福岡市
平尾山荘
1864(元治元)年10月、俗論党が支配する萩藩を脱出し、九州の諸藩をまとめて反撃に転じようとした晋作。しかし思うような協力は得られず、逆に捕縛の危険が高まる。そこで筑前の中村円太らが晋作を「平尾山荘」へかくまうことにした。
山荘の主である野村望東尼の庇護を受け、晋作はここで10日ほど滞在している。
「まごころをつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ」
何の成果も得られないまま、晋作は帰国して、藩を牛耳る俗論党と対決することを決意する。
旅立ちの日の朝、望東尼は自ら仕立てた衣服を晋作に渡し、はなむけの詩を送る。
帰国した晋作は同年12月のいわゆる「功山寺決起(挙兵)」へと突き進むことになる。
2018年の博多山笠の舁き山には望東尼と晋作が描かれた。