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高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

福岡市

平尾山荘

1864(元治元)年10月、俗論党が支配する萩藩を脱出し、九州の諸藩をまとめて反撃に転じようとした晋作。しかし思うような協力は得られず、逆に捕縛の危険が高まる。そこで筑前の中村円太らが晋作を「平尾山荘」へかくまうことにした。

山荘の主である野村望東尼の庇護を受け、晋作はここで10日ほど滞在している。

「まごころをつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ」

 

何の成果も得られないまま、晋作は帰国して、藩を牛耳る俗論党と対決することを決意する。

旅立ちの日の朝、望東尼は自ら仕立てた衣服を晋作に渡し、はなむけの詩を送る。

 

帰国した晋作は同年12月のいわゆる「功山寺決起(挙兵)」へと突き進むことになる。

 

 

2018年の博多山笠の舁き山には望東尼と晋作が描かれた。

御手洗

御手洗は江戸時代、北前船の寄港地として栄えた港町です。

江戸時代以降の貴重な建物や史跡が残っています。

晋作は1860(万延元)年、20歳の時に藩の軍艦教授所に入り、

4月に丙辰丸で萩を出発、江戸への航海途中にこの地へ立ち寄っています。

 

また、師の吉田松陰も1853(嘉永6)年、長崎へ向かう途中にここへ

立ち寄ったそうです。

高灯篭  残念ながら当時のものではないようです。

住吉神社  1829年頃の建立と言われています。晋作もきっと目にしたでしょう。

大阪の住吉大社を真似て、2分の1サイズで作られているそうです。

 

旧金子家住宅  御手洗の豪商だった金子家の別宅です。

要人や文人などを接待するために建てられたそうです。

晋作亡き後の1867年11月、薩摩・長州・広島の3藩軍事同盟に基づき、

長州の軍艦7隻が御手洗に到着し、広島藩と合流、

この屋敷で両藩の重役が会談したそうです。

これを「御手洗条約」といいます。

 

晋作、松陰のほか、竜馬や大久保利通など、多くの志士がこの地を訪れています。

小西家住宅  文政年間(1818~1830年頃)の建造と思われます。

晋作も目にしたでしょうか。

 

江戸時代の街並み 常盤町どおり

 

薩摩藩の旧船宿  おーい、西郷どん!一蔵どん!

 

七卿落遺跡  実際にここに泊まったのは五卿だったそうです。

 

1863年8月18日の京の政変で長州へ落ち延びた七卿。

翌1864年6月、勢力奪還のため長州軍が京へ進軍します。

しかし7月、長州軍は敗北(蛤御門の変)、帰京を目指して

京へ向かっていた五卿は多度津まで行っていましたが、

敗北を知りやむなく引き返し、この地で1泊したそうです。

 

朽ちかけた建物が五卿の悲哀を表現しているようです。

 

天満神社  菅原道真公が太宰府へ向かう途中この地に立ち寄り、

井戸で手を洗ったことが「御手洗」の地名の起こりだそうです。

社殿は当時のものではないようですが、道真公を崇拝する晋作ですから

きっとお参りしたことでしょう。

 

ちなみにここ御手洗は、サントリー「オランジーナ」のCMで一躍有名になった地です。

晋作に思いを馳せながら、オランジーナで乾杯!

城下町 萩

萩藩(長州藩)の本拠地であり、晋作の生まれ育った町。

晋作にとっても本丸といえるところ。

4月1日、春とは言えない寒風が吹きすさぶ中、

やっと訪れることができました。

晋作生家

1839(天保10)年8月20日、

萩藩大組士 高杉小忠太の長男として晋作はこの家に生まれました。

 

 

晋作や両親の写真、遺品などが展示されています。

 

産湯に使ったと言われる井戸

晋作の句碑

「西へ行く人をしたひて東行く 心の底そ神や知るらん」

 

菊屋横丁

生家周辺は「菊屋横丁」と言わる武家屋敷が並ぶ通り

 

生家近くの’晋作公園’にはまげ姿の立志像があります。

明倫館や松下村塾へ通っていた頃の姿でしょうか。

 

藩校 明倫館跡

続いて晋作が学業や武道に励んだ明倫館跡を訪ねました。

南門  明倫館の正門が当時の姿のまま残っています。

 

有備館(武道場) これも当時の姿のままです。晋作もここで稽古に励んだのでしょう。

 

水練池 いわば昔のプールです。これも当時のままです。

 

藩校跡地にあった小学校

現在は観光センターになっています

中に入ると晋作と松陰先生が出迎えてくれます

内部は観光センターやレストラン、土産物店、

世界遺産ビジターセンター、幕末ミュージアムなどの展示室があります。

幕末に使われた砲弾

 

萩城跡

関ヶ原の戦い後の1608年、毛利輝元によって築城された萩城。

残念ながら1874年に取り壊されてしまったそうです。

大組士の長男だった晋作も、きっと何度も登城したことでしょう。

 

城内は桜が満開でした。

かつてはこんな城だったそうです。

CGで復元された萩城(明倫センターにて)

こんなきれいな城をこの目で見たかった。

 

松下村塾(松陰神社)

晋作が久坂玄瑞らとともに松陰先生の元で学んだ塾

ここは2015年、世界遺産に登録されました。

松陰先生がここで教えた期間はわずか1年ちょっとと言われていますが、

晋作や玄瑞をはじめ、伊藤博文、山県有朋、前原一誠らが

ここから巣立っていきました。

 

 

講義室だった8畳間 松陰先生の石膏像と肖像画、机があります。

そうそうたる顔ぶれの塾生達

 

「明治維新胎動之地」碑

ここはまさに「明治維新」という赤子が母親のお腹の中で動いていた地なのです。

 

今回は滞在時間が少なかったため、これしか回れませんでした。

萩は晋作にとって「聖地」であると感じた1日でした。