日本語で書いておきたいこと、というわけではないのだけど、せっかくなのでこのブログを見てくれていた人たち、そしてPersonaを読んでいない人たちにも僕なりの理由ってやつを話しておきたい。
 あれから色んなことがあった。ジャマイカとアメリカでのドライブの話はしたかな・・・大学を卒業してまたサーフィンを始めて、今はITの会社で勉強してる。しばらくそうだと思う。こんな報告の仕方をすると、まるで本当に日本が、日本語社会が、そして僕の周りが世界から切り離されているように感じてしまうけど、ちゃんとPersonaでもFacebookでもTwitterでも更新し続けてる。むしろソースとツールが増えたからリリースする情報には厚みが出てる。言語が変わっただけ。とは言え、情報の流れる方向を変えたのも僕なりに思うところがあってのこと。


1.よく耳を傾けること

 今は、という話だ。まだ発言する時ではない。それよりももっと、得ておくべきものがたくさんある、と察した。そのために僕はここへ来た。ひたすら沈黙を守る、というわけにはなかなかいかないが、沈黙は雄弁であるということもある時期には真理だ。



2.テクノロジーの力を信じること

 幸いなことに、僕たちはとてつもなく大きなパラダイム・シフトに生きている。そして僕はその大地溝帯の、少なくとも見える範囲に生活出来ている。今なら、逃れられる、知らずにやっていくことも出来るけど、僕はこの濁流になんとかライドオンしてみようと思う。
 今ここで情報資源に関連する全ての常識が変わっていっている。教育やニュース、書籍や音楽。広義での情報産業は僕らでも容易に国境を超えることが出来るようになった。知識ももはやその例外ではない。



3.クールに、スマートに

 言い換えれば、シンプルに、効率的に。クールであることは一貫して僕のモチベーションの最大の要因であった。そしてそれは身の回りをシンプルにするのに役立った。またリソースがシンプルになればスループットも速く、まとまりのあるものになる。
 エントロピーは放っておいても増大する。例え家を空けておいても、タスクは増え続け、興味の方向も増えるばかりだ。だから減らし続けなければならない。削っていけば、人生は驚くほどシンプルだ。自分の気持もそうだ。





 まず、何故日本語でのアウトプットから距離を置いているのか?


 ひとことで言うと、英語を覚えるため。これが最大要因。人間は怠惰だ。いくら自分のせいにすることをモットーにしていても、環境には勝てないことを知った。ならば、常に環境に適応していくことが最も賢く、そして刺激的なやり方だと思った。強いものではなく、変われるものが残る。
 これだけ世界が近くなるツールを手にしたんだ。可能な限り世界に自分を晒してみようと思った。嫌でも街を歩けば今は日本語を使わなければいけない。しかしPCを使っているとき、ケータイをいじっている時、新聞を読んでいる時は嫌でも英語を使わなければいけない状態、つまりジャパン・ローカルでなく世界に身を置いてそこに順応しようと思った。Androidにする前からケータイの英語表示は当然のようになっていた。
 一応このブログは日本語、PersonaTwitterは原則英語、と分けてるけど、「日本語でも書ける」ことにしたら楽な方を選ぶ。だから時間をかけてでも英語で記事をポストするというルールを自分に課す。それに、その時間は必要な時間だ。もし続かないならば短い文章をtweetする。とは言え、こうして日本語で書くことはもちろん可能である。ルールでなく努力目標を遵守するには、何かしらのインセンティブが必要だ。僕にとってそれは「尊敬」あるいは「クールであること」と、世界へ出るという「夢」だ。それが僕にとって世界に向けてアウトプットするガソリンとなっている。

 英語でブログを書くようになってからそれまでの読者からの反響はなくなった。「英語だから読んでません」と言われることが多々ある。それは仕方のないことだ。「英語だから読んでます(読めます)」という人を求めるようになったのだから。だから、英語でのやりとりに協力してくれる友達はありがたい。mixiだとそうはいかないしな。といってもLANG-8のcorrectを見ると本当にひどい英語なんだろうと思う。まだまだだ。
 いずれは、本当にいつかはこっちのブログも日本の大事な友人たちに向けて、あるいは日本から世界に向けてのエントランスとして頻繁に更新してマルチに活用できたらいいと思う。現在でもそういうことは可能だけど、僕自身の事情でしばらく(たぶんアメリカに住んで慣れるまで)はPersonaメインで更新します。たまにこうやってこっちでも報告できたらいいな、程度。半年に一回くらいチェックしてくれたらいいかな。


 久々にAmebaで記事を書こうとしたら編集機能が色々変わってる。こういう一定期間を置いた変化に気づくこともまた貴重な経験だ
 というのも、あれから(このページに姿を現さなくなってから)、Readerで日常的な情報収集の方法について模索していた。Android携帯の一台持ちを始めて、メールアカウントはGmailに一本化した。TwitterではシリコンバレーのIT従事者を何十人もフォローして最先端の情報がダイレクトで常に届くようになった。Readerでは現地情報サイトをSubscribeして複数ソースから同じ情報を、あるいは特定のソースからの貴重な情報を余す所なく入手するようになった。世界の最新の情報が止まることなく届き続ける。テクノロジーが生活を変える様子がここからでもよく見える。ライフハック系のリベラルなエンジニアやライターたちはいつからかノマドという言葉が使うようになってDIYを崇める。これは僕が2年前に考えた、あるいは去年ジャマイカでのサーフィン生活アメリカでのドライブ生活で確信したアイデアだった。そしてIBMのスマートプラネットやGoogle、Facebook、Twitterなどがやってる「アカウントを繋げる」というアイデアも2年前の僕らの研究で提唱したことだった(もっとも、僕らの論文の主人公はGoogleでもIBMでもなく、日本の広告代理会社だったのだけど)。今のところ僕らの憶測はだいたい合ってた。
 もちろん、僕が生きてるリアルの世界ではそんな人達ばかりではなく、今生まれているブランニューな価値観とのギャップを感じることが増えたのも事実。でも僕はまだIT fieldという延長線上にいれるから希望はたっぷりある。考えるべきことは多い。

 と、まあ、いまだ模索中ではあるけれど、情報の取り入れ方や発信の仕方は劇的に変わったということだけは明らかだ。そしてこれは良い変化であることを証明するために加えると、情報量とソースの幅は何倍にも増え、発信する先も(世界中に)また広がった。







あまり使わなくなったものたち


①MSN(Hotmail,Skydrive)
 中学生の頃から使っており、かなり使い慣れてはいたが、Android端末購入をきっかけにGmailに移行し、Google文化の虜になってしまった。それは特にLabのような、オープンな文化に尽きると思う。ここまで言うと個人情報に対するスタンスの話になってくる。簡単に言うと、MS始め一部の保守的なプロバイダーあるいはユーザーは個人情報を「守ること」を目的にしている。一方でGoogleやFacebookなどの企業やユーザーは個人情報を「公開すること」に目的と意義を感じている、と思っている。それらを比較して、僕は2008年の研究時から後者のスタンスでいる。これは内田樹氏の「個人情報は他社と共有してこそ意味がある」(『知に働けば蔵が建つ』)という言葉の通りだ。だから僕がGooglerになったのも必然だったのかもしれない。
 そしてそれが結果としてBUZZやFacebookの個人情報取り扱いにおける問題として時に露呈してしまうのであろうと、僕は思う。彼らは管理的なミスを犯したのではなく、ユーザーレベルの情報活用を進め過ぎたのだ。
 ちなみにSkydriveは使う頻度こそ減ったものの、過去のPP資料などを公開するときなどは未だに重宝する。というのもやはりOfficeの力が強すぎるからだろう。Google Doc.はやはり今のところMS Officeには遠く及ばない。ただやはりブラウザを通さない編集というのもどこか煩わしさを感じるようになってしまった。

②Ameba
 「クオリティは高いが(ユーザー要求は高いレベルで満たしているが)オープンでない(外部サービスとの互換性が低い)もの」をガラパゴス的、とするならばまさにAmebaはそれに当たると思う。ちなみにmixiもそうだと思う。最近ログインしていない。(広告などを見ているとGoogle Japanは積極的にアプローチをかけているようだがmixiは何を守りたいのか、とても慎重なようだ。)
 ◆英語表示ができない
 ピグもUSで展開、普及しはじめているというのに、アメーバがグローバル・ブログに成り得ないうちは僕にとってPersonaの代替には成り得ない。
 ◆編集画面
 今書いてて気づいたけどHTML編集ウィンドウとプレビューウィンドウが分かれている。これ、使いにくい。こういうことこそ、「ユーザーフレンドリーでない」、と言うのではないか?Google Bloggerのタブ分けはとても使い易い。
 ◆この際だから仮想世界について
 またアメーバピグにあまり魅力は感じない。仮想世界に興味がないというわけでもない。GUI(と言っていいかわからないが)の方法の問題である。アバターをビジュアルで作り出さなくても、僕らはネット上で取引をし、コミュニケーションしている。既に仮想世界に僕らは住んでいると思う。しかしSecond Lifeもアメーバピグも試してみたが、これらの仮想世界はユーザーフレンドリーであるようで実はそうではないと思うのだ。
 インターフェースを進化させるということは、ユーザーがコンピューターをより意識しなくなるということと理解する。コンピューターの進化によって原始状態つまりコンピューターがない物理世界での僕らの生活により近づけるというジレンマがGUIには含まれているのだ。その進化過程での大きな問いが、この仮想世界の普及において問われると思う。
 とは言っても、まだまだゲーム感覚での普及の域を超えてはいないだろうと思う。僕は元来テレビゲームをやらないから、モバゲーもネットワークゲームとやらも、これら仮想世界もなかなか馴染めない。しかしこれはかなり重要なことではないかと思う。どういう事かと言うと、前述のように僕は「個人情報は公開することに意義がある」というスタンスの人間。サイバーとリアルを分けて考えるのではなく、サイバーとリアルが相互補助の関係にあるし、これからもそうであるべきだと思う。これは至極当然のことだと思うのだけど、おそらくゲーマータイプの人たちは「個人情報は隠すべきもの」というスタンスの人が多いのではないだろうか。匿名性というのはごく限られた状況において必要とされるものであり、ブログやSNSといった中核的な(少なくともプロバイダーはそうしたいであろう)コミュニケーション・ツールにおいて個人情報を活用しないことは、それこそ「ゲームの世界」から解放されない(オープンでない)。ユーザーにとってもそれはいいことではないと思う。
 ◆なう
 これらと同じような理由で、アメーバなうも馴染まない。ついでに言うとmixiボイスも。たぶんアイデアとして、限られたユーザビリティとしては高いクオリティを持っているのだと思うが、Twitterというオープンで強力なサービスが支配的になっているというのに

③mixi
 上記でかなり述べてしまったけど、要はそういうことである。mixiとAmebaを使うようになってからずっと思っていたが、最大の特徴はオープンでない。そしてあれから4年たってもほとんど改善されていない。プロフィール設定や日記の公開範囲に「mixi外にも公開」という項目を作ればいいだけなのに。
 mixiアプリという発想もせっかく外部サイトとの連携を図れるチャンスであるはずなのにその効果はあまり見られない。open IDの提携サイトもなんだかよく分からないサイトが多い。説明を見てみても日本のサイトが多い。当然これから増えていくのだろうけど。
 Facebookの日本進出もより活発になるだろうし、SNSの本質的な意義を考えなきゃいけない。とは言え、日本市場においてFacebookにも課題は多い。mixiに慣れてきた日本のユーザーにはFacebookは複雑すぎる気もするし、やはりオープンなアカウント利用、個人情報の積極活用、リアルとサイバーの相互補助に対してのアレルギーが日本人は強い気がする。つまり「ネットはネット、リアルはリアル」という悪しき慣習が根強く、そもそもそういった文化を作ったのが他ならぬmixiや2ちゃんねるのような気がする。これだけは何度も言うけど、個人情報は公開してナンボだ。「知ってもらう」ことの効用をよく理解した方がいい。それこそがデジタル・デバイドの最大の課題のひとつであると思う。
 GoogleやIBM(スマートプラネット構想だって「個人」を「企業」に置き換えただけであって、更なる情報の価値創造だ)がそれを率先して啓蒙する必要があるとも思う。
 



 なんにしても、Jamaicaへ行く前に更新して以来のエントリーだ。こうなったのも、語りすぎないことがクールだという信念に大きく起因する。これは、英語で物を書き始めてからより実感した。思っていることを英語でアウトプットしようとすると、日本語でそうするよりも、余計な言葉が全て削られる。英語での表現力がないからに他ならないけど、そのおかげで言葉の魔術師にならないで済みそうだ。美しい、聞こえの良い、うまい言葉を吐きながら中身の浅はかさを隠そうとする輩がたくさんいる。それは何より言葉への侮辱だ。「言葉に気をつけろ」というのもそういうことなんだ。
 そして理解してもらおうと試み続けなければならないという信念とのジレンマに揺られている。現に、シリコンバレーの多くの日本人たちは日本語でのアウトプットを続けている(とてもありがたいことに)。そして僕の周りの人達からの信用形成にはこのブログを始め日本語でのアウトプットが少なくない貢献をしてきたと思う。それでも、世界に向けるだけの価値はあるんじゃないかと思った。
 卒業を前にしてから、将来が少しリアルになった。あと7年で30歳。7年前に何をしてた?グラウンドで泥まみれになってた。ついこないだのように思い出される。30歳になっても、おそらく今のことをついこないだのように思うんだろう。学ぶ時間はまだある。だが迷ってばかりいるほどの時間はもう、ない。やはり僕はアメリカに行きたかった。新しく知ったのは、シリコンバレーという中継地点がカリフォルニアにあることだった。

 「だったら行けばいいのに。お前はゴタクを並べて尻込みしているだけだ。」

そういう意見は当然ながら想定内。そして自分にも時々そういった問いを投げかけているのも事実。だけど、僕は旅人の現実を初めてのカリフォルニアで見てきた。憧れの地で、自分がしようとしていたことを行動に移した先駆者たちが、その代償として大きな夢を失っていた現実を垣間見た。あの時の衝撃が未だにコンプレックスになっていて、僕は回り道をしてでも、その先を見据えた旅人でありたいのだと思っている。不法滞在者は社会で認識されない。ルールとテクノロジーとパッションによってカリフォルニアに渡りたいんだ。


 結局英語で書いてみたい内容にまで踏み込んでしまったが、やはり日本語でリリースするとタイピングの手が止まらない。そして文章力も少し衰えたような気もする。不定期でもこのブログは続けていくつもりなので英語に興味のない人も僕のことをどうか忘れないで欲しい。


引き続きPersonaをよろしく。