊の国である。」

と刻まれています。

台座は山口県地図を表現しています。

 

一度墓地の入り口まで戻り、

東行記念館の方へ向かいます。

 

無隣庵の歌碑

 

晋作が葬られる前、山県狂介はここに家を建て、

「無隣庵」と名付けて、妻と暮らしていました。

「となりなき世をかくれ家のうれしきは 月と虫とにあひやとりして」

山県にとって、この地は安住の地だったのでしょうか。

 

東行庵

晋作の死後、おうのは晋作の菩提を弔うため出家し、

梅処尼と名乗りました。

山県狂介は自分の無隣庵を梅処尼に与えました。

その後、伊藤博文らの寄付により、新たに「東行庵」が建てられ、

梅処尼はその生涯を閉じるまでここで暮らしたそうです。

 

東行記念館

1階には事務室や講堂があり、晋作の命日に法要が営まれることもあります。

湯のみや手ぬぐいなどの記念品も購入できます。

 

晋作の坐像

 

2階は有料の展示館となっており、

晋作の遺品などが展示されています。

 

記念館前にはたくさんの碑や晋作の銅像があります。

 

晋作の銅像

晋作・望東尼の歌碑

この他にも松尾芭蕉の句碑や横山健堂顕彰碑など、

多数の碑があります。

 

春は梅・桜、初夏はツツジや花菖蒲が咲き乱れ、

秋の紅葉もきれいな名所です。

ぜひお立ち寄り下さい。

 

駐車場横の土産店で「晋作餅」を売っています。

シソの葉で包んであるものと、包んでないものがあります。

どちらもおいしいですよ。

 

吉田宰判勘場御茶屋跡(御本陣)

東行庵から北へ数分歩いたところにあります。

 

宰判とは萩藩にとって現在で言うところの市町のようなもので、

藩政時代に18の宰判に分かれていたそうです。

勘場とは現在の役所のことで、

代官が任命され統治を行っていたそうです。

 

また御茶屋とは幕府や藩の役人、

参勤交代の大名などが休息・宿泊した施設のことです。

幕末には奇兵隊の屯所としても使用されたようです。

 

建物は残っておらず、朽ちかけた土塀と石垣が

かつての様子をとどめています。

 

吉田の一里塚

 

法専寺

東行庵から南へ、車で5分ほど行くと法専寺があります。

ここは幕末に奇兵隊の屯所となったところです。

 

境内には隊士が首を切ったと言われる六体の地蔵があります。

確かに切断されたような跡があります・・・

 

また裏山の墓地には小倉戦争(四境の役)で戦死した

隊士8名のお墓があります。

 

静かで趣きのある吉田の町を、ぜひ訪れてみて下さい。

 

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清末(きよすえ)

長府から吉田・東行庵へ向かう途中に、清末があります。

ここは清末藩1万石の城下町でした。

清末藩は長府藩の支藩にあたり、

萩本藩からみれば’孫藩’ともいえる存在でした。

 

高杉晋作が清末に来たという記録は無いようですが、

西国街道を何度も往復したことでしょうから、

立ち寄ったことくらいはあると思います。

 

清末藩邸跡

私の母校である某中学校の校門の脇にあります。

その中学校は清末藩の藩校である’育英館’の跡地と言われており、

校歌にも歌われています。

 

内藤家表門

藩邸跡から徒歩数分のところに「内藤家表門」があります。

内藤家は清末藩の首席家老だったそうです。

屋敷は残っていませんが、この門は当時のままの状態だそうです。

まるでタイムスリップしたような気分になります。

 

派手さはありませんが、落ち着いた風情のある町・清末。

ぜひお立ち寄り下さい。

 

 

下関市長府

 

長府は長門府中とも呼ばれ、

江戸時代は長州藩の支藩、長府藩5万石の城下町でした。

藩祖は毛利輝元の養子で、関ヶ原の戦いにも出陣した毛利秀元です。

 

 

白石正一郎邸浜門

JR長府駅からほど近い住宅街に、「白石正一郎邸浜門」があります。

馬関から移築されたものです。

案内板もなにもないので、注意していないと見落としてしまいそうです。

晋作もこの門を潜ったのでしょうか。

 

 

維新発祥之地碑

長府駅前からバスで唐戸方面へ。「城下町長府」で下車します。

「鳥居前」交差点から西に向かって忌宮神社の参道が続いています。

その参道を50メートルほど入った5差路の交差点に

「維新発祥之地」碑があります。

 

高杉晋作が挙兵を決意し、功山寺に立ち寄ったことから

明治維新が始まったと言えるでしょう。

 

忌宮神社参道

 

古江小路

功山寺に向かっていく道中に、古い土塀の通りが保存されています。

 

功山寺

いよいよ功山寺です。鼓動が高まってきました。

1864(元治元)年12月15日、

晋作は挙兵を決意して、ここに滞在していた五卿に面会し、

「これより長州男児の戦いをご覧に入れます」と宣言したそうです。

境内には晋作が馬にまたがった像(回天義挙の像)があります。

153年前、晋作は間違いなくこの場所に居たのですね。

 

下関市立歴史博物館

かつては功山寺の隣に長府博物館がありましたが、

2016年11月に新しい博物館が新設されました。

功山寺の向かいになります。

 

常設展は200円で見ることができます。

晋作に関する展示もたくさんあります。

 

長州砲

壇ノ浦にあるものはレプリカですが、こちらは本物です。

1864(元治元)年8月、四国連合艦隊が来襲した際、

フランス艦が戦利品としてパリへ持ちかえっていたものです。

 

木製大砲

砲の数が圧倒的に少なかったため、

フェイクだったようです。

 

高杉晋作に関する展示の他、

坂本龍馬筆の新政府綱領八朔(大政奉還後の新政府の政体案)など

興味深い展示物が目白押しです。

 

この他にも長府には見どころがいっぱいです。

忌宮神社

集童場の場長室

 長府藩の松下村塾ともいえる私塾(忌宮神社境内)

横枕小路

 古い土塀が残る小道

長府藩侍屋敷長屋

串崎城

 長府藩の居城跡

一日かけて、ゆっくり散策されることをお勧めします。

 

 

次に、長府からやや離れますが、車で勝山御殿跡を目指します。

「城下町長府」から車で10分ほどです。

 

勝山御殿跡

勝山御殿は1863(文久3)年に築城された長府藩の居城です。

それまでは前述の串崎城を使用していましたが、

外国船からの攻撃に脅威を感じ、新たに奥地に築城されたものです。

長府の町から西へ山を一つ越えたところにあります。

 

下関市出身の私は、この場所にこのような立派な城跡があったことを

最近まで知りませんでした。

 

わずか5カ月の突貫工事で建てた城とはいえ、

本丸、二の丸、三の丸を擁し、

本格的な石積み技法が用いられた石垣などを見ると、

ここは本格的な城だったと思われます。

 

勝山御殿は明治の世になるとその役割を失い、

1873(明治6)年、築城からわずか10年で解体されてしまいました。

現在は運動公園として利用されています。惜しい・・・

 

ここは晋作に縁のある場所です。

1866(慶応2)年6月、四境戦争(第二次長州征伐)の小倉口の戦いが始まる直前、

晋作はここを訪れ、報国隊を出動させてもらうよう交渉したそうです。

当時、萩の本藩と長府藩は馬関開港などの意見の違いから対立していました。

晋作の交渉により共闘体制が整い、

小倉口の戦いを勝利に導いたと言えるでしょう。