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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年11月25日(土)19:00開演のcoffeeジョキャニーニャ『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』についての劇評です。

 先日、京都で芝居を見て思ったことがある。それは舞台が刻む時間の速度と俳優が刻む時間の速度に関してだ。
 現実世界とは異なる速度で時間が流れる舞台というものがあり、舞台に存在する俳優自身も同様に舞台上で時間を刻む。そして、その二つがズレを起こすと違和感を生む場合がある。俳優が舞台の時間で生きられてないと感じる場合がそれに当たるだろう。では、舞台が刻む時間と観客が刻む時間というものもあるのではないだろうか。
 観客の刻む時間は一定ではない。上演中も刻一刻と変化する。温度や立っているのか座っているのか、座り心地など置かれた環境にも左右される。一度観たものかそうでないかにもよるだろう。そしてそれは、舞台の集中力、求心力により舞台上の時間に同調してしまう場合もある。
 金沢大学演劇部の出身者を中心として2004年に『アガサ・クリスティによろしく』(作:GSI[戯曲製作委員会])で旗揚げし活動を続けるcoffeeジョキャニーニャが、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第9弾(11月25日、27日)『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』(作:新津孝太、演出:GSI)を上演した。
 無職のこうじは、仕事を辞めて旅に出ると言い出した父が世界戦争を起こすキッカケとなる。と未来から来た女により教えられる。そこで、彼女が使ったタイムマシンで過去に戻り、父が旅に出ることを止めようと説得する。移動できるのは精神体であり、時間移動した先の寝ている人間に憑依するタイムマシン。説得の失敗が続き、見た目が別人のこうじが増えていく。
 このブログに掲載されている、昨年のかなざわリージョナルシアター参加作品「サンタに来年の告白を」で、彼らの持つ良さとしてのゆるさと作品としての強度について書いた。今作、過去をループしていくテンポに関して思ったことは、やはり上記の点が鍵になる気がしなくも無い。
 舞台上で行われたリズムを良しとするか、単調でツライと感じるか、おそらく好みが分かれただろう。差異はあれど、ループするということは大筋として同様の行為が行われる。
 観客が刻む時間に同調するのであれば、スタート時がBPM(Beat Per Minute)100だとしたら、過去に戻るごとに敢えて必要とする間以外を詰めるなどで105、110と少しだけテンポを上げていくと弛みを感じないで済むのに。そんなことを観終わったあとに思った。
 それは正解なのか。確かに無駄を削りテンポを上げるということは、隙を減らし強度や舞台への集中を高める。だが、彼らは観客の時間と一致することよりも、敢えて自分達らしい舞台の時間を刻んだのではないか。
 僕は彼ららしいと思うことが出来たが、対応できなかった観客も少なからず居るだろう。そういった観客をどう掬い取るかがこの先の課題ではないだろうか。
 全体的印象としてコントラストが強くなく、どこか隙を感じさせ、既存の尺度「テーマ性」や「演技力」、脚本や演出によって生み出される「作品の強度」というフィールドで敢えて戦っていないように思える彼らにしか出来ない「舞台の時間に同調してしまう求心力」の出し方があるはずだ。
 それは強度や俳優の演技力の先にあるものかもしれないが、それはおそらく新しい価値な気がするのだ。僕はそれを観てみたいと思った。
この文章は、2016年11月26日(土)19:00開演のcoffeeジョキャニーニャ『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』についての劇評です。

 「あなたのお父さんが旅に出ると、第三次世界大戦が起こる」。まるで「風が吹けば桶屋が儲かる」の誇大版みたいな話だ。しかし、些細な行動が、巡り巡って思いもよらない大きな結果となってしまうことは、実際にもあるだろう。

 coffeeジョキャニーニャ(以下、ジョキャニーニャと略)の、第あの紙ヒコーキくもり空わって回(原文ママ)公演『キラキラモノトーンタイムマシンラプソディ』(作・新津考太、演出・GSI(戯曲製作委員会))は、第三次世界大戦を起こさないために、父の旅立ちを止めようとする息子の悪戦苦闘の物語である。

 葛巻こうじ(寺本深之祐)は家族の脛をかじって無職生活を送っていた。だが、姉のさくら(内多優)は結婚するというし、父・もりお(佐々木具視)は旅に出るという。一人になってはニートはできない。困るこうじの前に、未来から来たと言う謎の女・滝沢アリス(島上かんな)が現れる。彼女は、第三次世界大戦を起こさないために、タイムマシンを使って歴史を変えようとしている。歴史を変えるために父を止める、その鍵はこうじにあるらしいのだが。

 タイムトラベルを行うと、自分が過去の自分に出会ってしまうことになる。映像ならば、同じ空間に同じ人物を二人登場させることは技術的に可能だが、舞台上では実現が難しい。ジョキャニーニャはこの現象を、“タイムトラベル先の、近くで寝ている人の体に、精神だけ乗り移る”という説明により、別の役者が演じることで表現した。タイムトラベルを繰り返すことで、違う役者の演じるこうじが増えていく現象が、この芝居を主導する力となっていた。

 結果として、未来は変わる。だが予想もつかなかった方向に変わる。こんな未来では困ると、何度やり直しても、結局、望む通りの結果にはならなかった。何が起きるかわからない現実と、起こってしまった現実への逆らえなさを、この劇は暗に語っていたように思う。

 劇中には第三次世界大戦という語を始め、核の海、原発でのテロなど、危うい単語が出てくるのだが、それらは劇中では特別問題視されることはなく、するりと流されてしまう。それは軽さにも似ているが、客観視なのではないか。何が起こるかはわからないけれど、何が起きてもそれは主観と切り離して、冷静に見つめることができる。出来事を俯瞰しているかのような視点が、そこにあるように思えた。もし何か重大な出来事がジョキャニーニャ近辺に降りかかっても、その俯瞰の構えで、ひょうひょうと乗り越えてしまいそうな気さえする。

 これから何がどうなってどんなことが起こるのか、誰にもわからないし、逆らう術はない。何かが起きた後も、生きていく限り、いつしか日常が訪れる。日常が続くなら、楽しい方がいい。そんな風にジョキャニーニャは捉えているのではないか。どんな状態が想定される時代でも、楽しみを忘れない心持ちは大切だ。
この文章は、2016年11月12日(土)18:00開演の劇団週末クラブ『祭りよ、今宵だけは哀しげに』についての劇評です。 

 大人に成功だと言われても、自分たちは満足していない。東京にいる先輩OBからはお金を取れる芝居でないと言われた。時間のなさを言い訳にしなくない。もっとやれる。こぶしを握り締めて、一歩前に出て、客席に向かって斜め上に声を張る旧態依然とした「ダサい演劇」ではない表現を。ねぎらいの拍手ではなくて、いつか、心からの拍手で演劇の楽しさを会場全体で祝福したい。アフタートークで、意外にも冷静に話す出演者たちからはそんな想いが滲んでいるように見えた。
 劇団週末クラブは、元高校教師の北市邦男(平成16年までは現役教師)による演出指導の下、石川県内の高校演劇部有志が高校の枠を超えて週末に集まり、共同で演劇制作を行ってきた。第1回公演は平成2年というからその歴史は四半世紀にもなる。今公演は、これまで公演を重ねてきた金沢市民芸術村の20周記念芸術祭「劇処」からの要請を受けて、5校から計7名の現役演劇部員が集まり、3年ぶりに公演を行うことになった。
 上演された『祭りよ、今宵だけは哀しげに』(作:加藤純、清水洋史)は25年ほど前に、愛知県の高校生が宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』をベースに創作したものだ。以来、高校演劇のスタンダードとして全国で上演されてきたという。
 四角い立体がいくつか並べられただけの舞台。星祭りの夜、親友のカンパネルラ(堺玲音)と別れてジョバン二(金津翔太)はひとり蛍を探しに水辺へ向かう。突如として、踏切音が鳴り響き、赤青の光が明滅する。気がつくと二人は列車の中にいる。様々な人と出会い「ほんとうのさいわい」を求める銀河の旅。しかし、終着駅にカンパネルラだけはたどり着くことができない。
 北市演出の『祭りよ…』では、カンパネルラの死が津波による水難事故となっている。原作では運河での溺死となっていたというから、3.11東日本大震災を想起せざるを得ない。しかしそうなると、津波から自分を助けるために死んだ親友の死の真相を受け入れ、「いまここにいる」という幸いをジョバンニが手に入れるという物語の収束はあまりにも安易だ(高校生の軽い演技にも問題はあるが)。5年経つとはいえ、被災地の多くの人にとって、死者と対話する喪はまだ続いている。
 観劇後、久しぶりに会った人が劇団週末クラブ出身であることを知って驚いた。東京で芝居を学んで、地元に帰ってきた人だ。後輩たちの芝居のクオリティに厳しい意見があるのかと思いきや、「よかった」とぼそり。東京の現代的な芝居を知らない高校生たちへのもどかしくも愛おしい、何か切ないものがその言葉には詰まっていた。石川の演劇関係者は劇団週末クラブ出身者が多いという。地元演劇を支えてきたその歴史が途絶えることなくこれからも演劇を志す高校生たちの交流と創作の場となることを願う。
「この文章は、2016年11月12日(土)18:00時開演の劇団週末クラブ『祭りよ、今宵だけは哀しげに』についての劇評です」
 
 石川県内の高校生が集まって活動する「劇団週末クラブ」が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をベースにした『祭りよ、今宵だけは哀しげに』を上演した(12~13日、金沢市民芸術村ドラマ工房)。25年ほど前に愛知高校の生徒が創作した戯曲だという。劇中の終盤、ジョバンニが親友カンパネルラを水難事故で失う場面が出てくる。オリジナル台本では、カンパネルラは運河で溺れて命を落とす。だが、今公演はこの設定を「運河」から「津波」に変更していた。アフタートークで演出を担当した元教諭の北市邦男は、5年前に発生した東日本大震災の記憶を忘れないように手を加えたと話した。

 「運河」が「津波」に置き替えられたことで、観る者の景色が一変する。目の前にある虚構の劇空間は消え去り、大震災の映像がフラッシュバックする。作品自体、現実との対峙を避けられない。それは、被災地・被災者とも向き合うことを意味する。家族や知人を亡くした人たちにとって、カンパネルラの死を乗り越えたジョバンニの姿に訴求力はあるのか。心の空白を埋めようと葛藤している人たちにとって、押し付けがましさだけが誇張されていないか。果たしてある種の覚悟を持って、彼らの目の前に立ち、演じることができるのかと。
 被災者の心の空白や傷の大きさはそれぞれ違う。今もなお、行方不明となった家族を捜索し続ける人たちもいる。震災体験のない者が「立ち直って進んでいこう」と簡単に発することは、容易にはできない。そもそも、無責任で配慮に欠ける行為である。「津波」と設定を変更することで、上演サイドにもこれまで必要なかったものを背負う責務が生じてくる。

 アフタートークで話す北市からは、震災を風化させてはいけないという思いや、演じた高校生らへの愛情は伝わったものの、敢えて「津波」にシチュエーションを変えた上演作品に対する覚悟を感じることはできなかった。覚悟がない、もしくは中途半端であるならば、劇空間に異を唱えるような言葉を無理に入れ込まず、脚本が持つ世界観をストレートに表現すべきだった。
 東日本大震災や福島第一原発をテーマにした演劇や映画などが世に出ている今、改めて表現のあり方について考えを巡らせた。
この文章は、2016年11月19日(土)19:00開演の金沢舞踏館『ふいご少年と煙玉少女』についての劇評です。

 舞踏は海外でも「Butoh」の名前で通じる。前衛舞踊として始まり日本独自に進化した世界からも評価される一つのジャンルだ。
 20年ほど前、海外へ留学に行った知人が「日本人だろ。舞踏は知っているか?舞踏を見せてくれよ」と言われた話が思い出される。当時、海外から見た日本の演劇として、それほど存在感があったのだろう。
 有名どころの名前を少し挙げると、土方巽、大野一雄。土方に師事した大駱駝艦の麿赤兒、芦川羊子と小林嵯峨の白桃房。大野に師事した笠井叡。麿の大駱駝艦からは天児牛大(あまがつうしお)率いる山海塾などがある。
 そして、彼らに師事した者や影響を受けた者たちによって今もなお進化し続けており、それは舞踏だけでなく、コンテンポラリーダンスや演劇にも影響を与えている。特に暗黒舞踏という様式を生み出した土方巽の影響はとても大きい。
 国内外で活動を続ける金沢舞踏館が、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第8弾(11月18日~20日)として登場した。
 主宰する山本萌は、土方の下で学び金沢舞踏館として独立、77年に金沢に拠点を移し現在に至る。今作『ふいご少年と煙玉少女』は土方没後30周年として挑んだ作品である。
 作品は土方が著した『病める舞姫』から生み出されたとアフタートークで語られた。おそらくではあるが『病める舞姫』に描かれた言葉は、秋田で育った土方の心象風景に近いものだったのだろう。その風景的な言葉を舞踏譜としてこの作品は作られたのではないかと感じる。
 演出を手がけた白榊ケイがアフタートークで語ったことは、ある種の肉体の内側に内在するエネルギー性、「魂」と形容しても良い部分のことではないかと個人的には思う。それが肉体という抑圧を超え溢れ出す。そこにこそ舞踏はあるのだと。カタチではなく、そこから生みだされた見えない何かにこそ舞踏が舞踏たる謂れがあるのだと。
 そうであるならば語られたことに些か納得がいく。若い舞踏手たちの印象として、舞踏的だがジャパニーズスタイルなコンテンポラリーダンスと感じられる面はあった。しかし、私としては決して悲観するような出来ではなかったように思う。
 確かに肉体から漏れるように溢れ出す「魂」ともいえる内面のエネルギー性は低いように思えたが、それに代わる瑞々しさがそこにはあった。山本萌の「魂」を膨らませた身体、押し出す強さが身を潜め枯れた良い風合いを見せた白榊ケイとの対比もあり、彼らの踊りに少年(少女)性と色あせた風景を感じることが出来たのではないかとも思えるのだ。
 そして彼らもいつか、瑞々しさが消えるとともに円熟され「魂」が現出して踊り出すだろう。そこには、現代の肉体を持った彼らしか紡ぐことのできない「暗黒舞踏派」のDNAを持つ踊りがあるのではないだろうか。