高杉の足跡 ~呉市豊町御手洗編~ | 高杉晋作の生涯をたどる旅

高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

御手洗

御手洗は江戸時代、北前船の寄港地として栄えた港町です。

江戸時代以降の貴重な建物や史跡が残っています。

晋作は1860(万延元)年、20歳の時に藩の軍艦教授所に入り、

4月に丙辰丸で萩を出発、江戸への航海途中にこの地へ立ち寄っています。

 

また、師の吉田松陰も1853(嘉永6)年、長崎へ向かう途中にここへ

立ち寄ったそうです。

高灯篭  残念ながら当時のものではないようです。

住吉神社  1829年頃の建立と言われています。晋作もきっと目にしたでしょう。

大阪の住吉大社を真似て、2分の1サイズで作られているそうです。

 

旧金子家住宅  御手洗の豪商だった金子家の別宅です。

要人や文人などを接待するために建てられたそうです。

晋作亡き後の1867年11月、薩摩・長州・広島の3藩軍事同盟に基づき、

長州の軍艦7隻が御手洗に到着し、広島藩と合流、

この屋敷で両藩の重役が会談したそうです。

これを「御手洗条約」といいます。

 

晋作、松陰のほか、竜馬や大久保利通など、多くの志士がこの地を訪れています。

小西家住宅  文政年間(1818~1830年頃)の建造と思われます。

晋作も目にしたでしょうか。

 

江戸時代の街並み 常盤町どおり

 

薩摩藩の旧船宿  おーい、西郷どん!一蔵どん!

 

七卿落遺跡  実際にここに泊まったのは五卿だったそうです。

 

1863年8月18日の京の政変で長州へ落ち延びた七卿。

翌1864年6月、勢力奪還のため長州軍が京へ進軍します。

しかし7月、長州軍は敗北(蛤御門の変)、帰京を目指して

京へ向かっていた五卿は多度津まで行っていましたが、

敗北を知りやむなく引き返し、この地で1泊したそうです。

 

朽ちかけた建物が五卿の悲哀を表現しているようです。

 

天満神社  菅原道真公が太宰府へ向かう途中この地に立ち寄り、

井戸で手を洗ったことが「御手洗」の地名の起こりだそうです。

社殿は当時のものではないようですが、道真公を崇拝する晋作ですから

きっとお参りしたことでしょう。

 

ちなみにここ御手洗は、サントリー「オランジーナ」のCMで一躍有名になった地です。

晋作に思いを馳せながら、オランジーナで乾杯!