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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年12月3日(土)20:00開演の劇団羅針盤『西遊記~最果ての果敢なる帰結を語る~』についての劇評です。

 演劇とは、その核は何なのか。「西遊記」を見終わって、改めて考えさせられた。
 劇処第10作は劇団羅針盤による『西遊記~最果ての果敢なる帰結を語る~』である。「西遊記」の魅力の一つが活劇にあることは言うまでもない。ありがたい経典を手に入れるべく天竺への旅をする三蔵法師一行。そしてその行く手を妨げる妖魔たち。猿の孫悟空は豚の猪八戒、河童の沙悟浄と力を合わせ、妖魔と死闘を繰り広げる。“殺陣・ダンスなども取り入れた活劇色の強い作風が特色”の劇団羅針盤、その得意の活劇を発揮できる舞台こそこの「西遊記」である。「初演版から大幅にグレードアップして、『劇処』に参戦!」とあるから、その自信のほどが伺える。実際に観劇して、パワフルでスピーディな立ち回りに圧倒された。キャスト8人が100人!?を次々と演じ変え、縦横無尽に活躍した。
 しかしである。あまりに活劇が華々しく、しかも、入れ替わりに隙間が無く、前後に機関銃のごとく飛び出すせりふが配されるので、肝心のせりふがよく聞き取れなかった。しかもせりふは自由奔放、観客の笑いを誘う部分も多かった。だが、「西遊記」の筋を伝える言葉と、軽いノリで役者同士が掛け合い遊ぶ言葉が、間断なく発せられるので、特に前者が聞き取れないのである。バックの音楽が大きかったのもある。結果は、「西遊記」の劇の進行も十分に理解できず、掛け合いの妙も味わえなかった。
 そこで最初の疑問、演劇とは、その核は何なのかに戻る。手元の辞典では「俳優が脚本と演出に従い、舞台の上で身振りやせりふによって人物・物語などを表現する総合芸術」(明鏡国語辞典)とある。「身振りやせりふによって人物・物語を表現する」なら、本公演がしていなかったわけでは勿論ない。問題は、「身振りやせりふによって人物・物語を表現」し得ていたか、である。達成度を問いたいのだ。パフォーマンスに力点を置くことが、逆にマイナスの働きをすることはなかったか。達意性を阻害することはなかったか。残念ながらせりふもパフォーマンスも詰まりすぎていた、というのが私の正直な感想である。
 私にとって「西遊記」とは中島敦だ。「悟浄歎異」(「わが西遊記」)をかつて読んで、完全に魅了された。悟空は行為者、猪八戒は享楽家、そして沙悟浄は観察者という人物造形は、自分の周囲の人間を見るとき、そしてその集団の中で生きるときのヒントにもなった。そして、本公演による「西遊記」との再会。三蔵法師に従い、三者三様に能力を生かして天竺への旅をすることは、能力と生きがいの問題にどのような解決を与えるものだろうと期待した。また、使命を果たした後の変身への期待もあった。だが、登場人物の造形が分からなかった。觔斗雲に乗れない孫悟空の設定にも、何が含意されているのか分からなかった。そして、手に入れた経典が空白だったことの意味付けもよく分からなかった。せりふが聞き取れないことで失うものは余りに大きかったと言わざるを得ない。
 若いパフォーマーを得た劇団羅針盤は、これからどのような西へ、西への旅、そして東へ、東への旅を続けるのだろうか。参考になるか分からないが、「悟浄歎異」の最後を紹介しよう。「俺」は沙悟浄、師父は三蔵法師である。
 ---俺は起上って、隣に寝ておられる師父の顔を覗き込む。暫くその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いている中に、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じて来た。(講談社文芸文庫)


この文章は、2016年11月26日(土)19:00開演のcoffeeジョキャニーニャ『キラキラモノトーンタイムマシーンラプソディ』についての劇評です。


コメディにこだわり、ばかばかしいまでにナンセンスな笑いを、金沢の地に届けてきたcoffeeジョキャニーニャが、今作『キラキラモノトーンタイムマシーンラプソディ』(作:新津孝太、演出:GSI(戯曲制作委員会))で取り組んだのは、歴史を変えるために未来から使者がやってくるという、いわゆる「タイムマシーンもの」のパロディだ。

第三次世界大戦勃発という未来の危機を救うために、葛巻家でニートをしている葛巻こうじ(寺本深之祐)の部屋に、未来から謎の女・滝沢アリス(島上かんな)が訪れる。前日に、父親・葛巻もりお(佐々木具現)が家族を捨てて旅に出たのが、人類破局の淵源となっているという。自らのニート生活を守るためにも父親の旅を止めようと、タイムマシーンで「前日」に向かうこうじ。肉体はタイムトリップできないので、精神だけ他人の身体に乗り移るという都合のよい設定だが、父が旅立つシーンに何度もループして戻る分だけ、他人の身体を借りた「自分」が増殖していく。

「自分」が複数同時に存在し、反復・増殖しながら、問題を解決しようとする類を見ない独自の展開は、人口知能の学習法「ディープラーニング」を連想させた。コンピューター囲碁プログラム「AlphaGo」が自身との対局を数千万回繰り返すことで棋力を上げ、人間の世界王者のひとりに勝ったのは記憶に新しい。しかし、この物語は、人工知能的な学習を繰り返すだけで問題が解決するほど単純ではない。なぜなら、父親は旅に出たいから出るだけであって、そこに理由などそもそもないからだ。

葛巻家の家族、父、娘、息子の距離感は奇妙である。催眠術師・住田(中里和寛)の結婚詐欺にまんまとだまされて家を出ようとする娘の葛巻さくら(内多優)、26歳になるまで働きもせず、ゲームとマスターベーションに青春を浪費する息子のこうじ、会社を突然に退職し中東へ旅に出て、将来、チェ・ゲバラのようになる父。なんら言及されることなく母親は不在だが、それは三者をつなぎ止める核が全く欠如していることを暗示しているようだ。そして、何度も「前日」にもどり、父親と娘、父親と息子との家族のつながりを取り戻し、父の家出を止めようとする試みは失敗に終わるのだ。

父親の家出を止めることを諦めたこうじは、どうせ人類が滅亡するならと何もせずにニートを続ける。そんなこうじの家には、昼間から何もすることのない似た者同士が集う。ニートの反復と増殖のテーマが繰り返される。そんな時、ふと父親が帰ってくる。こうじが渡した小額の餞別が地球の運命を好転させることになったのだが、結局、それはあくまで偶然に過ぎない。

同じシーンの反復が多すぎてだれてしまう感じはあったが、役者たちの動きや出捌けのテンポがよく、あまり意味のない回想シーンや台詞の掛け合いが笑いを誘うので最後まで楽しめた。作者の新津孝太が、人間のつながりのなさをシニカルに描き出し、「不確定な時代」をこれから生きることになる市井の者たちの処世術のモデルを笑いとともに提示した快作だった。
「この文章は、2016年11月26日(土)19:00時開演のcoffeeジョキャニーニャ『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』についての劇評です」

 coffeeジョキャニーニャの公演『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』(11月25~27日、金沢市民芸術村ドラマ工房)に登場する主人公・葛巻こうじは、携帯ゲームに没頭し、ダラダラと実家で過ごすニートの26歳だ。そんな彼の目の前に、突如、未来からタイムスリップしてきた自分(=オレ)が現れる。その数は1人、2人、さらに3人と、時間軸を微妙に変えながら除々に増えていく。容姿は男であったり、女であったりと一見別の人間だが、中身は正真正銘の「オレ」である。これまで、働かず親の脛かじりのモラトリアム生活を送ってきた主人公は、いつしか、自分自身に囲まれた歪なコミュニティーを形成していく。
 増殖する「オレ」たちは、未来で起こる第3次世界大戦を阻止するため、時空を超えて過去にやって来た。こうじの父・もりおの中東旅行を阻止できれば、核戦争を回避できるという。外見は異る自分同士が、父に何とか旅行をやめさせようと躍起になる。
 自分自身と対峙するのは自分たちである。趣味趣向、思考など、あらゆることが分かり合える状況なわけだ。けれども、どんなに自分自身と語り合っても結論ありきの着地点しか見えてこないのでは、と考えてしまう。鏡に向かって自問自答する自分、タバコをくわえ物思いに耽る自分……。こうした自分は勿論大切なのだが、所詮、自分というセーフティゾーンから出ることはない。
 『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』では、父は中東旅行に行ったものの、第3次世界大戦を回避できた。だが、日本でテロ発生という別の出来事が起こることになる。未来から過去にやって来た自分が歴史を変えようと、どんなに足掻こうが無理なようだ。それは、自分だけで解決しようとした結果なのか、それとも人知を超えた「Xファイル」的な要素によるものなのか。
 結局、主人公・こうじの無限ループは続き、エンディングには、未来からタイムスリップして来た主婦や警官、子供の外見の「オレ」たちで溢れ返り、自分だらけのハーレムと化し、幕を下ろす。
 最後の「とりあえず、オレを増やしちゃおう感」のあるパワープレーは、度が過ぎていた。そのせいで、「オレ」の適正な人数が一体何人であるのか、自分自身に気づきや発想の着火剤を与えてくれるのは聖人君子でない限り他者である、などと考えていた私は、ふいに頭を「パン!」と叩かれてしまった。
 思考が断絶してしまったが、私は最後まで行き着こうと試みを続け、フットボールにすがり付く。あのリオネル・メッシを11人揃えたチームは最強なのかと考える。抜群の突破力に得点力、そして他者を凌駕するイマジネーション……。全試合、大差で勝ち続けそうなものだが、170センチほどの身長しかないメッシでは、セットプレーには弱いのではないかとか、ゴールキーパーはそもそも別の職種に近いポジションだから務まらないのではないかとか。こんなことを思いながら、頭の中でフォーメーションを組み立てる。
 結論として、やっぱり、全員メッシでもそうは問屋は卸さないよね、となった。適材適所、他者との共存、ハーモニーがなければ、ミッションはインポッシブルに終わるだろうと。何だかんだ言っても、良いも悪いもひっくるめて、他者と形成するコミュニティーが断然面白い。(金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」参加作品)
この文章は、2016年11月26日(土)19:00開演のcoffeeジョキャニーニャ『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』についての劇評です。

 これだけの劇にどれだけの暗転、時間の巻き戻しと反復・微修正が飽きもせず繰り返されたことだろう。そして、主人公の度を越した増殖。せめてラストが印象的な終わり方だったら。だがその願いもあえなく崩れ去った。不快感はない。楽しんだ方だ。暗転の度に黒子たちが実にきびきびと楽しそうに、不要と思える軽微な舞台の改変に従事していた姿も含め。それがどうしてか一番心に残った。  
 劇処第9作は、coffeeジョキャニーニャによる『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』。劇団名も、「第あの紙ヒコーキくもり空わって回公演」という形容付きの演題も、意味不明である。分かるのは日本語表記のすべての可能性を網羅しているぐらいか。劇のあらすじを劇処の公演紹介冊子で読んでみると、最後に「※あらすじは変更されます」とある。別に挿まれていた劇団のパンフでは全く異なるあらすじが載っていた。「作・新津孝太 演出・GSI」も、二つ折りのキャスト紹介版では、新津孝太には「出雲のそば屋から」が加わり、「GSI」には(戯曲製作委員会)が添えられていた。この劇団ははぐらかすのが、或いは自分の正体(あるのか知らないが)を隠すのがとても好きなようである。
 先入見を持たず(持てず)、素直に流れに乗ってみた。葛巻こうじ(年も靴のサイズも26)は引きこもりだ。親のすねをかじりながら実家でゴロゴロしているダメ人間。家族は父と姉と自分(母親は出てこない)。その彼に転機が訪れる。父親が仕事を辞めて旅に出ると言い出し、姉も結婚して家を出ていくと言う。そうか、これが契機になって彼の自立を促す、とは勿論ならない。それは別の劇団の領域であろう。何とか今の生活を継続すべく、こうじは父や姉を説得する。が、ことごとく失敗。そこへ現れたのが未来から来たと称する謎の女。彼女は少しだけ時間を戻すことができると言う。父が旅に出る原因を、姉の結婚と踏んだこうじは、少し過去に遡り、妨害工作を画策する。が、その過程で原因はむしろ父と自分との関係にあったと気づく。そうか、父との和解が真のテーマ、最後はめでたしめでたしかと先読みしたら、勿論そうはならなかった。それは別な劇団の領域であろう。結局、自分が原因でもないと分かり、旅を阻止する新たな理由付けが求められる。劇に倣って途中は省くが、父が中東に出掛けたら、核戦争が発生するというのがそれだ。そこで、また時間を巻き戻して新たな劇中劇が演じられる。今度はダメ人間にも崇高なミッションが与えられる。地球の破滅を救うヒーローの役だ。逆転ホームランが生まれるかも知れない。しかし、勿論そうはならない。それは別な劇団の領域であろう。使命に失敗し、父は旅立つ。
 数年後核戦争も起こらないまま、父は中東で知り合った女性と帰国する。結婚する父、また結婚詐欺師から警察官に乗り換えた姉も家を出る。残されたこうじは、不時の入金があったようで、飢え死にもせず、働きもせず相変わらずのぶらぶら生活。同じプータローが住み着いて、新たな集団生活が始まる。結局、それが所期の落し所だったのだろう、上演者全員がこうじになって幕が下りる。
 12月に入った。「クリスマス・キャロル」の三つの亡霊が、今年も過去・現在・未来に誘う。こうじとプータローたちの3年後を見てみたいものだ。
 

「この文章は、2016年11月19日(土)19:00時開演の金沢舞踏館の『ふいご少年と煙玉少女』についての劇評です」

 昔、母親から彼女の幼少期の思い出を聞かされたことがある。九州の中山間地域に暮らす当時の母にとって、夕飯のご馳走は庭先で飼っていた鶏の料理だった。手際良く鶏の羽をむしり、内蔵を取り出し、肉を切り分けるのは、私の祖父の役目だったという。屠殺された鶏の無残な姿を、薄目を開けて、こっそりと見ていたと、母は顔を歪めながら語った。私は、そんな記憶が頭の片隅から蘇ってきた。
 生物が生きるために、他種を殺し食べる。別段、事を荒らげる必要もなく、食物連鎖の一コマと簡単に片付けることができる。けれど、何故だろう。そう納得しようとする自分自身に対し、妙な居心地の悪さを感じてしまう。少年時代の無垢な自分が邪魔をしているような錯覚を覚える。金沢舞踏館の土方巽没後30年記念公演『ふいご少年と煙玉少女』(金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」参加作品)は、30年以上前に母から聞いた私の記憶を呼び起こさせた。

 舞台上には、食器棚とタンスのような箱が置かれている。胎児のごとく地べたを転がる5人の若い踊り手。彼らは、鶏になって所狭しと動き回ったかと思うと、人間の少年少女へと変化する。純粋無垢な身体からは、生きる喜びが溢れ出ているようだ。「だるまさんがころんだ」の遊びに興じたりもする彼らは、顔を布で覆い、まるで異界の生き物のように舞い、去っていく。格好は不気味であるが、どこか滑稽で愛らしい。
 生(せい)の象徴である彼らとは対照的に、年老いた男(山本萌)と女(白榊ケイ)が怪しげに踊る。二人は死の臭気を発散し、空間を支配していく。地面に身を委ねる身体。不自由な身体。自身の内的心理と向き合うことを強要するかのような身体がある。
 やがて、駆け回る鶏に変化した5人の若い踊り手は柵の中に閉じ込められ、年老いた男に屠殺される。無邪気な生はいつしか、死を迎える。
 私は、ここにあっけない死を見る。と同時に、最初から人間は、いや生物全ては死を内包して生きているのではと思ったりする。

 ふいに、別の記憶の断片が頭を過る。小学低学年だった私が、床の間に横たわる祖父の遺体を見ている。目を閉じ、口を少し開けて眠ったようにみえる祖父。鼻腔には白い綿が詰め込まれている。死を初めて実感した情景――。眼前で蠢く舞踏家たちの身体からも、祖父と同じアルコールの臭いがした気がした。11月18~20日、金沢市民芸術村ドラマ工房。