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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2017年12月9日(土)20:00開演の劇団羅針盤『聖夜に2度目の鉄槌を』についての劇評です。

劇団羅針盤「聖夜に2度目の鉄槌を」(作・演出:平田知大)を見ていて、正直なところ困ってしまった。イケメンの俳優たちが切り結ぶ殺陣や拳銃を突き付け合うパフォーマンスのカッコ良さに対し、そもそも彼らが一体何のために誰と戦っているのかが最後までのみ込めなかったからだ。

主要な登場人物はサンタクロースに扮した男(平田知大)とサンタ好きな娘(矢澤あずな)、サンタを捜索している自衛官(能沢秀矢)の3人でいいのだろうか。当日配布されたパンフレットの「物語」によれば、世界中の20億人もの子どもたちにプレゼントを渡すためには、サンタクロースはマッハのスピードで飛ばなければならない計算になる。それだけの能力があればきっと軍事利用も可能だろうということで命を狙われるハメになったらしい。

ハードボイルドな劇画タッチを採り入れたメルヘンチックなファンタジー路線が悪いのではない。問題はむしろ作り手の脳内で沸騰している変幻自在なイメージが、単なる情報ではなく、演劇の言葉(セリフ)としてきちんと定着されていないことだ。だから力のこもった物語を書いたつもりでも、見せられた方はわけがわからなくなってくる。当日のパンフレットに記載された驚くほど詳細なあらすじを読むにつけ、これだけのエネルギーをリアルなセリフを書く作業に使ってはどうかと思ってしまった。

演出についても、役者たちが一生懸命に舞台狭しと駆け回る姿を見て、身体性の豊かな芝居だと考える人もいるかもしれない。しかし、実態はまるきり逆で、言葉が肉体化されていないのである。言葉が肉体に根を下ろさずに素通りして飛び去っていくから、物語と俳優たちがどこまでも平行線。作品中にカッコいいポーズでカッコいい決めゼリフを喋る見どころのシーンが何度か差し挟まれていたが、そんな時でも目の前のお兄さんお姉さんたちがすらっとしてカッコいいというだけであり、俳優たちの肉体がまぎれもないドラマを帯びて立ち現れる瞬間は来なかった。
この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。

 2017年に生きる私にとって「どん底」な状況とはどのようのものなのか、もう少し先の未来だったらどうか。劇団ドリームチョップ第17回公演『底のない柄杓』(作・演出 井口時次郎)を見てそんなことを考えた。

 この公演はかなざわリージョナルシアター2017の参加作品として、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で行われた。ドリームチョップは石川県で2000年から活動する劇団であり、代表の井口は、金沢市民芸術村において演劇分野の市民ディレクターを務め、石川県内の高校演劇の指導も行うなど、石川県の演劇界で精力的に活動している人物である。

 物語はゴーリキーの『どん底』を下敷きにしてはいるが、どうやら今より少し先の将来の話のようであった。事情により住む場所のない女性たちが拠り所として暮らす、とある施設。そこで繰り広げられる数日間の出来後を描いた作品だった。

開演前の会場には、スピルバーグ映画の悲しいシーンを思い起こさせる音楽が流れ、悲劇を予感させた。舞台上のセットは女性たちが暮らす施設の内部を表現していた。中央にダイニングテーブルと4つの椅子、両側には50センチほどの高さの白い板で仕切られた寝床が3つずつ。最低限の簡易宿泊所という感じだ。
 
 神様の話を力説する高齢女性、奥平佳乃(奥正子)、それをキレ気味に聞いている女性、新垣美知(邑本なおみ)のやり取りから物語はスタートする。老女は熱心な宗教信者であるらしい。その会話の後、施設に入所している女性たちとその背景が見えてくる。セリフが覚えられなくなった舞台女優、薬漬けの女性、病人、戸籍のない女性など、様々である。施設の所長、宮原均(長山裕紀)は女性たちの弱みにつけ込み、入所者たちには高圧的かつ暴力的に振る舞う。そんな施設に柄杓を首にぶら下げた不思議な白髪の老婆、自称・山田花子(厚沢トモ子)が、野間口都(横川正枝)に連れられやって来て、施設で暮らすことなった。彼女は次第に入所者の女性たちと打ち解けてゆく。しかし、花子の存在で施設内が明るくなったのも束の間、ある日、施設内で悲惨な事件が起こり、そこから悲劇が続く。

 いわゆる救いのない話であった。ゴーリキーが当時のロシアの底辺で生きる人々を演劇で描いたように、ドリームチョップの劇作家である井口時次郎は未来の日本の底辺生活者を描いた。それにより、今の社会に対してこの作品は警鐘を鳴らした。だが、将来の現実というよりは、将来を舞台にした架空の話のように感じ、私はこの作品を身近に感じることができなかった。セリフが説明的だったり、キャラクターの設定や言動がステレオタイプだったり、何よりも、入所者がそんなに不幸そうに見えなかった。例えば入所者同士で絆ができており、そこそこ施設での生活を楽しんでいるなど、衣食住に仲間もいる生活が本当に「どん底」なのか疑問に感じた。

 将来の「どん底」生活者たちとはどんな人たちなのだろうか。この作品では社会的弱者として登場したのは全て女性であった。女性が弱者となりがちな点は、今も将来も変わらないとするこの設定には賛同する。しかし、本当に将来的にも女性が弱い社会は変わらないのだろうか。そして経済的弱者であることが「どん底」なのだろうか。だとすると女性の経済的弱者を描いたこの『底のない柄杓』の設定は短絡的すぎる。そして、そのことが作品のリアリティを弱めてしまったように思う。

 経済的な豊かさやジェンダーに関する日本人の感覚が、今後どんな速度でどう変わってゆくのか、もしくは変わらないのか、私には読めない。貧乏でも、身寄りがなく不健康でも、自分たちの置かれている状況が「どん底」だと本人が思えばそうかもしれないが、思わなければそれはパラダイスかもしれない。そうなると、本人の価値観にそぐわない生き方を強いられている状況こそが、個人を「どん底」に突き落とすことになる。それ以外で無条件に人を「どん底」たらしめる何かがあるとすれば戦争だろうか。どのような形であれ、近い将来、社会やそこに住む人の何がどう変わっていて、何が全く変わっていないのかがこの『底のない柄杓』の中に具体的にはっきり提示されている部分がもう少しあれば、その中で描かれる未来の世界に、私はより強く引きずり込まれていただろう。

 これからも経済的格差が広がると言われている日本において、近い将来の経済的弱者が描かれた作品は、私にこの先の社会を考える時間を与えてくれた。それが都市部で活躍する演劇人によるものではなく、同じ地域に住む人の作品によるものであれば、尚のことそのテーマを自分のこととして受け止めやすい。地方の劇団が社会的テーマを扱うことの意義は大きいと感じた。
この文章は、2017年12月8日(金)20:00開演の劇団羅針盤『聖夜に2度目の鉄槌を』についての劇評です。

 劇団羅針盤の持つ、一点集中力は、ずるい。ここぞというところで、役者のセリフやポーズ、照明、音響、全てを綺麗にまとめあげる。一番いい瞬間で、カメラのシャッターを切ったように。その「ベストショット」をして、何かいいものを観たような気持ちにさせられてしまう。

 劇団羅針盤『聖夜に2度目の鉄槌を』は、サンタクロースの存在を巡る物語である。
 自衛官の東條慶一郎(能沢秀矢)は、上司よりサンタクロースの捜索を命令される。サンタの存在を否定する彼は渋々ながら、サンタを探し世界を飛び回る。その先で見つけたのがジェド=マロース(平田知大)。彼はサンタクロースハンター。ジェドがサンタについて何か知っているのではないかと、東條は彼を問い詰める。揉める2人の間にドルフィ=アンダンテ(矢澤あずな)が現れる。彼女はサンタを信じ怪しげな活動をしている。東條を追うスモー=アジタート(和田和真)とモーキン=アジタート(川端大晴)のコンビと対峙したり、逃げたりしながら、東條達はネットワーク世界にまで侵入。ネット上に存在する人格、カタリナ(山本理央)の案内でサンタが存在する証拠を探す。

 現実世界の様々な場所とネットワーク世界、あちこちへと一瞬にして舞台は飛ぶ。早い速度で常に駆けているかのような台詞に、動きに、殺陣。聞き取れない台詞もあるため、正確に伝わらない情報が多い。1を理解する前に、2や3の情報が提示されている。それでも形を成せてしまう理由は、劇団がこれまでの公演で積み重ねてきて得た経験と、身に付けた度胸にある。それはもう「羅針盤流」と呼んでもよいものだろう。
 大量の情報の渦に巻き込まれていく快感というものは存在する。それが好きな人にとってはいいのだが、情報の激流に身がすくんでしまう人もいる。羅針盤流の高速度は、情報を追えない不快感を味わう人が出てしまう危険性を持っている。

 キャラクターの活躍を観るだけではなく、キャラクター達がどんな物語を歩んでいるのかをもっと知りたくなる。この舞台はサンタクロースを巡る物語なのだが、サンタクロースのよき相棒である、赤い鼻のトナカイを巡る物語でもあるのだ。しかし、トナカイの歩んできた物語についての情報を、受け取り損ねた感がある。

 高速の危険性としてはもう一点ある。大量の情報の中には、テロや核などの穏便ではない単語も含まれていた。ただ、それらの単語が現れた理由も高速で去っていくので、単語の持つ意味を受け手が深く考えることはできない。本来なら、軽く扱ってはならない言葉から、意味が失われているのだ。そのようにしているのは、深刻に考えさせないためかもしれない。娯楽としてただ楽しんでほしいのかもしれない。しかしテロも核も絵空事ではない現在、例え娯楽作品であっても、それらの単語を使うには、注意が必要ではないか。大量の情報を処理しつつ、適切な配慮を行うことは容易ではない。

 ふと静かになるシーンや、一人語りのシーンが何度かあった。役者達は、緩急の緩の部分を魅せることもできる。それを踏まえた上で思う。大量の台詞を覚え、素早い動きと殺陣をこなすことができる。その基礎体力があれば、応用もできるのではないか。
 一度その流れを緩めてみてほしい。物語が受け手に染み渡るような、そんなテンポで舞台が運ばれたなら、どうなるだろう。それでも羅針盤らしさは滲み出てくると思うのだ。受け手に物語の全容が伝わり、その物語の豊穣さを感じさせた上でのベストショットには、さらなる説得力が生まれるのではないか。
この文章は、2017年11月25日(土)19:00開演の空転幾何区『CLOCK』についての劇評です。





ステージ上にはレンガ造り風の段が4段。一番上の中央にはふすま二枚分弱の壁いっぱいに、大きな白い円が描かれていた。レンガ模様は円の外側にも施されていた。
会場に入ってすぐに、この丸い白い円が何を表しているのか気になってしょうがなかった。
劇中、時計の文字盤と針が映し出されてようやくその白い円が時計そのものであるとわかった。あ、そうだ。この舞台のタイトルはCLOCK=時計だった。アルファベットは苦手意識が強すぎて頭に入らないという癖がある。今さらながら、タイトルぐらいくらいちゃんと頭に叩き込んでから会場入りしようと誓った。ただ、常に文字盤を投影しているわけではないのだから周りのレンガ模様はなくてもいいんじゃないだろうか。

空間幾何区第1回公演『CLOCK』は、大きな時計が動かなくなってから街の時間が止まってしまった世界の話だ。
出演者が一つの段に3人ずつ並び、1時から12時までをカウントする。それぞれの時間の生活が表されるが12時を超えても日付は変わらない。また同じ時間が繰り返される。
ハル(川端大晴)はどんな時計も直せる良い腕前を持っている時計屋だった。だが、おじいちゃんが直せなかった大きな時計だけは直すのは無理だという。住み込みの店員チヨ(佐藤史織)が一冊の本を手がかりに大きな時計を直そうと、時間の止まった街にハルを連れ出す。そこで出会う人たちは小さな水晶を持っていて、その水晶を時計の文字盤にはめ込むと時計は動き出すのだった。時間が止まった街では人は歳を取らない。ハルの祖父は老いてなくなった。残されたハルは成長し一人前の時計屋になっている。しかし彼ら以外の街の人は誰も歳を取らない。それは何を意味するのか。その理由を知ったときハルは何を思うのか。

大きな時計を直すことでハルはおじいちゃんを超えた。同時に幼い頃からいつもそばにいたチヨから離れることになった。おじいちゃんを超える。チヨから離れる。男親を超えて一人前になり、女親から親離れするという、男の子どもの成長を表しているように思えた。だとしたら立派な時計屋としての大人の外側と、おじいちゃんとチヨの庇護の下にある幼い内側、そのちぐはぐさから来るハルの心の葛藤があるのではないかと思うが、それはあまり伝わってこなかった。「いらっしゃいませ!」と彼が叫んだとき、唐突だったので意味がわからず戸惑ったのだが、あれは彼なりの決意の表れだったのだろうか。
全体的にテンポが良かったし、客席から笑いもよく起こっていた。舞台上に水晶の持ち主は6人出てきたが、それぞれの得意技を披露しているようで水晶を持つ俳優たちは生き生きしていた。まさしく「俺のターン」だった。そのため「ハルのターン」がぼやけたのかもしれない。技術は一人前のハルが心も一人前になっていく様子を、もっと深いところでじっくり見てみたい。
この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。

 仕事がない、身寄りもないといった女性たちを支援する福祉施設かと思いきや、そこの所長・宮原均(長山裕紀)はとんでもない食わせ者。入居者たちの腕に埋め込まれたICチップで管理されたID番号によって国から補助金が支給される仕組みだが、宮原の目的はその上前をはねる貧困ビジネスらしい。劇団ドリームチョップ「底のない柄杓」(作・演出:井口時次郎)は、ロシアの劇作家・ゴーゴリによる名作「どん底」の設定を近未来の日本に移し替え、格差の拡大や人間関係の希薄化などによって女たちが追い込まれていく悲惨な境遇をリアルに描いた。我々がただ呆然と手をこまねいているうちにこうした絶望的なディストピア(暗黒社会)が否応なく到来してしまうと警告を発しており、恐怖感を覚えた。

 貧困層とは言っても入居者たちはボロなどは着ておらず、ごく普通の人々という印象。舞台の中央には共有のテーブルと椅子がある。周囲の白い壁に沿って計6室のブースが設けられ、畳1枚分ぐらいのスペースに女性たちが寝起きしている。隣室とは高さ約1メートルの壁で仕切られているが、ほぼプライバシーがない状態だ。地下室のせいか窓がなく、息苦しさを覚える。床にゴミなどは落ちていないが、まるで整理整頓された事務所のようで生活感に乏しく、かえって社会から隔離されたどん詰まりな雰囲気を醸し出していた(舞台美術:長山裕紀)。

 冒頭、物乞い女・奥平佳乃(奥正子)が同じく入居者の新垣美知(邑本なおみ)を宗教に勧誘している。一方で自称「元女優」の野間口都(横川正枝)は、変な咳が止まらない病気持ちの女・真島結愛(古林珠実)を心配している。そこへ所長の娘・宮原咲空(竹松舞音)が登場し、街角で途方にくれていた老婆「山田花子」(厚沢トモ子)を連れて来た。老婆はID番号を持たず、底のない柄杓を首からぶら下げている。自分が誰かもわからないようだが、病気の結愛を気にかけ、都が再び舞台に立てるように励ますなど、周囲の人々に温かく接する。

 宮原所長は水商売のママ・綾部裕美(新宅安紀子)といい仲なくせに結愛とも強引に関係を持ち、妊娠させてしまう。さらにID番号を持たない無国籍の若い女「ゴン子」(中山杏香)にも迫った挙句、ナイフを突きつけられて抵抗されると、今度はカネをやるからしつこいママを殺してくれと依頼する。やがて結愛は息を引き取り、ゴン子は本当に裕美をナイフで刺してしまった。そんな中で、元女優の都だけは図書館で朗読のアルバイトをしてわずかながら報酬をもらい、施設からの退所への第一歩を踏み出していた。ところが、見守ってくれた老婆が忽然と姿を消すやいなや、騙されていたのではないかと猜疑心に駆られ、老婆が残して行った底のない柄杓で自らの喉を突いて絶命したのだった。

 タイトルにもなっている底のない柄杓とは何か。嵐に遭遇した昔の船乗りたちは、死神から柄杓を出せと脅されて渡してしまうと、その柄杓で船に水を入れられて沈没してしまう。だからあえて底のない柄杓を準備しておき、水が入らないようにしたおまじないなのだと劇中で説明があった。そこから今回の作品では、役に立たない人間も何かの役に立つというテーマにつながっていく。それはどういうことか。例えば、貧乏な女たちはそこにいるだけで国から補助金がもらえ、所長の私腹を肥やすことに役立っているが、まさかそういうことを言いたいのではないはずだ。むしろ無益な厄介者として周囲から蔑視されていた老婆は、都にとってはかけがえのない存在だった。彼女は老婆に背中を押されて過去のプライドを振り捨て、自力で歩き始めた矢先、老婆が行方をくらました(実は単なる認知症かもしれない)ために梯子を外された思いで死を選んだ。柄杓をしっかりと握り締めた彼女の死に顔からは「ただそこにいて私のことを見ていてくれるだけでよかったのに」と老婆に対する恨み言の一つもおずおずとつぶやく声が聞こえてくるように感じられた。どん底から抜け出すためのさまざまなアイディアではなく、具体的な人間としての老婆自身が都には必要だったのだ。

 福祉の理想を語りながら入居者の財産や性を搾取する宮原所長を演じた長山は怪しげな存在感が圧巻であり、水商売の手練手管で所長をたらし込みにかかる新宅ママとの駆け引きは面白くて見応えがあった。また、自暴自棄になった女たちに一瞬の希望を持たせた老婆役の厚沢は、安定した演技で説得力があった。作品全体からは安易な救いや感動的な結末が徹底的に排除されている。坂を転がり落ちていくような日本の状況に対する作り手の焦りや無力感などが漂ってきた。現代社会が抱える病巣を鋭く抉ってみせることが演劇の役割なのであり、今後どうしたらいいかを考えるのは観客の仕事である。