高杉の足跡 ~下関長府編~ | 高杉晋作の生涯をたどる旅

高杉晋作の生涯をたどる旅

幕末の風雲児と言われた高杉晋作。
彼の足跡を訪ねてみました。

下関市長府

 

長府は長門府中とも呼ばれ、

江戸時代は長州藩の支藩、長府藩5万石の城下町でした。

藩祖は毛利輝元の養子で、関ヶ原の戦いにも出陣した毛利秀元です。

 

 

白石正一郎邸浜門

JR長府駅からほど近い住宅街に、「白石正一郎邸浜門」があります。

馬関から移築されたものです。

案内板もなにもないので、注意していないと見落としてしまいそうです。

晋作もこの門を潜ったのでしょうか。

 

 

維新発祥之地碑

長府駅前からバスで唐戸方面へ。「城下町長府」で下車します。

「鳥居前」交差点から西に向かって忌宮神社の参道が続いています。

その参道を50メートルほど入った5差路の交差点に

「維新発祥之地」碑があります。

 

高杉晋作が挙兵を決意し、功山寺に立ち寄ったことから

明治維新が始まったと言えるでしょう。

 

忌宮神社参道

 

古江小路

功山寺に向かっていく道中に、古い土塀の通りが保存されています。

 

功山寺

いよいよ功山寺です。鼓動が高まってきました。

1864(元治元)年12月15日、

晋作は挙兵を決意して、ここに滞在していた五卿に面会し、

「これより長州男児の戦いをご覧に入れます」と宣言したそうです。

境内には晋作が馬にまたがった像(回天義挙の像)があります。

153年前、晋作は間違いなくこの場所に居たのですね。

 

下関市立歴史博物館

かつては功山寺の隣に長府博物館がありましたが、

2016年11月に新しい博物館が新設されました。

功山寺の向かいになります。

 

常設展は200円で見ることができます。

晋作に関する展示もたくさんあります。

 

長州砲

壇ノ浦にあるものはレプリカですが、こちらは本物です。

1864(元治元)年8月、四国連合艦隊が来襲した際、

フランス艦が戦利品としてパリへ持ちかえっていたものです。

 

木製大砲

砲の数が圧倒的に少なかったため、

フェイクだったようです。

 

高杉晋作に関する展示の他、

坂本龍馬筆の新政府綱領八朔(大政奉還後の新政府の政体案)など

興味深い展示物が目白押しです。

 

この他にも長府には見どころがいっぱいです。

忌宮神社

集童場の場長室

 長府藩の松下村塾ともいえる私塾(忌宮神社境内)

横枕小路

 古い土塀が残る小道

長府藩侍屋敷長屋

串崎城

 長府藩の居城跡

一日かけて、ゆっくり散策されることをお勧めします。

 

 

次に、長府からやや離れますが、車で勝山御殿跡を目指します。

「城下町長府」から車で10分ほどです。

 

勝山御殿跡

勝山御殿は1863(文久3)年に築城された長府藩の居城です。

それまでは前述の串崎城を使用していましたが、

外国船からの攻撃に脅威を感じ、新たに奥地に築城されたものです。

長府の町から西へ山を一つ越えたところにあります。

 

下関市出身の私は、この場所にこのような立派な城跡があったことを

最近まで知りませんでした。

 

わずか5カ月の突貫工事で建てた城とはいえ、

本丸、二の丸、三の丸を擁し、

本格的な石積み技法が用いられた石垣などを見ると、

ここは本格的な城だったと思われます。

 

勝山御殿は明治の世になるとその役割を失い、

1873(明治6)年、築城からわずか10年で解体されてしまいました。

現在は運動公園として利用されています。惜しい・・・

 

ここは晋作に縁のある場所です。

1866(慶応2)年6月、四境戦争(第二次長州征伐)の小倉口の戦いが始まる直前、

晋作はここを訪れ、報国隊を出動させてもらうよう交渉したそうです。

当時、萩の本藩と長府藩は馬関開港などの意見の違いから対立していました。

晋作の交渉により共闘体制が整い、

小倉口の戦いを勝利に導いたと言えるでしょう。