$~僕がピアノを弾くのを止めてから~


少し前の話になりますが ”三重県立図書館・第一回ビブリオバトル”は無事、成功裡に終わりました。

まぁ、内々で開催した訳なので当たり前と言えばそうなのですが

もう少し回を重ねて将来的には図書館のイベントとして一般の参加者も募って見たいですね。

そうなれるように努力していきますよ。

さて、今回チャンプ本に選ばれたのはこの「肥満と飢餓」でした。

ちなみに僕は次点を頂き、上出来と言えたと思います。

この「肥満と飢餓」の内容なのですが

我々 先進諸国はバイオ燃料だ、エコだなどと言ってトウモロコシやサトウキビから製造した

代替燃料を使っております。

エタノールなどがそれであり、インディーカーレースの車両なんかはエタノール燃料で走ってますね。

ところがトウモロコシやサトウキビというものを生産している国々は主に後進国であり

彼らにとっては貴重な食料なんです。

で、バイオ燃料は需要があるものだから大量生産するのですがそれでも追いつかず彼らの食べる分まで

奪ってしまう。

大量生産によって単価は下がり生産者の賃金は下がる一方なので彼らは生活に困窮し飢餓が発生し

先進国は儲かって太る訳です。

エコだ、エコだと言いながら加工するには排気排水が出るし流通させるのも燃料を燃やすので

経済は回るが環境にはよろしくない、というお話でした。

食べ物は素直に食べるのがよろしいでござるよ。




$~僕がピアノを弾くのを止めてから~

さて、最近はGWという事で朝まで本を読んで過ごしたりして寝不足になって

力を入れて走る機会がございません。

それでも時間を見つけてはご近所を転がす程度に走ってはおりますが・・・。

市内の商店街はGWなのに、というかGWだからなのか殆どシャッターが降りてます。

6速、フリクションはラクでいいですよ。

チェーンもスプロケも長持ちするし シフターの調整とか細かいことをしなくていいですからね。



$~僕がピアノを弾くのを止めてから~

塗装の下はポリッシュしていないメッキだったのですが

フォークだけ自分の手でシコシコとポリッシュいたしました。

走行後は必ず油をつけて磨いております。

スプロケがママチャリ用なのはご愛嬌(笑)。

この世代はコンパクトクランクが無いので、スプロケ側で最大28Tは欲しいのですが

それを求めると当時のデュラやサンツアーにはそういう歯数のものは無いのです。

そもそもデュラの6速ボスフリーなんてレアパーツ、しかも中古ですから

性能云々という次元ではございませんから。

ママチャリフリーを使っているとは言え、もう一台の105仕様のTREKより変速は早いのですが

この当たりは7700DURAがいい仕事をしてくれてるんでしょうね。

$~僕がピアノを弾くのを止めてから~

シマノもついに11sを実戦投入してきましたね。

今年のツールも11sで来るでしょう。満を持して投入するだけあって注目せざるを得ませんね。

しかも電化はちゃっかり後回しにするという・・・w

ウチのバイクはまだ9sなのに一体どこまで行くんだよと思います。

シマノやカンパが肥える裏で飢餓に苦しむ僕でござるよ(笑)。


$~僕がピアノを弾くのを止めてから~




所詮「ダメ」だと言い切ることはたった一つの観点でしかない。

絶対的な「負」である事はありえない。

どんな失敗作にでも面白がっている奴は一人はいるだろう。

どんなマイナーな俳優にだって一人ぽっちのファンはいるだろう。

そういう「負」の部分にのみ、僕はリアリティを感じる。


僕が強く主張したい事は、そうした姿勢をフィクションとして捕らえる視線が人生の中においては必要だと言う事だ。

ハリウッドをはじめ、全ての映画が緻密なマーケティング・リサーチによって「何が求められているか」はっきりしてしまっている。

それ以外のものは贅肉とかわりない。

期待通りの映像などCG万能の時代だしいくらでも作れる。

しかし、そこから抜け落ちてしまったものがある。

それは芸術性とイマジネーションの世界だ。

芸術性とは人間を描くことだ。今までの芸術映画は人間を正面きって描くような誠実なものだった。

それに対して、人間はくだらなく、無意味でネガティブな存在なんだと描く映画もあった。

前者はミニ・シアター系列で評判を呼ぶが、

後者はうっかり観てしまった観客の心に癒しがたい傷を残す。





$~僕がピアノを弾くのを止めてから~




郵便局といふものは、港や停車場と同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、

悲しいのすたるぢやの存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人々は窓口に群がつてゐる。

わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくって押し合つてゐる。

或る人々は為替を組み入れ、或る人々は遠國への、かなしい電報を打たうとしてゐる。

いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。

私はそこに来て手紙を書き、そこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舎の粗野な老婦が居て、

側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤獨に暮らしてゐる娘の許へ、

秋の袷や襦袢やを、小包で送つたといふ通知である。

郵便局!私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、

そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いている若い女よ!鉛筆の芯も折れ、

文字も涙によごれて乱れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。

我々もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港々を漂白してゐる。

永遠に、永遠に、我々の家なき魂は凍えてゐるのだ。郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、

人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢやだ



 郵便局の窓口で


          郵便局の窓口で

          僕は故郷への手紙をかいた。

          鴉のやうに零落して

          靴も運命もすり切れちやつた

          煤煙は空に曇つて

          けふもまだ職業は見つからない。

          父上よ

          何が人生について残つて居るのか。

          僕はかなしい虚無感から

          貧しい財布の底をかぞへて見た。

          すべての人生を銅貨にかへて

          道路の敷石に叩きつけた。

          故郷よ!

          老いたまへる父上よ。

          僕は港の方へ行かう

          空気のやうに蹌踉として

          波止場(はとば)の憂鬱な道を行かう。

          人生よ!

          僕は出帆する汽船の上で

          笛の吠えさけぶ響をきいた。




・・・いつ頃から郵便局にノスタルジィを感じなくなってしまったのだろうか。

僕が子どもの頃、近所に耳の遠いおばさんが住んでいた。

おばさんは字を読むことも書くことも出来なかったので

手紙を受け取るたびに僕の家に来て 僕の母に手紙を読んでもらっていたのだった。

手紙の内容までは覚えていないが、手紙というものは恐ろしい知らせを運んで来る不吉なもので

あると 子供心に感じていた。

母はそのおばさんを疎ましがっているように見えたが、実際のところはおばさんよりも

その手紙の内容が恐ろしかったのだと思う。

僕は封書を開封するときの あの不吉な緊張感に地獄を覚えるのである。

真白な手紙。触れれば手の切れる剃刀のような紙地獄。

手紙の中の地獄から逃れようとして逃げれば逃げるほど

悲哀、郷愁、絶望に近づいていくことになる。

あの時、おばさんも、母もそしてまた僕も地獄という時間を共有していたのだろう。