この文章は、2016年12月3日(土)20:00開演の劇団羅針盤『西遊記~最果ての果敢なる帰結を語る~』についての劇評です。
演劇とは、その核は何なのか。「西遊記」を見終わって、改めて考えさせられた。
劇処第10作は劇団羅針盤による『西遊記~最果ての果敢なる帰結を語る~』である。「西遊記」の魅力の一つが活劇にあることは言うまでもない。ありがたい経典を手に入れるべく天竺への旅をする三蔵法師一行。そしてその行く手を妨げる妖魔たち。猿の孫悟空は豚の猪八戒、河童の沙悟浄と力を合わせ、妖魔と死闘を繰り広げる。“殺陣・ダンスなども取り入れた活劇色の強い作風が特色”の劇団羅針盤、その得意の活劇を発揮できる舞台こそこの「西遊記」である。「初演版から大幅にグレードアップして、『劇処』に参戦!」とあるから、その自信のほどが伺える。実際に観劇して、パワフルでスピーディな立ち回りに圧倒された。キャスト8人が100人!?を次々と演じ変え、縦横無尽に活躍した。
しかしである。あまりに活劇が華々しく、しかも、入れ替わりに隙間が無く、前後に機関銃のごとく飛び出すせりふが配されるので、肝心のせりふがよく聞き取れなかった。しかもせりふは自由奔放、観客の笑いを誘う部分も多かった。だが、「西遊記」の筋を伝える言葉と、軽いノリで役者同士が掛け合い遊ぶ言葉が、間断なく発せられるので、特に前者が聞き取れないのである。バックの音楽が大きかったのもある。結果は、「西遊記」の劇の進行も十分に理解できず、掛け合いの妙も味わえなかった。
そこで最初の疑問、演劇とは、その核は何なのかに戻る。手元の辞典では「俳優が脚本と演出に従い、舞台の上で身振りやせりふによって人物・物語などを表現する総合芸術」(明鏡国語辞典)とある。「身振りやせりふによって人物・物語を表現する」なら、本公演がしていなかったわけでは勿論ない。問題は、「身振りやせりふによって人物・物語を表現」し得ていたか、である。達成度を問いたいのだ。パフォーマンスに力点を置くことが、逆にマイナスの働きをすることはなかったか。達意性を阻害することはなかったか。残念ながらせりふもパフォーマンスも詰まりすぎていた、というのが私の正直な感想である。
私にとって「西遊記」とは中島敦だ。「悟浄歎異」(「わが西遊記」)をかつて読んで、完全に魅了された。悟空は行為者、猪八戒は享楽家、そして沙悟浄は観察者という人物造形は、自分の周囲の人間を見るとき、そしてその集団の中で生きるときのヒントにもなった。そして、本公演による「西遊記」との再会。三蔵法師に従い、三者三様に能力を生かして天竺への旅をすることは、能力と生きがいの問題にどのような解決を与えるものだろうと期待した。また、使命を果たした後の変身への期待もあった。だが、登場人物の造形が分からなかった。觔斗雲に乗れない孫悟空の設定にも、何が含意されているのか分からなかった。そして、手に入れた経典が空白だったことの意味付けもよく分からなかった。せりふが聞き取れないことで失うものは余りに大きかったと言わざるを得ない。
若いパフォーマーを得た劇団羅針盤は、これからどのような西へ、西への旅、そして東へ、東への旅を続けるのだろうか。参考になるか分からないが、「悟浄歎異」の最後を紹介しよう。「俺」は沙悟浄、師父は三蔵法師である。
---俺は起上って、隣に寝ておられる師父の顔を覗き込む。暫くその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いている中に、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じて来た。(講談社文芸文庫)