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高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

下関駅東口方面

下関駅東口から直線距離で150メートルほど行くと

左手に大歳神社があります。

ここは高杉晋作を支援した白石正一郎のゆかりの地です。

 

大歳神社

参道の鳥居には「白石正一郎」の文字がくっきりと出ています。

身震いがする思いです。

 

1863(文久3)年、白石邸で奇兵隊を結成した晋作は、

その軍旗を大歳神社へ奉納したそうです。

 

また、境内には「七卿顕彰画碑」があります。

これは、1863(文久3)年8月18日の政変により

京を追放された三条実美ら七卿が長州へ落ちていく様を描いたものです。

歴史的な価値の高いものと思われますが、

一時期野ざらしで保存されていたため、損傷が激しい状態です。

 

また、この神社は源義経ゆかりの神社でもあります。

                    【開戦の矢文を平家方へ打ち込む義経

 

1185年、平家との合戦でこの地を訪れた義経が、

この神社で先勝祈願を行ったそうです。

 

 

大歳神社の階段下の竹崎公園には、晋作の像があります。

 

                               【風の預言者の像

とても奇抜な像ですね。

高杉晋作が時代の流れの雲をつかみ取っている様子を表現しているそうです。

 

 

功山寺決起、新地会所襲撃の後、了円寺の次に滞在した場所と

いわれる東光寺を左手に見ながら旧山陽道を東へ進みます。

やがて左手に長い長い階段が見えてきます。

がんばって登ってみましょう。

 

 

                        【日和山公園 高杉晋作の陶像

晋作の顔が鬼の形相に見えます。

私は幼い頃何度か訪れていますが、顔が怖くて怖くて仕方がありませんでした。

 

 

                      【晋作が見下ろす関門海峡の風景

この風景を見て、晋作はなにを思っているのでしょうか。

 

階段を下りて、さらに東へ進みます。

 

 

                                       【光明寺

下関では数少ない、幕末当時そのままの建物です。

1863(文久3)年5月、晋作の盟友、久坂玄瑞はここで光明寺党を結成し、

関門海峡を通貨する外国船に発砲(攘夷運動)を開始しました。

 

光明寺党は所属の藩や身分にとらわれない、全く新しい組織でした。

後に晋作が結成する奇兵隊の原型と言われています。

 

 

光明寺からさらに東へ移動し、唐戸へ向かいます。

かつて赤間ケ関、馬関と呼ばれていた地域はこの唐戸です。

 

 

下関市役所の向かいあたりに小さな碑があります。

 

                                   【入江和作邸跡

入江はこの地で酢の醸造などを営んでいた豪商で、

晋作をはじめ多くの勤王の志士が支援を受けていました。

入江がおうの(後の梅処尼)と晋作を引き合わせたとも言われています。

 

入江邸跡のすぐ北側には教法寺があります。

 

 

                                       【教法寺

積年の面影はありませんが、ここは「教法寺事件」の舞台となったところです。

 

1863(文久3)年8月、

この地を壇ノ浦、前田砲台をそれぞれ警護していた奇兵隊と先鋒隊(藩の正規軍)が感情的に対立し、

ついに流血事件を起こしました。

先鋒隊士の一人が死亡したそうです。

 

この事件の責任を感じた晋作は切腹を覚悟したと言われています。

切腹は免れましたが、奇兵隊総督の地位は追われることになりました。

奇兵隊結成からわずか3カ月のことでした。

 

 

                             【本行寺 奇兵隊士の墓

 

小倉口の戦いで命を落とした隊士の墓地です。

教法寺の北隣にあります。

 

 

入江和作邸跡から200メートルほど南下し、

赤レンガが美しい旧英国領事館を左折、

東へ向かいます。

 

観光客で賑わう唐戸市場の向かいに、亀山神社があります。

 

         【亀山神社(亀山砲台跡)

 

かつてはこの鳥居の先が船着き場となっており、

ここから対岸の九州へ渡っていたそうです。

船着き場の石碑は唐戸市場の中にあります。

四境戦争の小倉口の戦いの際も、ここから対岸へ出撃していったそうです。

九州の地がくっきりと見えます。

 

さらに東へ300メートルほど進みます。

 

晋作ゆかりの地とは言えませんが、

盟友といえる伊藤博文と坂本竜馬ゆかりの地があります。

 

 

                                  【本陣伊藤邸跡

坂本竜馬はたびたび馬関を訪れていました。

晋作から拳銃を贈られています。

竜馬の馬関での居所はここ、伊藤邸でした。

竜馬はここを自然(じねん)堂と名付けて、

妻であるお龍と暮らしていました。

 

竜馬はくしくも晋作が没した同じ年(1967年)の11月に

滞在中の京都で暗殺されてしまいます。

 

 

                            【春帆楼(しゅんぱんろう)

1895年、日清戦争の講和条約の舞台となったところです。

時の内閣総理大臣は伊藤博文でした。

ここは元々阿弥陀寺(現在の赤間神宮)の敷地だったそうです。

春帆楼の隣は赤間神宮です。

 

 

                                     【赤間神宮

赤間神宮の前身は「阿弥陀寺」というお寺でした。

もちろん当時はこのような色鮮やかな建物ではなかったそうです。

 

1863(文久3)年、奇兵隊を結成した晋作は当初白石正一郎邸を屯所としましたが、

入隊希望者が相次いで手狭となったことと、防備する関門海峡から離れているという理由で

ここに屯所を移しました。

その後、さらに隣の極楽寺も使用しました。

 

 

                                 【極楽寺

明治に入り阿弥陀寺は神仏分離によって、

壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る神社となりました。

後に、白石正一郎が2代目の宮司となりました。

白石の墓が背後の山に建てられています。

 

さらに海沿いの国道を東へ600メートルほど進みます。

関門橋の巨大な橋脚の下をくぐると「壇ノ浦」です。

 

             【壇ノ浦(古戦場・砲台跡)

 

1185年には源平合戦の舞台となり、

幕末には下関戦争(四国連合艦隊の来襲)の舞台ともなった壇ノ浦。

 

レプリカの大砲が飾ってあります。

紙芝居の上演もあります。無料です。

記念品の絵葉書がもらえました。

 

 

下関駅から日和山までは徒歩で十分です。

日和山から唐戸までの移動はバスがいいかもしれません。

唐戸から壇ノ浦までは少し距離がありますが、

海峡の眺めがすごく良いのでぜひ歩いて下さい。

 

山口県下関市、かつては馬関、赤間関と呼ばれていたこの町は

源平合戦や巌流島の戦いなど、幾度となく歴史の舞台となったところです。

 

高杉晋作は1863(文久3)年6月、この町に登場します。

 

下関駅西口方面

 

白石正一郎宅跡  高杉晋作奇兵隊結成の地碑

 

晋作がまず訪れたのは清末藩(長府藩の支藩)御用商人の白石正一郎宅でした。

白石は勤王商人として知られ、西郷隆盛など多くの志士と交わりがあったそうです。

 

晋作に奇兵隊結成の相談を持ちかけられた白石は支援を約束し、

ここに歴史上類を見ない「奇兵隊」が結成されたのでした。

白石は自ら入隊し、その一員となりました。

 

晋作もくぐったであろう白石家浜門(下関市長府)

 

なお、白石は晩年商売を退き、赤間神宮の宮司となりました。

下関市吉田の東行庵にはその墓もあります。

 

赤間神宮 白石正一郎の墓(東行庵)

 

白石邸跡をさらに国道沿いに進みます。

 

高杉東行終焉の地

晋作は四境戦争の翌年の1867(慶応3)年4月14日、

ここ、林算九郎宅の離れで27歳8ヶ月の生涯を閉じました。

林邸はすでにありません。

碑の横には晋作が好きだった梅の木が植えられています。

 

国道をさらに先へ進みます。

 

厳島神社

 

この大太鼓は、四境戦争の小倉口の戦いの際、長州軍が戦勝の証として持ちかえり、

晋作がこの神社に奉納したものと言われています。

現在、毎年9月の第一土曜日に「太鼓祭」が行われているそうです。

 

厳島神社から小道を入っていきます。

 

高杉晋作療養の地

 

1866(慶応2)年10月、小倉口の戦いの戦列を離れた晋作は

はじめ白石正一郎宅で療養していましたが、

桜山招魂社を望むこの地に家を建て、

東行庵と名付けて療養生活を送りました。

おうのと、野村望東尼の看護を受けたそうです。

その後、1967(慶応3)年3月に林算九郎宅(終焉の地)へ移ることになります。

 

桜山神社

本殿の中には晋作の像が安置されています。

桜山招魂社完成の時、晋作が詠んだ歌碑もあります。

 ~弔らわる人に入るべき身なりしに 弔う人となるぞはずかし

参道の下には都から落ちてきた七卿の史跡もあります。

 

桜山神社をさらに北へ進みます。

 

了円寺

1864(元治元)年12月、晋作は長府・功山寺で挙兵した後、新地の会所を襲撃。

その後、ここ了円寺に一時滞在したそうです。

なお、この立派な山門は長府藩の勝山御殿から移築されたものと言われています。

 

下関駅から了円寺まで、徒歩で十分まわれます。

地図を片手に、晋作ゆかりの地を訪ねてみて下さい。

 

 

 

大田(美祢市)

 

1864(元治元)年12月、高杉晋作は赤間関で挙兵。

当初様子見を決め込んでいた山県狂介(有朋)でしたが、

重い腰を上げて絵堂(美祢市)に兵を進めます。

そして藩正規軍の陣に夜襲をかけた後、

藩正規軍の反撃に備えて大田に陣を敷きます。

 

金麗社  奇兵隊などの諸隊が本陣としたところ

 

やがて高杉晋作も赤間関から駆けつけて合流。

力を合わせて藩正規軍を追い払いました。


訪れる人もまばらな、静かな史跡です。

 

 

大田絵堂戦跡記念碑 

金麗社から車で3分ほど行ったところにあります

 

来島又兵衛の像 

中国道美祢西インターから車で5分

 

防府天満宮そばの大専坊で高杉と激論を交わした長州藩の重臣、来島又兵衛。

 

又兵衛は現在の山陽小野田市の出身ですが、来島家の養子となり、結婚した後この地に居を構えたそうです。

池田屋事件の後、京都へ出陣し、禁門の変で会津・薩摩を中心とする幕府軍と

勇敢に戦いますが命を落としました。

敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、窮地に陥ります。

 

世外候養痿隠晦之處

又兵衛の像の隣には「世外候養痿隠晦之處」があります。

世外候とは後の大蔵大臣・外務大臣 井上聞多(馨)のことです。

井上は高杉が心を許した数少ない同志だったようです。

1864(元治元)年9月、井上は山口政事堂からの帰路、

刺客に襲われ瀕死の状態となりましたが、からくも一命を取り留めました。

その後この地で療養生活をおくったそうです。

 

美祢は交通の便が良くないので、車でまわることをお勧めします。