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高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

JR山陽本線の南側には三田尻や桑山などの名所があります。

 

三田尻地区

三田尻御茶屋旧構内 英雲荘

防府駅の南東1kmにあります。見学料300円。

「御茶屋」とは毛利氏の別邸のことで、かつては防長二国に11か所あったそうでが、

現存するのはここだけです。

高杉もここで藩主に謁見したのでしうか。

 

毛利敬親が七卿をお迎えした絵が描かれた掛け軸

 

 

三田尻御舟倉跡

英雲荘から東へ500m、児童公園にそばにあります。

1611年に毛利水軍の拠点として開かれ、

長州藩における瀬戸内海における玄関口として、

また幕末には軍港として用いられました。

その一部が残っています。

禁門の変や、その後の戊辰戦争の際には兵士がここから船出したそうです。

高杉は奇兵隊を結成した直後にここを急襲し、藩艦を奪っています。

 

野村望東尼 終焉の地

 

 

桑山(くわのやま)

野村望東尼の歌碑

防府駅の南600mの桑山の中にあります。

この歌碑のさらに奥にお墓があります。

望東尼は高杉が永眠した1867年の11月に、彼の後を追うように62歳でこの世を去っています。

 

 おくつきのもとにわが身はとどまれど わかれていぬる君をしぞ思う

 

晋作の柩にこの歌を入れてほしいと願ったと言われています。

望東尼は生前、高杉を「日本第一の人」と評価していたそうです。「日本第一の人」を失ったショックはあまりにも大きかったのでしょう。

 

桑山には楫取素彦の墓もあります。

 

 

 

防府駅に戻り、山陽本線を徳山方面へ1駅進みます。

 

富海(とのみ)

晋作が旅立った富海の海岸

富海は目の前に瀬戸内海が広がり、江戸時代は飛船(小型の快速船)の港として

栄えていました。

高杉はたびたび飛船を利用していました。

1864(文久4)年1月、大専坊で来島又兵衛を説得した後、ここから飛舟を使って

大阪へ旅立っています。

また同(元治1)年10月、俗論派の捕吏に追われた高杉は、ここから

下関へ逃亡を図っています。

 

また、1864(元治元)年8月、四国連合艦隊来襲直前に

伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)はイギリス留学から急きょ戻り、

この地に上陸しています。

富海本陣には島津斉彬や篤姫が立ち寄ったそうです。

 

 

防府は山口県の山陽側の中央部に位置する、人口約11万の町です。

 

関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門の2か国に封じられた毛利氏は

はじめこの防府の地に城を築こうとしました。

しかし幕府はそれを許さず、やむなく萩の地に城を築いたそうです。

 

毛利氏が上方へ向かう際、防府の三田尻港から船を使ったと言われます。

萩往還の終点であり、別邸(御茶屋)もある防府は、

毛利氏にとってとても重要な拠点であったようです。

高杉もたびたびこの地を訪れています。

 

防府天満宮とその周辺

 

防府天満宮

言わずと知れた、菅原道真公を祀る日本三大天満宮の一つです。地元では「天神様」と

呼ばれています。

高杉晋作も天神様をたいそう敬っていたようで、

陣営に「菅原大神」と書かれた旗を掲げていたそうです。

 

 

大専坊

防府天満宮の参道の階段の途中、左手にあります。

1864(文久4)年1月、禁門の変へ兵を進めようとしていた総大将の来島又兵衛を説得するため、高杉がここを訪れています。

冨成博さんの「高杉晋作の生涯」(新人物往来社)によると、高杉は4日間ねばって説得を続けたそうです。

それでも承知しない頑固じいさま(来島)に向かって、

「それではてまえの首を斬るか、遊撃軍にしばりつけて行ってください。」と言い、

来島をなんとか折れさせたそうです。

 

 

暁天楼(ぎょうてんろう)

参道の階段の途中、右手にあります。大専坊の向かいになります。

かつては天満宮の門前町にありましたが、現在はここへ移築されています。

高杉や山縣有朋、桂小五郎、坂本竜馬らがここで密談したと言われています。

1階部分は漬物小屋にみせかけており、2階には隠し部屋があります。

 

 

宮市本陣兄部家

商人であった兄部(こうべ)家の屋敷で、本陣として使われていました。

記録にはありませんが、高杉も滞在したことでしょう。

残念ながら2011(平成23)年、火災で大部分が焼失し、今は門だけが残っています。

 

 

 

野村望東尼の碑

天満宮の西側、演舞場の北にあります。

高杉の恩人である野村望東尼の像と、有名な歌

「おもしろきこともなき世におもしろく・・」の碑があります。