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高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

柳井

海防僧・月性の寺 妙円寺

月性の思想は吉田松陰やその門下生にも大きな影響を与えたと言われています。

晋作が月性の話を直接聞いたかどうかは不明ですが、

師である吉田松陰は、月性の法話が萩で行われるとき、

塾生に対し、聴きにいくよう指示したと言われています。

また、晋作の奇兵隊創設は月性の思想の影響を強く受けていると

言われています。

 

寺の境内には清狂草堂(月性の私塾)が復元されています。

この塾からは世良修蔵や赤根武人らが巣立ちました。

 

また、隣接した記念館には月性ゆかりの品々が展示されています。

 

月性はこんな人

松陰が月性に送った手紙

 

月性の妙円寺があるこの地域は’遠崎’といいますが、

晋作も遠崎に来たことがあるようです。

四境戦争の際、幕府軍に周防大島を占領された長州藩は、

その奪還のため、晋作を派遣します。

丙寅丸に乗った晋作はこの遠崎に立ち寄り、

第二奇兵隊の隊長と相談し、

鍵屋(秋元家)に泊まったと言われています。

 

上関

室津

室津は北前船の寄港地として栄えた港です。

晋作はこの地に何度か訪れているようです。

記録に残っているのは、安政7(1860)年、藩の軍艦「丙辰丸」の乗組員として

江戸へ向かう途中です。

それ以外にも、江戸や上方を何度も往復した晋作ですから、

何度もこの地を訪れていることでしょう。

時が止まったかのような港町です。

 

晋作が泊まった肥後屋跡地

当時はこのような建物だったそうです。

 

四階楼

この建物ができたのは明治12年ですので、晋作の没後です。

これを立てた小方謙九郎という人はかつて奇兵隊に所属し、攘夷戦に参加した経歴の持ち主です。

その後第二奇兵隊の書記として四境戦争に参加しました。

明治維新後は地元で実業家となり、この建物を建設したそうです。

 

西方寺

元治元(1864)年から2年にかけて、諸隊がここを駐屯地として使用していました。

その時に隊員がつけた刀痕がいまも残っています。

 

周防大島

周防大島は四境戦争で唯一幕府軍の侵入を許した地です。

 

大畠瀬戸

慶応2(1866)年6月、幕府軍に占領された周防大島を奪還するために

丙寅丸に乗った晋作がここを通過して久賀沖に向かっています。

それ以外にも室津同様、何度もここを通過して上方と藩を行き来したことでしょう。

 

久賀沖 前島

晋作の丙寅丸は夜陰に乗じて久賀沖の前島付近に停泊していた幕府軍の軍艦に向けて発砲します。

不意をつかれた幕府軍は反撃もできず、撤退することになります。

 

久賀の海岸沿いには明治百年記念公園があります。

公園内の「精忠不朽の碑」には高杉晋作の名が刻まれています。

 

浄西寺

慶応2(1866)年6月7日夕刻、

油宇湾に幕府の軍艦「富士山丸」が現れて、突如砲撃を開始しました。

 

油宇湾

この穏やかな入り江に突如巨大な軍艦が現れて、

住民は恐怖におののいたことでしょう。

 

浄西寺 山の斜面にへばりつくように建っています

砲弾の跡

石碑

 

油宇湾から砲撃し、上陸して周防大島を占領した幕府軍は、

晋作の夜襲を受けた後、第二奇兵隊の反抗に遭い、

わずか数日で撤退することになります。

東行記念館

 

東行記念館は東行庵の敷地内にあります。

高杉晋作100年祭記念事業の一つとして、

昭和41年4月14日、つまり晋作の100回忌に開設されたそうです。

 

建物に入ると受付があり、入館料を払います。

大人300円です。

 

受付の奥にはちょっとしたミュージアムショップがあり、

晋作や奇兵隊に関する書籍やグッズが販売されています。

 

右奥は講堂です。

今年の4月14日はあいにくの雨天だったため、

ここで152回忌の法要が行われたそうです。

 

スリッパに履き替えて、2階に上がります。

2階部分は「下関市立東行記念館」といい、

下関の博物館の分館的な位置づけになっているようです。

 

階段を上がってまず最初に目に飛び込んでくるのがこれです。

小倉戦争の際、戦利品として持ち帰ったといわれる灯篭です。

 

続いて、室内の展示を見てみます。

晋作の正妻である、マサさんと、忘れ形見の東一の写真です。

 

晋作愛用の三味線

 

晋作が使っていた萩ガラスのグラス

 

四国連合艦隊との講和の際 身に着けていた衣装

 

功山寺で決起する際、身に着けていた甲冑

 

功山寺で五卿にあいさつする姿を描いた絵

 

小倉戦争を離脱し、静養に入った自らを描いた絵

 

桜山招魂社設立の際、詠んだ詩

 

などなど、晋作の生き様に触れられる貴重な展示物がそろっています。

東行記念館は月曜日が休館となっていますので、ご注意下さい。

 

高杉氏発祥の地(と言われる所)を訪ねてきました。

 

高杉氏は毛利氏の家臣として古くから仕えていました。

関ヶ原の戦い後、防長2国へ封じられた際も

つき従って萩へ移っています。

晋作は自分の家が毛利家の伝統ある家臣であることを

誇りに思っていたようです。

 

知波夜比古(ちはやひこ)神社=高杉城跡

 

ここは、かつて高杉城があったところです。

この城を守っていたのは尼子氏に味方していた武田氏(祝氏)でした。

1552(天文21)年、毛利氏の攻撃を受けてあえなく落城します。

その際、生き残った武田春時という人物が高杉小四郎春時と改姓し、

毛利氏の家臣となりました。

これが高杉家の始まりとされています。

晋作は初代春時から数えて11代目にあたるとのことです。

 

ちなみに「武田氏」ですが、

あの有名な甲斐の武田信玄と祖先は同じと考えられています。

いわば親戚、遠縁といったところでしょうか。

高杉城が落城した翌年、信濃では第一次川中島の戦いが起こっています。

 

晋作が武田信玄と同じ血筋だと思うと、

歴史のロマンを掻き立てられますね。

 

御神木

 

神社の周囲に石積みがありました。

城壁の名残でしょうか。

 

神社周辺はのどかな田園が広がっていました。