日本語で書いておきたいこと、というわけではないのだけど、せっかくなのでこのブログを見てくれていた人たち、そしてPersonaを読んでいない人たちにも僕なりの理由ってやつを話しておきたい。
 あれから色んなことがあった。ジャマイカとアメリカでのドライブの話はしたかな・・・大学を卒業してまたサーフィンを始めて、今はITの会社で勉強してる。しばらくそうだと思う。こんな報告の仕方をすると、まるで本当に日本が、日本語社会が、そして僕の周りが世界から切り離されているように感じてしまうけど、ちゃんとPersonaでもFacebookでもTwitterでも更新し続けてる。むしろソースとツールが増えたからリリースする情報には厚みが出てる。言語が変わっただけ。とは言え、情報の流れる方向を変えたのも僕なりに思うところがあってのこと。


1.よく耳を傾けること

 今は、という話だ。まだ発言する時ではない。それよりももっと、得ておくべきものがたくさんある、と察した。そのために僕はここへ来た。ひたすら沈黙を守る、というわけにはなかなかいかないが、沈黙は雄弁であるということもある時期には真理だ。



2.テクノロジーの力を信じること

 幸いなことに、僕たちはとてつもなく大きなパラダイム・シフトに生きている。そして僕はその大地溝帯の、少なくとも見える範囲に生活出来ている。今なら、逃れられる、知らずにやっていくことも出来るけど、僕はこの濁流になんとかライドオンしてみようと思う。
 今ここで情報資源に関連する全ての常識が変わっていっている。教育やニュース、書籍や音楽。広義での情報産業は僕らでも容易に国境を超えることが出来るようになった。知識ももはやその例外ではない。



3.クールに、スマートに

 言い換えれば、シンプルに、効率的に。クールであることは一貫して僕のモチベーションの最大の要因であった。そしてそれは身の回りをシンプルにするのに役立った。またリソースがシンプルになればスループットも速く、まとまりのあるものになる。
 エントロピーは放っておいても増大する。例え家を空けておいても、タスクは増え続け、興味の方向も増えるばかりだ。だから減らし続けなければならない。削っていけば、人生は驚くほどシンプルだ。自分の気持もそうだ。





 まず、何故日本語でのアウトプットから距離を置いているのか?


 ひとことで言うと、英語を覚えるため。これが最大要因。人間は怠惰だ。いくら自分のせいにすることをモットーにしていても、環境には勝てないことを知った。ならば、常に環境に適応していくことが最も賢く、そして刺激的なやり方だと思った。強いものではなく、変われるものが残る。
 これだけ世界が近くなるツールを手にしたんだ。可能な限り世界に自分を晒してみようと思った。嫌でも街を歩けば今は日本語を使わなければいけない。しかしPCを使っているとき、ケータイをいじっている時、新聞を読んでいる時は嫌でも英語を使わなければいけない状態、つまりジャパン・ローカルでなく世界に身を置いてそこに順応しようと思った。Androidにする前からケータイの英語表示は当然のようになっていた。
 一応このブログは日本語、PersonaTwitterは原則英語、と分けてるけど、「日本語でも書ける」ことにしたら楽な方を選ぶ。だから時間をかけてでも英語で記事をポストするというルールを自分に課す。それに、その時間は必要な時間だ。もし続かないならば短い文章をtweetする。とは言え、こうして日本語で書くことはもちろん可能である。ルールでなく努力目標を遵守するには、何かしらのインセンティブが必要だ。僕にとってそれは「尊敬」あるいは「クールであること」と、世界へ出るという「夢」だ。それが僕にとって世界に向けてアウトプットするガソリンとなっている。

 英語でブログを書くようになってからそれまでの読者からの反響はなくなった。「英語だから読んでません」と言われることが多々ある。それは仕方のないことだ。「英語だから読んでます(読めます)」という人を求めるようになったのだから。だから、英語でのやりとりに協力してくれる友達はありがたい。mixiだとそうはいかないしな。といってもLANG-8のcorrectを見ると本当にひどい英語なんだろうと思う。まだまだだ。
 いずれは、本当にいつかはこっちのブログも日本の大事な友人たちに向けて、あるいは日本から世界に向けてのエントランスとして頻繁に更新してマルチに活用できたらいいと思う。現在でもそういうことは可能だけど、僕自身の事情でしばらく(たぶんアメリカに住んで慣れるまで)はPersonaメインで更新します。たまにこうやってこっちでも報告できたらいいな、程度。半年に一回くらいチェックしてくれたらいいかな。


 久々にAmebaで記事を書こうとしたら編集機能が色々変わってる。こういう一定期間を置いた変化に気づくこともまた貴重な経験だ
 というのも、あれから(このページに姿を現さなくなってから)、Readerで日常的な情報収集の方法について模索していた。Android携帯の一台持ちを始めて、メールアカウントはGmailに一本化した。TwitterではシリコンバレーのIT従事者を何十人もフォローして最先端の情報がダイレクトで常に届くようになった。Readerでは現地情報サイトをSubscribeして複数ソースから同じ情報を、あるいは特定のソースからの貴重な情報を余す所なく入手するようになった。世界の最新の情報が止まることなく届き続ける。テクノロジーが生活を変える様子がここからでもよく見える。ライフハック系のリベラルなエンジニアやライターたちはいつからかノマドという言葉が使うようになってDIYを崇める。これは僕が2年前に考えた、あるいは去年ジャマイカでのサーフィン生活アメリカでのドライブ生活で確信したアイデアだった。そしてIBMのスマートプラネットやGoogle、Facebook、Twitterなどがやってる「アカウントを繋げる」というアイデアも2年前の僕らの研究で提唱したことだった(もっとも、僕らの論文の主人公はGoogleでもIBMでもなく、日本の広告代理会社だったのだけど)。今のところ僕らの憶測はだいたい合ってた。
 もちろん、僕が生きてるリアルの世界ではそんな人達ばかりではなく、今生まれているブランニューな価値観とのギャップを感じることが増えたのも事実。でも僕はまだIT fieldという延長線上にいれるから希望はたっぷりある。考えるべきことは多い。

 と、まあ、いまだ模索中ではあるけれど、情報の取り入れ方や発信の仕方は劇的に変わったということだけは明らかだ。そしてこれは良い変化であることを証明するために加えると、情報量とソースの幅は何倍にも増え、発信する先も(世界中に)また広がった。







あまり使わなくなったものたち


①MSN(Hotmail,Skydrive)
 中学生の頃から使っており、かなり使い慣れてはいたが、Android端末購入をきっかけにGmailに移行し、Google文化の虜になってしまった。それは特にLabのような、オープンな文化に尽きると思う。ここまで言うと個人情報に対するスタンスの話になってくる。簡単に言うと、MS始め一部の保守的なプロバイダーあるいはユーザーは個人情報を「守ること」を目的にしている。一方でGoogleやFacebookなどの企業やユーザーは個人情報を「公開すること」に目的と意義を感じている、と思っている。それらを比較して、僕は2008年の研究時から後者のスタンスでいる。これは内田樹氏の「個人情報は他社と共有してこそ意味がある」(『知に働けば蔵が建つ』)という言葉の通りだ。だから僕がGooglerになったのも必然だったのかもしれない。
 そしてそれが結果としてBUZZやFacebookの個人情報取り扱いにおける問題として時に露呈してしまうのであろうと、僕は思う。彼らは管理的なミスを犯したのではなく、ユーザーレベルの情報活用を進め過ぎたのだ。
 ちなみにSkydriveは使う頻度こそ減ったものの、過去のPP資料などを公開するときなどは未だに重宝する。というのもやはりOfficeの力が強すぎるからだろう。Google Doc.はやはり今のところMS Officeには遠く及ばない。ただやはりブラウザを通さない編集というのもどこか煩わしさを感じるようになってしまった。

②Ameba
 「クオリティは高いが(ユーザー要求は高いレベルで満たしているが)オープンでない(外部サービスとの互換性が低い)もの」をガラパゴス的、とするならばまさにAmebaはそれに当たると思う。ちなみにmixiもそうだと思う。最近ログインしていない。(広告などを見ているとGoogle Japanは積極的にアプローチをかけているようだがmixiは何を守りたいのか、とても慎重なようだ。)
 ◆英語表示ができない
 ピグもUSで展開、普及しはじめているというのに、アメーバがグローバル・ブログに成り得ないうちは僕にとってPersonaの代替には成り得ない。
 ◆編集画面
 今書いてて気づいたけどHTML編集ウィンドウとプレビューウィンドウが分かれている。これ、使いにくい。こういうことこそ、「ユーザーフレンドリーでない」、と言うのではないか?Google Bloggerのタブ分けはとても使い易い。
 ◆この際だから仮想世界について
 またアメーバピグにあまり魅力は感じない。仮想世界に興味がないというわけでもない。GUI(と言っていいかわからないが)の方法の問題である。アバターをビジュアルで作り出さなくても、僕らはネット上で取引をし、コミュニケーションしている。既に仮想世界に僕らは住んでいると思う。しかしSecond Lifeもアメーバピグも試してみたが、これらの仮想世界はユーザーフレンドリーであるようで実はそうではないと思うのだ。
 インターフェースを進化させるということは、ユーザーがコンピューターをより意識しなくなるということと理解する。コンピューターの進化によって原始状態つまりコンピューターがない物理世界での僕らの生活により近づけるというジレンマがGUIには含まれているのだ。その進化過程での大きな問いが、この仮想世界の普及において問われると思う。
 とは言っても、まだまだゲーム感覚での普及の域を超えてはいないだろうと思う。僕は元来テレビゲームをやらないから、モバゲーもネットワークゲームとやらも、これら仮想世界もなかなか馴染めない。しかしこれはかなり重要なことではないかと思う。どういう事かと言うと、前述のように僕は「個人情報は公開することに意義がある」というスタンスの人間。サイバーとリアルを分けて考えるのではなく、サイバーとリアルが相互補助の関係にあるし、これからもそうであるべきだと思う。これは至極当然のことだと思うのだけど、おそらくゲーマータイプの人たちは「個人情報は隠すべきもの」というスタンスの人が多いのではないだろうか。匿名性というのはごく限られた状況において必要とされるものであり、ブログやSNSといった中核的な(少なくともプロバイダーはそうしたいであろう)コミュニケーション・ツールにおいて個人情報を活用しないことは、それこそ「ゲームの世界」から解放されない(オープンでない)。ユーザーにとってもそれはいいことではないと思う。
 ◆なう
 これらと同じような理由で、アメーバなうも馴染まない。ついでに言うとmixiボイスも。たぶんアイデアとして、限られたユーザビリティとしては高いクオリティを持っているのだと思うが、Twitterというオープンで強力なサービスが支配的になっているというのに

③mixi
 上記でかなり述べてしまったけど、要はそういうことである。mixiとAmebaを使うようになってからずっと思っていたが、最大の特徴はオープンでない。そしてあれから4年たってもほとんど改善されていない。プロフィール設定や日記の公開範囲に「mixi外にも公開」という項目を作ればいいだけなのに。
 mixiアプリという発想もせっかく外部サイトとの連携を図れるチャンスであるはずなのにその効果はあまり見られない。open IDの提携サイトもなんだかよく分からないサイトが多い。説明を見てみても日本のサイトが多い。当然これから増えていくのだろうけど。
 Facebookの日本進出もより活発になるだろうし、SNSの本質的な意義を考えなきゃいけない。とは言え、日本市場においてFacebookにも課題は多い。mixiに慣れてきた日本のユーザーにはFacebookは複雑すぎる気もするし、やはりオープンなアカウント利用、個人情報の積極活用、リアルとサイバーの相互補助に対してのアレルギーが日本人は強い気がする。つまり「ネットはネット、リアルはリアル」という悪しき慣習が根強く、そもそもそういった文化を作ったのが他ならぬmixiや2ちゃんねるのような気がする。これだけは何度も言うけど、個人情報は公開してナンボだ。「知ってもらう」ことの効用をよく理解した方がいい。それこそがデジタル・デバイドの最大の課題のひとつであると思う。
 GoogleやIBM(スマートプラネット構想だって「個人」を「企業」に置き換えただけであって、更なる情報の価値創造だ)がそれを率先して啓蒙する必要があるとも思う。
 



 なんにしても、Jamaicaへ行く前に更新して以来のエントリーだ。こうなったのも、語りすぎないことがクールだという信念に大きく起因する。これは、英語で物を書き始めてからより実感した。思っていることを英語でアウトプットしようとすると、日本語でそうするよりも、余計な言葉が全て削られる。英語での表現力がないからに他ならないけど、そのおかげで言葉の魔術師にならないで済みそうだ。美しい、聞こえの良い、うまい言葉を吐きながら中身の浅はかさを隠そうとする輩がたくさんいる。それは何より言葉への侮辱だ。「言葉に気をつけろ」というのもそういうことなんだ。
 そして理解してもらおうと試み続けなければならないという信念とのジレンマに揺られている。現に、シリコンバレーの多くの日本人たちは日本語でのアウトプットを続けている(とてもありがたいことに)。そして僕の周りの人達からの信用形成にはこのブログを始め日本語でのアウトプットが少なくない貢献をしてきたと思う。それでも、世界に向けるだけの価値はあるんじゃないかと思った。
 卒業を前にしてから、将来が少しリアルになった。あと7年で30歳。7年前に何をしてた?グラウンドで泥まみれになってた。ついこないだのように思い出される。30歳になっても、おそらく今のことをついこないだのように思うんだろう。学ぶ時間はまだある。だが迷ってばかりいるほどの時間はもう、ない。やはり僕はアメリカに行きたかった。新しく知ったのは、シリコンバレーという中継地点がカリフォルニアにあることだった。

 「だったら行けばいいのに。お前はゴタクを並べて尻込みしているだけだ。」

そういう意見は当然ながら想定内。そして自分にも時々そういった問いを投げかけているのも事実。だけど、僕は旅人の現実を初めてのカリフォルニアで見てきた。憧れの地で、自分がしようとしていたことを行動に移した先駆者たちが、その代償として大きな夢を失っていた現実を垣間見た。あの時の衝撃が未だにコンプレックスになっていて、僕は回り道をしてでも、その先を見据えた旅人でありたいのだと思っている。不法滞在者は社会で認識されない。ルールとテクノロジーとパッションによってカリフォルニアに渡りたいんだ。


 結局英語で書いてみたい内容にまで踏み込んでしまったが、やはり日本語でリリースするとタイピングの手が止まらない。そして文章力も少し衰えたような気もする。不定期でもこのブログは続けていくつもりなので英語に興味のない人も僕のことをどうか忘れないで欲しい。


引き続きPersonaをよろしく。
1ヶ月ぶりに日本に来ました。
新しいブログに日記を載せました。
PERSONA

こっちだと英語表示がしにくいので様子をみつつ移行できればと考えています。
I will go to Jamaica tomorrow.

please send mail ksk-11tokyo@hotmail.co.jp
to have contact with me.

I will visit Jamaica Surf Association and a president Mr.Billy
and be a Caribbean Pirate Surfer!!
After 2 weeks, back to NY and go around somewhere in US.

I'll be back in 20th November, maybe. ha ha!
これまで、考えることが成長だった。
そして言葉にすることが情報の整理になっていた。
そう思っていた。でもひとつ欠けていた。もっと入れなければ。

 学ぶことはフローだ。情報をインプットし、それについて考えることで付加価値をつける。そうやって自分のフィルターに通したものをアウトプットする。そんなフローを作ることで徐々に固定資産は増えていく。複数の局所的情報は大局的情報となり、インテリジェンスとして自分の中に残る。
 考えることはとても重要なことのように思えるが、いや確かに重要だが、どんなに想像力を働かせても外からの情報無しでは生産がストップしてしまう。更に厄介なことに、3つのうち、考えることだけに時間を費やしてしまっても、それなりにその中で考えは変わっていくから成長した気になってしまうのである。これはとてもやりがいのあるプロセスだし、他人の評価を一切受けないから満足しやすい。そしてそれが間違った方向に向かっているかどうかの見極めは、はじめのうちはとても難しい。だから、気づいたときにはもう修正する余裕がない、なんてことになってしまう。
 俺には決定的にインプットが足りなかった。情報フローバランスが悪かったのだ。もちろん、生産に時間をかけてきたから、こんな考えにも至ったし(実際こういうこともある)、その分のアドバンテージも持っている。しかし、たまにやってくる劣等感はおそらく情報インプット量の欠落から来るものではないだろうか。要するに、俺は圧倒的に勉強不足だったわけだ。それでなくても、経験に依存する弱い生き物だって知っただろう。豪雨のように自分に降り注ぐ情報の中にいないと、俺の中の資源は枯渇してしまう。

 ちょっとこれをみんなに話してみよう。そして決定的な理論だったらこれを教育理論に昇華させて学校を作ろう。
 いつか見たあいつが、また大きくなって久しぶりに戻ってきた。昔はいつも一緒にいた。俺が大きくなるほど、そいつと会う機会は段々と減っていった。しかしいなくなったわけではなく、俺の周りの仲間たちの影に隠れていたり、いやわざと目を背けて見えないふりをして、いつしか忘れるようになっていた。こんなんじゃ、いつまでたっても一人ぼっちで、何かを失った途端にどん底だ。

俺はいつからこんなところにいたんだ?

 あいつは俺をどこかへ連れ戻そうとする。「お前の居場所じゃないだろう、ここは」と言って。しかし、ならばどこへ連れて行くんだ?どこが俺の場所なんだ?もしかして5年前のあの場所か?それとも、まだ行ったことのない場所?答えは返ってこない。不安でたまらなくなる。俺はこの先どうなっちまうんだろう。このまま流されちゃうのかな。消えちゃうのかな。押しつぶされちゃうのかな。こんなにわがままな俺はいつか理想に飲み込まれて、いつか取り返しがつかなくなっちゃうのかもしれない。もうここからは出れないのかな。昔、夢見たあの場所が、前よりも遠くに見える。

臆病なんだ。

 わかってるんだ、答えはひとつしかない。こいつが近くにいる限り、たとえ見えないところにいようとも、背後にいたとしても、透明になったとしても、俺の周りのまぶしいばかりの幸福や、仲間たちの影に隠れていようとも、俺はそいつから目を背けずに、見失わずに、人知れず努力を続けるしかないんだ。必ずそいつはいつか本当にいなくなると信じて。
 本当のことを言うと、問題意識はある。先進的な考え方も持っている。しかし想像に自分の能力が追いつかない。想像力を売れば金にはなるのかもしれないな。


 あと、やっぱり努力は隠れてしたほうがいいな。見られないと、自分の評価と自分への認識にギャップができると思うだろう。その逆だ。じゃなきゃもっともっと悩むことになる。努力なんてしないに越したことはない。努力なんて金にならない。努力で幸せにはなれない。
 あんまり努力を見せると、たちまち自分はなんだかすごい人間なんだと錯覚して、それが進むと、なんでこんなにすごい俺がこんなところにいるんだ!なんて傲慢なフラストレーションを起こしだす。挫折は恐れずに育て上げ、成功は次の日に捨てろ。


 言っておくが彼みたいにはなりたくはないんだ。彼とは、自らをBOSSと呼び、ちゃんと人の暗さと向き合い、それを言葉にし、俺みたいな狭い列島のkidsたちに伝え続けたあの彼のことだ。彼には感謝しているし、今も大好きだ。彼の言葉は今でも多く思い出すし、とてもインスピレーションをもらった。彼が発信したことで俺がここに今いれるとも思う。助けられた。しかし、ああやって金を稼いでいいものだろうか、と思ってしまう。
 結局のところ俺は普通の常識ある中産階級出身の人間だった。昔、好きだった女が水商売をしていた。それを知った途端に、俺の気持ちはなぜか萎えた。受け入れる時間がなかったとも言えるが、そこに時間を割く気もなくなった。それまではそいつとの予定は一度として断ったことがなかったのに、だ。他にもそういう仕事をしている知り合いはいるし、言葉や態度ではフェアに扱っていても、意識化で俺はそういったものに偏見を持っていたことを知った。ショックだった。だったら俺はどうやってここから抜けだせるんだろうか、と。
 俺は何よりも金が欲しかった。本当に欲しいものはそりゃあその先にあるのだけども、わかり易いインディケーターとして、また使いやすい手段として金が欲しい。一方、芸術家とは、つまりサイエンスでなくイマジネーション、答えのないものを生業にする人はそんなことを思っちゃいけないと思う。純粋に好きだから映画を作るべきであって、金のためにやっちゃいけないと思うんだ。そしてその中の一握りが奇跡的に成功して富を手にする。
 いや、要するに、勝てばいいんだ。結局のところ、勝利は金で、理解も金なんだ。自分の意見や思想を発信し続けて、それが理解されないと嘆いて世の中に嫉妬しているような奴らが一番嫌いなんだ。その嘆きは、自分に対する疑いだから。信じ続けていれば、あきらめない。理解されないで「自分は正しくないんじゃないだろうか」と思い始めたら、もう芸術家なんてやめるべきだな。その逆もまた苦しいはずだ。

 NTT com.のTV cmは好きだ。おばあさんが「私が会社を作るかもしれないでしょう。恋愛だってするかもしれないのよ。」と語る。とても夢のあるカッコいいcmだ。NTT com.はICTという言葉を積極的に世に広めようともしている。いいことだと思う。可能性があることはすばらしいことだ。こんなメンタリティを心のどこかに持っていれば保険にはなるかもな。
素直にならないと、深みにはまる。
負けを認めないと、それを糧にすることもできない。

 本人は気づいているのか知らないが、自分の欠点について触れない人間がいる。人知れずそんな部分と向き合えるならば問題はないのだが、どんな人間にも素直に自分の非を認めないと、周りの優しい人間たちはそれを指摘しない。気づいていない本人はそこから課題や解決策を導くことが難しい。成長する機会を損失している。そう簡単には他人の視点になんてなれないから、もし本当に他人に弱みを見せずに行くならそこまで一人ぼっちで成長するしかない。そんなに人間は強いかな?



新しい自分がうっすら見えた。
いや、なんも新しくはない。

 たぶん俺は広告屋とかのほうが向いてたんだろうな、とふと思った。とても失礼なことを言うようだけども。カッコつけてばかりで生きてきた俺は「良くみせようとすること」はわりと得意なんだ。スマートで、スタイリッシュな文面も考えられる。多くの層に受け入れられるようなちょっとした工夫も得意だ。そしてそういうことをしているときはわりと楽しい。
 ただ、本当のところあまり好きじゃない。どうしても真実や本質的な部分から乖離して理解されるのが俺の哲学に反する。いいギャップでも、悪いギャップでも。真実を伝えること、あるいは発信され、受け取られたイメージに追いつくことが俺のミッションであると考える。そうすることでしか自分の本性を正当化できない。


 言いたいことがこんなにあるのに、どうして言葉になるのはこんなに少ないんだろうか。思考回路から、発言という次の段階に行く障壁は高い。一度言葉にしてしまえば、他者や外界に対して責任をとらなければならないから、慎重に審査されたものでなければ言葉にはならない。この障壁によって、人間社会はバランスを保ち、人と人は秩序の中にいれるのかもしれない。
The less I have, the more I feel there is no home. It's the fact to be lonly, but more strange feelings is there.

I let many things go away without regrets. I had fun with this toy enough, I gained the theory in this book, I've lost interest in this movie, this CD had been in i-Tune... I let them go like this.

What is the rest finally?

The more I discard, the more I know what it is. I sometimes think with sight of trashes, have I lived depend on such a rubbish? No, it is not true. I will not change anymore even I give them away. So why did I take such a many things?
In addition, I have precious memory with them all. Everything have created me.

However, just now. The most important thing is present me.

I've been changed compared with before having. But now I ain't different anymore compared with before losing. It seems to feel like not my home when there is not so much things. No, like ever since far. Like I have misunderstood as my home selfish because of exist of my luggages.
So is the surf club house in Chiba my true home? How about rugby club house as highschool days? I wanna believe that everything is true, but nothing is. The only fact I know is that they were the place I was in.

I usually think that I want something I cannot get ever. Almost is that. They will be transformed inside me soon when I get. The existence will not be transformed. That means the changes of them 'unobtainable thing' to 'already gained' inside me. So the thing which will never change inside me is what I can never obtain.



持ち物が減るほど、俺の家はいったいどこなんだろうと思う。
寂しくないといえば嘘になるが、もっと不思議な感情だ。

思い切りよく色んな持ち物を捨てた。
このおもちゃはもう充分楽しんだ、この本の中身はもう頭に入っている。
この映画は見飽きた、このCDはi-tuneに入ってる。
そうして次から次へと物を手放した。

最後に残るものは何か。

次第にその見当もついてくる。
ゴミ捨て場を見て思う。

「俺はこんながらくたに縛りついて生きてきたのか?」

いや、逆だ。捨てたって、俺は何も変わらねえ。
だったらなんだってこれまでそんなに物を持って来たんだ?

少し言葉が足りなかったかもしれないが、あのゴミの山も、全部大切な思い出がある。
すべてが俺を形作ってきたものだ。

でも、今なんだ。重要なのは今の俺だ。
手に入れる前と今じゃあ、大分変わった。
でも多くを手放した今、別に手放す前とは何ら変わらねえよ。

部屋に物がなくなると、まるで俺の家じゃないみたいに思えてくる。
いや、実はこれまでもここは俺の家じゃなかったように。
今までは「俺の持ち物と思っていた物」があったから、勝手に自分の家だと錯覚していたかのように。
だったら千葉のクラブハウスが俺の家?高校の部室が俺の家?
どれもそうだと思いたいが、どれも違う。
今思うのは、それらが「かつていた場所」ということだけ。
それだけが俺にとっての事実だった。

「手に入らないものが欲しい」とよく思う。ほとんどのものはそうだ。
手に入れた途端に俺の中でそれは姿を変える。実態は変わらない。
それはつまり、俺の中で「手に入らないもの」から「手に入れてしまったもの」に変わってしまうということだ。
だから、ずっと俺の中で変わらないものは、手に入らないもの。。。

そんなことを考えていた矢先、
手に入れても、大切にしたいものが、少ないけどあるんじゃないかと思った。
いや、それは手に入れていないからなのか?
変わり続けるからなのか?
We often hear the way that try to behave bad.
Not realy act villain but appeal my recessive as way to impression the opposition image against original.

People always try to evaluate someone better than realy impression. There is many kind people.

Nobody can understand just my real parsonality and it is almost impossible. So no matter how deeply anyone understand me, he or she often consider me overestimate than real. Off course the first impressions may be underestimate, however they amendment as communicate increase because of the opposition. And as accumlate of them, the image of me inside people mind will be larger and larger. At same time, I try to follow the image cuz it is happy to be understood.

But to catch up the speed is very difficult. Me overestimated, Me trying to catch up and me cannot follow him. Real me who is lonly try to create another me who is inferior then real and let him reflect to the blorted image. The recessive parts are invisible for oneself also other people despite its importance is not so much difference with good parts. Everyone wanna show better parts.

Each image of me are not quite virtual image. Because each are made from the fact and lil gap of communication.

So sometime I try to be nasty. I ain't a honor student. I lived in rather tough world. But I've wanted be honor, and wild through my lifetime.

For example about girls, I will love one woman just one time, but it is also fact to want to meet onother girl sometime. It's easy to say that it comes just less love, but it is very difficult thing I think. It'll be fuct that I was inspired Anthony Kiedis, Eikichi Yazawa, Takeshi Kitano and more, if I lost liberty by gain love, I don't want it. I love someone to be free.

The motives to live are money and lady. I will make money to be free. I make love to be free. I am not interest in people who attitudinize free with light words and behavior. I just wanna express free through my lifetime.


Nothing is better than less words.



わざと悪くふるまおうとするというのは、よくある話だ。

悪者を演じるとまではいかなくても、先のことを考えれば相手の勘違いを訂正するために今と真逆のイメージを植え付ける手段として大げさに自分の劣勢をアピールする。往々にして、人は相手を、実際に思っているより高く評価しようとする。優しい人たちが多いんだな。

本当の自分のことをピンポイントで理解してくれる相手なんていないし、そんなことまず不可能だ。だからどんなに理解力のある人間でも、俺以上の俺を俺に見る。もちろん初対面は俺以下の俺をイメージすることも多いだろうが、その反動もあってか時間がたつほど上方修正されていく。そしてそれが積み重なっていくと、だんだん相手の中の俺は大きくなっていく。同時に、理解してもらえることはうれしいから、俺もそのイメージに追いつこうとする。

だが、そのスピードに追いつくことは、なかなか難しい。次第に膨らんでいく俺、それに追いつこうとする俺、置いてかれる俺。ひとりぼっちになっていく本当の俺は、もう一人の、事実より劣った俺を作りだして、先に進んでしまっている肥大化した俺のイメージに反映させようとする。悪い部分ってのは、相手にとっても、自分にとっても見えにくいものだ。重要性という面では、いい部分と全く変わらないのに。誰でも、自分を良く見せたがるものだ。

どの俺も、全くの嘘ではない。事実に基づいて、少しのコミュニケーションのギャップから生み出されたものだから。だから、たまに無茶をするぐらいの悪ノリをする。俺は優等生じゃないし、どちらかと言えばタフな奴らに囲まれて生きてきた。でも優等生になりたいと思っているし、同時に死ぬまでワイルドでいたいと思う。


例えば女のことに関して言えば、俺は一途に愛するつもりだが、たまにどっか別の女と遊びたくなるのも事実だ。
愛が足りていないだけと言ってしまえばそれまでだが、俺はどうしても難しいことに思える。アンソニー・キーディスや矢沢永吉や、北野武に影響されたとすればそういうことなんだろうけど、もしそんなに自由がなくなるんなら、愛なんていらねえよ。俺は自由になるために愛するんだ。男の生きがいは金と女。自由になるために金を稼ぐんだ。自由になるために女を得るんだ。簡単な言葉やモノで、付け焼刃のように自由だとかほざく奴のことは俺は知らない。俺が、自由を体現したいんだ。


言葉は少ないに越したことはない。
It seems like a clown.

To watch is very interesting cuz strange,
however, nobody immitate him.

I wanna be the pied piper,
and want take everyone to somewhere.
Then I could be never lonly.


They told me spines wristed.
And I wanna be spines wristed than they say.

But who walked curved avoiding bliefs of many peoples was me.
avoided real opinions.
How many such the words I've said.


I've said that I have betrayed a few times.
I broke relation with them I had friendship.
If I walked straight, I lost more frindships not only them.

Friends I have conflict when it is the most serious case
may more than I expect.
It's the compensation of my way, I feel lil.
I noticed sych a naturally thing finally.


In a case, to be pure is seems like mad in this world.
We all give this kind of mad away unconciously
with the excuse to grow up.


ピエロみたいなもんだ。
変わったことやってるから、見てて面白いが、誰も真似なんかしない。
笛吹き男になりたかった。
先頭で笛を吹いて、みんなをどこかに連れて行ってしまいたかった。
そうすれば、また寂しくなることもなかったのにな。

尖ってると言われてきた。
そしてみんなが言うよりも、もっと尖っていたかった。

しかし実際腹切場を避けてきたのは俺のほうだった。
波風立てずに大勢の信念の間を縫って、曲がりくねって歩いてきたのは俺だった。
我ながらよくもこんな綺麗ごとばかり言ってきたもんだ。

裏切られたことが何回かある、と言ったことがある。
かつて仲間だった彼らとは決別したが、それもある意味偶然であり、
まっすぐに歩いてきたら、彼らに限らずもっと多くの仲間を失っていたのかもしれない。
いざと言うときに分かり合えない相手なんて、自分が思っているよりたくさんいて、
それがこうやって生きてきた代償なんだと、当然のことをやっと少し感じた。


純粋であり続けると言うことは、時として周囲からは狂気に映る

僕たちはいつのまにか、
大人になるという言い訳とともに純粋という名の狂気を捨てる
I dont believe happy we can express by some object easily.

Everyone dont have so much value at something they have already gained.
However, they dont wanna give them away.

This habit is the bad baseically to human.The reason why they dont wanna give away is not to gain truly.Think more.

If you can gain that truly, you can get it again anytime when you lost temporally.
"to be able to get anytime" means to get truly, I say.
Think of your luggage you've kept carefully. When you give it away truly, you can refer to, remember, and talk about it on your mind. You r not in freedom among you depend on objects.

It was shame to be ordinary for me.
It seems like unordinary actions, consistently I dont wanna be anything dirty. if I dont have any prejudice and borderless mind I think, I have some border I dont wanna across unconcious. To consider it pride is sounded good, but the truth is cheap disposition with guilty. The surface is glory and showy, however, I suffered the gap unexpected from thought of my guilty for sly mind. the controler of mine dont appere often.
But the time was irreplacable cuz limited. when I just got the thought about 'to get something'.
Such as "do not give your luggage you have not get truly yet, you have to give something you've gained truly."
However, I tried to lose a thing I've not get yet by myself. A youngstar who dislike "momentary", "youth pride"and so on, tried to let go future. The conclusion I desided was to debt I dislike mostly. The one and only thing I prior to more than to have obligation to myself in future is the desire to idealize.

It is generally to let diseire consider as bad thing. And it is real fact that most negative emotion among people depend on their desires. But this way to reffer is the violence to people's dream, vision, future, hope, and so on for sure.
Desire is hope.
Desire is dream.
Desire is will.
Is this dilemma I cannot share with anyone the consideration? This surffer time fighting with my pride directly?
then it seems to cowerdly that considered like this.


Following is the article about Eikichi Yazawa. This is written by Nikkei reporter, Asada. It is good article and words.


As elementary student, lunch times most students long for was his suffering.
"I ate lunch at school free on welfare. at lunch time, I went to the back door of kitchen and get some bread and milk in the row. am I begger? fuck it! how much they insult me? I thought." He burned with his pride more.
"I decided to retaliate against this social system. I have to climb top to retalitate as child mind." It was anger seems like fire burning.
What have let Yazawa run? It seems a hint not to deny that he was cowerdise.
"when I was young, always anxiety, always scary."
He questioned himself every night.
"will I flow into crowded society?
will I disappere?how will I be? am I ok? always I thought."
Analizing self weakness and, think strategy, and you can see hope. Cowerdise will be your weapon.

Nothing disappere easyly than motives. It's the alert unconscious.
"to image my vision on mind encourage me. I believed that it may realize tomorrow, everyday I thought."


NTT's new copy is also good.

"Why Ichiro can create future despite he repeat similar days?"
the answer,
"It's only way to get very far place that sure to each steps."

I cant forget this message. He said this in the interview when he broke the record for annual amoun of hit. I have a piece of this article now.



簡単にモノで表せる幸せを信じない。

人は手に入れてしまったものに特別な価値を置かなくなる。
それなのに、一度手に入れてしまったものをなかなか手放そうとはしない。人間のこの性根が悪の根源だ。

なんで手放したがらないかって、本当に手に入れていないからだよ。
よく考えてみるんだ。

本当の意味でそれを手に入れていたならば、手放しても、いつでも手に入れられるはずだ。「いつでも取り戻せる」ってことを、手に入れるって俺は言うんだ。大切にしまってきた、部屋の片隅のその持ち物のことをよく考えてみなよ。本当にそれを君が手放した時こそ、君はそれを心の中でいつでも参照出来るようになる。思いだすことができる。伝えることができる。物質に頼るうちは不自由なんだ。

普通であろうとする感情を恥じた。

常識を超えて行動してきたように見えるが、一貫して、汚れたくはなかった。偏見などない、ボーダレスであると思っていても、意識下でどこか超えたくない線があった。プライドと言えば聞こえはいいが、綺麗事と言われても何らおかしくないような、後ろめたさを伴う意地だった。表面は豪快で、この上なく派手でも、どこかずる賢さが後ろめたく、その意図しないギャップに悩んだ。高校を卒業してから、この手の葛藤は絶え間なく続いた。コントロールする自分はなかなか顔を見せない。
ただ、どうしても時間には代えがたかった。ちょうど手に入れることへの哲学が俺の中で形成された時期だった。本当に手に入れるまでは手放すな、手に入れた物こそ手放してしまうんだ、と。にも関わらず、俺は手に入れていないものを失う覚悟をしようとしていた。刹那的だとか、若気の至りとかが嫌いだった若者が未来を捨てようとしていた。俺が出した結論は、もっとも嫌いな「借り」だった。未来への負債を作ってまで譲れなかったものが唯一、理想像への欲望だった。
欲望を悪とする思想はよくある。そして現実的に人間のネガティブな一途は欲望が原因だ。ただ、こう言ってしまうことこそが、人間の希望や夢に対する暴力であるとも思う。欲望は希望であり、夢とイコールであり、主体性の裏返しだ。
この誰一人として共有しえない葛藤こそが対価なのか?己のプライドと正面から対峙する苦しい時間こそが。そしてまたそう決めることが、都合良く綺麗に片付けようとしているようで、汚く思えた。



矢沢に関する記事だ。
朝田という日経の記者が書いたらしい。ずいぶんいい文を書いている。


小学生時代、楽しいはずの給食は耐え難い時間だった。
「生活保護の名のもとにタダで食わしてもらってるわけです。食事になると、作ってる場所の裏口でコッペパンとミルクを貰うんですよ。並んで、はい、はい次ってときに思った。これって物乞いか。ふざけんなよ。どれだけ俺は馬鹿にされてるんだと思った。」
矢沢は一層尖った。
「この仕組みに報復してやろうと思った。とんでもない上に行かなきゃ報復にならないと思いました、子供なりに。」
はらわたの臭いさえ漂ってくるほど強烈な怒りの表現だった。

(中略)

何が矢沢をここまで走らせたのか。

臆病だったことを自ら肯定する姿勢に一部分を解くカギがあるのではないか。
「若い時はいつも不安だった。恐かった。19から22、23歳って、全ての人はそういうところに一回いるんだろうね。」
夜中にひざを抱え、彼は自問自答した。
「自分は流されちゃうのかな。このまま消えちゃうのかな。押しつぶされちゃうのかな。どうなっちゃうんだろう。大丈夫か。いつも思ってました。」
己の弱点を見極め、善後策を練る。瞬間光明が差す。臆病は武器となる。

志ほど溶けやすいものはない。意識下の警告だ。
「空想で思うだけで、自分を奮い立たせる。ひとつだけ言えることは、この夢は明日にでも起きるかもしれないって、いつも信じてたね。」
喫茶店で印税計算をして、音楽業界の収益構造を調べ上げ、理論で負けぬよう、頭を鍛えた。それは自らを夢へと駆り立てる興奮剤的な性格を持っていたのだろう。


NTTの新しい広告がいい。


イチローはなぜ、同じ毎日を繰り返しているのに未来を作れるのか。
「確かな一歩の積み重ねでしか、遠くへは行けない。」

忘れもしない。この言葉は、MLBで年間最多安打を記録した試合後の記者会見で出た言葉だった。
「今思うのは、小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だと感じている。」
このインタビュー記事の切り抜きは今でも手元にある。