先日、京都で芝居を見て思ったことがある。それは舞台が刻む時間の速度と俳優が刻む時間の速度に関してだ。
現実世界とは異なる速度で時間が流れる舞台というものがあり、舞台に存在する俳優自身も同様に舞台上で時間を刻む。そして、その二つがズレを起こすと違和感を生む場合がある。俳優が舞台の時間で生きられてないと感じる場合がそれに当たるだろう。では、舞台が刻む時間と観客が刻む時間というものもあるのではないだろうか。
観客の刻む時間は一定ではない。上演中も刻一刻と変化する。温度や立っているのか座っているのか、座り心地など置かれた環境にも左右される。一度観たものかそうでないかにもよるだろう。そしてそれは、舞台の集中力、求心力により舞台上の時間に同調してしまう場合もある。
金沢大学演劇部の出身者を中心として2004年に『アガサ・クリスティによろしく』(作:GSI[戯曲製作委員会])で旗揚げし活動を続けるcoffeeジョキャニーニャが、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第9弾(11月25日、27日)『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』(作:新津孝太、演出:GSI)を上演した。
無職のこうじは、仕事を辞めて旅に出ると言い出した父が世界戦争を起こすキッカケとなる。と未来から来た女により教えられる。そこで、彼女が使ったタイムマシンで過去に戻り、父が旅に出ることを止めようと説得する。移動できるのは精神体であり、時間移動した先の寝ている人間に憑依するタイムマシン。説得の失敗が続き、見た目が別人のこうじが増えていく。
このブログに掲載されている、昨年のかなざわリージョナルシアター参加作品「サンタに来年の告白を」で、彼らの持つ良さとしてのゆるさと作品としての強度について書いた。今作、過去をループしていくテンポに関して思ったことは、やはり上記の点が鍵になる気がしなくも無い。
舞台上で行われたリズムを良しとするか、単調でツライと感じるか、おそらく好みが分かれただろう。差異はあれど、ループするということは大筋として同様の行為が行われる。
観客が刻む時間に同調するのであれば、スタート時がBPM(Beat Per Minute)100だとしたら、過去に戻るごとに敢えて必要とする間以外を詰めるなどで105、110と少しだけテンポを上げていくと弛みを感じないで済むのに。そんなことを観終わったあとに思った。
それは正解なのか。確かに無駄を削りテンポを上げるということは、隙を減らし強度や舞台への集中を高める。だが、彼らは観客の時間と一致することよりも、敢えて自分達らしい舞台の時間を刻んだのではないか。
僕は彼ららしいと思うことが出来たが、対応できなかった観客も少なからず居るだろう。そういった観客をどう掬い取るかがこの先の課題ではないだろうか。
全体的印象としてコントラストが強くなく、どこか隙を感じさせ、既存の尺度「テーマ性」や「演技力」、脚本や演出によって生み出される「作品の強度」というフィールドで敢えて戦っていないように思える彼らにしか出来ない「舞台の時間に同調してしまう求心力」の出し方があるはずだ。
観客の刻む時間は一定ではない。上演中も刻一刻と変化する。温度や立っているのか座っているのか、座り心地など置かれた環境にも左右される。一度観たものかそうでないかにもよるだろう。そしてそれは、舞台の集中力、求心力により舞台上の時間に同調してしまう場合もある。
金沢大学演劇部の出身者を中心として2004年に『アガサ・クリスティによろしく』(作:GSI[戯曲製作委員会])で旗揚げし活動を続けるcoffeeジョキャニーニャが、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第9弾(11月25日、27日)『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』(作:新津孝太、演出:GSI)を上演した。
無職のこうじは、仕事を辞めて旅に出ると言い出した父が世界戦争を起こすキッカケとなる。と未来から来た女により教えられる。そこで、彼女が使ったタイムマシンで過去に戻り、父が旅に出ることを止めようと説得する。移動できるのは精神体であり、時間移動した先の寝ている人間に憑依するタイムマシン。説得の失敗が続き、見た目が別人のこうじが増えていく。
このブログに掲載されている、昨年のかなざわリージョナルシアター参加作品「サンタに来年の告白を」で、彼らの持つ良さとしてのゆるさと作品としての強度について書いた。今作、過去をループしていくテンポに関して思ったことは、やはり上記の点が鍵になる気がしなくも無い。
舞台上で行われたリズムを良しとするか、単調でツライと感じるか、おそらく好みが分かれただろう。差異はあれど、ループするということは大筋として同様の行為が行われる。
観客が刻む時間に同調するのであれば、スタート時がBPM(Beat Per Minute)100だとしたら、過去に戻るごとに敢えて必要とする間以外を詰めるなどで105、110と少しだけテンポを上げていくと弛みを感じないで済むのに。そんなことを観終わったあとに思った。
それは正解なのか。確かに無駄を削りテンポを上げるということは、隙を減らし強度や舞台への集中を高める。だが、彼らは観客の時間と一致することよりも、敢えて自分達らしい舞台の時間を刻んだのではないか。
僕は彼ららしいと思うことが出来たが、対応できなかった観客も少なからず居るだろう。そういった観客をどう掬い取るかがこの先の課題ではないだろうか。
全体的印象としてコントラストが強くなく、どこか隙を感じさせ、既存の尺度「テーマ性」や「演技力」、脚本や演出によって生み出される「作品の強度」というフィールドで敢えて戦っていないように思える彼らにしか出来ない「舞台の時間に同調してしまう求心力」の出し方があるはずだ。
それは強度や俳優の演技力の先にあるものかもしれないが、それはおそらく新しい価値な気がするのだ。僕はそれを観てみたいと思った。