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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2017年11月25日(土)19:00開演の空転幾何区『CLOCK』についての劇評です。



 出演者一人ひとりが輝き、キャラクターとして魅せながらも、中身がみえないのはなぜだろう。劇団空転幾何区が演じる「CLOCK」(作・演出 川端大晴)は、キレイな話だが、虚しい気持ちになった。

 劇団空転幾何区とは、金沢大学の学生を中心とした演劇ユニットだ。“ちょっと変わったこと”をテーマに、新しいカタチを探っている、20代前半の大学生が主なメンバーとなり、複数の劇団に所属するメンバーがユニットを組み結成された。

 会場へ入るとダンスミュージックのようなリズムを刻む音楽が流れている。青い光に包まれた舞台が4段に組まれ、一番上の中央には直径1mほどの白い円が置かれている。流れていた音楽が止み、舞台がはじまると、スモークによって金沢市民芸術村ドラマ工房内はだんだんと薄い靄に包まれていく。いよいよはじまるかと思ったところで、出演者は顔が見えるように並び、こちらに向かって時間を唱えはじめた。一体なにがはじまるのだろうか。私は異様な空間に、不安と微かな期待を覚えた。4度ほど繰り返されたそれらは、彼らの舞台(異空間)へと誘う有効的な手段であった。

 物語は、町一番の時計屋さんになることが夢のハル(川端大晴)と、ハル工房に住み込みで店員をしているチヨ(佐藤史織)を中心に展開していく。ハルが町の真ん中に立つ大きな時計を直すための手段を探していると、チヨが持つモトハル(ハルの祖父・川端大晴)の残した書籍に、重要なことが書かれていることが明るみに出る。その本によると、時計を直すためには水晶が必要らしく、その水晶はハルが幼い頃から知っている様々な世界の住人が持っていた。ハルとチヨは本を頼りに彼らに会いにいく。だが、実はその住人たちはモトハルがつくったロボットだった。そして、その水晶がなければ動かなくなってしまう。チヨまでもがロボットだったという告白と、その真実を知ったハルは水晶を受け取りたくないというが、彼らロボットたちは、モトハルさんが望んだことだ、君に一人前の時計屋さんになってほしいから、とハルに水晶を渡す。そして、ロボットが止まり、ハルは受け取った水晶で、町の真ん中に立つ大きな時計を直したところで、話は終演をむかえた。
 世界の住人は、5人登場する。言葉の世界の住人のヤマト(山田浩平)、七色の世界の住人のカノン(上野ひなた)、静かなる世界の住人のサイ(大竹琴子)、宇宙将棋の世界の車掌さんの哲朗(能沢秀矢)、ベルの世界の王子様のキッド(清水康平)という個性を主張したキャラクターが次々と登場する様子からは、時計の刻む時を人に喩え、多様な時があることを伝えたかったのだろう。そのほかにも、ハル工房時計役として、モトハルの時代から店にいるユニークで愛嬌が印象的な振り子時計(間宮一輝)や、入荷したての可愛らしい鳩時計(木村日菜乃)など、多くのキャラクターが次々と登場し、モトハルからハルへと時の流れによる変化を表していた。

 ただ、設定に違和感を感じたというのも正直に書いておきたい。モトハルは右に出るものはいない時計職人という設定だが、そもそも街に1人しかいないのなら、右も左もないだろう。ハルは孫だというが、1人なら孫の生まれようもないだろうし、街一番の時計屋になるのが夢だというが他に住人がいないなら一番も二番もない。だいたい店に時計を買いに来る客がどこから来るのか、まったく説明がない。この設定の無理こそが物語の比喩を機能させるためのものだとするなら、例えば、これはハルという人間の妄想の世界で起きていることを描いている、とも解釈できるだろう。“モトハル”は“元ハル”であり、すべての登場人物はハルの分身にすぎず、この世界の中にはハルしか存在していない……というような。

 あるいは、この物語の題でもある「CLOCK」=時計を舞台の中でどう捉えるかにもよるが、「時間」が進んでしまったら後戻りすることの出来ないものの象徴ならば、人生における家族や仲間との不条理な別れというトラウマを乗り越える場面として、少年から大人への成長を描くストーリーと考えることもできる。時計を他者と時間を共有し、社会の中に自己を順応させるための仕組みとして捉えるのであれば、モラトリアムからの脱却と捉えることもできるだろう。
 しかし、果たしてハルは本当に成長しているのだろうか。仲間の命と自分の夢を天秤にかける状況のはずなのに、相手から差し出された水晶(死)を言われるがままに受け取ってしまうという受動的なハルの姿は、あまりに幼いように感じた。街一番の時計職人になるという夢があるならば、おじいさんの用意したレールを歩くのではなく、仲間のロボットの命も失わずに時計も直す第3の道を、葛藤に葛藤を重ね自分で見つけ出すべきではなかっただろうか。他人から与えられた道を歩くのではなく、自らも考えたことがないような未来を切り開いてこそ人は成長するはずだから。
この文章は、2017年11月25日(土)19:00開演の空転幾何区『CLOCK』についての劇評です。

 石川県金沢市内の大学生による演劇ユニット空転幾何区の第1回公演『CLOCK』(作・演出、川端大晴)は、見る者をどこか不思議な世界へといざないながら、平和な気持ちにさせてくれる作品だった。

 会場は金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房。のんびりとしたゲーム音楽のような曲が流れる会場は、階段状に5段ほどに作られた客席に、緞帳のない舞台があった。舞台上には数段の平台が重ねられ、上にゆくほどそれは小さくなっていた。一番上には1メートル四方ほどの四角いオブジェが置かれており、レンガ模様に囲まれて、内接した白い円が描かれていた。タイトルから察するに円の部分は時計だろうと誰もが思うようなデザインである。舞台後方には、上向きに明かりを照らすライトが横一列に並べられていた。

 冒頭、白いスモークが舞台後方から上がり、多くのキャストが舞台上に現れ、全員が合唱団のように並んで正面を向いて立ち止まったまま、一人ずつ4時、7時、12時……など時間を言い始めるという不思議なシーンからスタートした。物語全体の伏線的な要素を表したオープニングである。
 
 物語は時計屋の主人ハル(川端大晴)が、祖父の残したノートを手掛かりに、時計屋の店員チヨ(佐藤史織)と共に、止まったままの街の大きな時計を復活させるSF物語であった。大時計を動かすために必要な水晶を集めるべく、二人は様々な「世界」へ行く。水晶はそれぞれの世界にいるロボットが持っており、それを譲り受けて集める必要があるのだが、水晶はロボットたちにとって生命、譲ってしまえばもう終わりなのであった。

 舞台セットは最後まで変わらず、主人公たちが行くいくつかの世界や時計屋などは、音響と照明、少しの映像と俳優のマイムなどでシンプルに表現されていた。派手なセットが入れ替わり立ち替わり出てくるような舞台ではなかったが、見る者の想像力は十分に掻き立てられ、主人公の働く時計屋や、彼らが水晶を手に入れるために訪れる七色の世界、静かなる世界、宇宙将棋の世界など、様々な場面が目の前に現れ、主人公たちとともにそれらの空間を体験できた。また、それぞれの世界の住人として一人ずつ現れるキャラクターも個性的で、その世界観を作り出すことを後押ししていた。例えば、無表情で何を考えているかわからない静かなる世界の住人サイ(大竹琴子)は、正面を向いて立ち、微動だにしない。(あるいは、)今回唯一の殺陣シーンで主人公と一戦交えた宇宙将棋の世界の車掌哲郎(能沢秀矢)は、一般人のハルとは対照的に、堂々としていながらもどこかクセのあるダンサーのような身のこなしで、異世界の住人らしい奇妙な雰囲気が出ていた。

 心温まるヒューマンドラマではなかったが、この作品を平和的だと感じた。そこには残酷なシーンや重たいテーマもなく、18歳以下が見てはいけないような内容もなく、子どもでも見られる内容だったためである。幅広い世代が楽しめる作品ではあったが、大学生が集って貴重な時間を使って表現するのであれば、実験的な演出や演劇でしか言えないメッセージがあってもよかったのではないだろうか。観劇後、なんだか平和だったなとは思いつつも、印象的に残る何かに欠け、作り手が考えていること、演劇を通してやりたいことがよく見えなかったのだ。

 最後に、かなざわリージョナルシアターで金沢の若手劇団の公演は今回で2団体目である。いずれもSF、とりわけ本物の人間と見紛うような作りのロボットが登場する。これは流行だろうか。
この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。

 『底のない柄杓』(作・演出 井口時次郎)のラストシーンには、あまりに希望がなさすぎる。しかし、希望がないからといってどうなのだ? 希望がないと人は生きていけないのか? そのような問いかけがされている。いや、希望は必要だと言いたいのに、私は口を開けない。

 その大部屋は、身寄りがない、お金がないなどで困っている女性達が暮らす施設である。彼女らに与えられるのは、低い仕切りで区切られただけの、プライバシーのない狭い寝床だけ。

 咳の声から芝居は始まる。咳き込んでいる真島結愛(古林珠実)は、施設を追い出されるのが嫌で、病院に行けない。その結愛を看病する野間口都(横川正枝)は、かつて大女優だったと自称している。奥平佳乃(奥正子)は神の存在を新垣美知(邑本なおみ)に語り、呆れらている。美知は個室にいたのだが、お金がなく大部屋へと移動してきた。彼女らを取り仕切り、怪しげな薬を売っているのが綾部裕美(新宅安紀子)で、彼女は所長の宮原均(長山裕紀)と愛人関係にある。IDカードも、名前も持たず、国籍もわからない通称・ゴン子(中山杏香)は、行く所がないため施設に無理矢理居着いている。「こんなところ」と思いながら、誰もそこを抜け出すことができない。

 ある日、所長の娘・咲空(竹松舞音)が、老婆を連れて施設にやってくる。行き場のない老婆・山田花子(厚沢トモ子)は施設に留まり、明るく愛嬌のある不思議な魅力で、居住者達の心を捉える。花子の前向きな言葉と行動が、居住者達に希望を与えるのだ。その脚があればどこへでも行けるのだと、誰もが幸せになれるのだと。しかし、結愛が病により死亡する。病院にて結愛の体が調べられたことで、隠していた事実が明らかになる。結愛は身籠もっていたのだ。所長の暴行が疑われ、それを発端に事件が起こる。事件の混乱に紛れて、花子は消える。居住者達に芽生えたささやかな希望は、失われてしまう。

 誰もが突然、貧困状態に陥ることがあり得る。この芝居での描写に似たことは、現代の日本でも起きている。貧困者を救うふりをした悪徳ビジネス、生活保護、無国籍者、移民、多くの社会問題がある。それらは決して他人事ではない。
 もし自分がその状況になったら。希望など簡単には持てないだろう。明るい未来を夢見て、誰もが幸福になれる平等な社会を、手を取り合って作っていこう? 安易な幸福論がしらじらしく思える。中途半端な優しさは返って邪魔になる。与えられた小さな希望が潰えたときには、大きな絶望が襲ってくるのだから。
 底のない柄杓では、水をすくっても溜まらない。溜められないのだから、水を誰かに分け与えることはできない。水はただ流れ落ちるだけ。

 それでも、と私は思ってしまうのだ。柄杓で水を汲んでくれようとしてくれた行為を、中途半端でも望みをもたらそうとしてくれた気持ちを、ただひとときでも夢を見せてもらえた時間を、有り難いものだと捉えたいのだ。ほんの少しの、柄杓の表面に伝う水の一滴でも、希望という甘露が喉を潤した喜び。それを、私達が覚えていることができるならば。とてつもなく低い可能性であっても、いつかの希望がどこかで胸をよぎることがあるかもしれない。それが、生死を分けることになるかもしれない。
 しかし、明日をも知れぬ余力のない状態で、希望を形作ることは難しい。生きていくだけで精一杯な状態で、それ以上行動することは辛い。希望というものの存在の弱さを、『底のない柄杓』に見せられた。希望などなくとも、生きていかざるを得ない。
この文章は、2017年11月25日(土)19:00開演の空転幾何区『CLOCK』についての劇評です。

 鍵盤の映像が映し出された床を踏むと、ド、レ、ミ、と音が鳴る。軽々とステップを踏み、『きらきら星』を奏でてみせる男女。その様子は無邪気で、楽しげで、好感が持てた。空転幾何区が上演した『CLOCK』(作・演出:川端大晴)の一場面である。

 舞台中央奥には、大きな白い円の付いた台がある。その台を中心に、4段の階段がハの字型になって舞台手前に向かって広がっている。この台は、街にある時計台。映像効果によって、たびたび白い円に時計盤が映し出される。

 ハル(川端大晴)は街の時計屋。時計を直すためいつも忙しく動いている。そんなハルにも直せない時計があった。街の時計台だ。街に水晶が降り注いだ時、街の時計は止まってしまった。そして、ハルと彼の祖父トモハル(川端大晴・一人二役)を除く街の住人の時間も止まってしまった。ハルとトモハルは元々この街の住人ではない、ということが時間の止まらない理由とされている。止まった時計を直し、街に時間を取り戻すためには、かつて降り注いだ水晶が必要である。そのことが、今は亡きトモハルが残した書物により判明する。そしてハルと、時計店に住み込みで働くチヨ(佐藤史織)の、水晶を探す冒険が始まる。
 ハルとチヨは5つの世界を巡る。しかし彼らが先へ進み水晶を手に入れるためには、それぞれの世界にいる人物の出す問題を、解決しなければならない。言葉の世界では、ヤマト(山田浩平)の出すことわざに、観客を巻き込んで回答する。七色の世界のカノン(上野ひなた)の前では、前述の通り、ステップを踏んでピアノを弾く。静かなる世界ではサイ(大竹琴子)の作り出す迷路をパントマイムを駆使して表現し、通り抜ける。宇宙将棋の世界では哲朗(能沢秀矢)と殺陣で対決。ベルの世界では、シンデレラを探すキッド(清水康平)と出会う。様々な表現方法が用いられ、飽きさせない。

 水晶を「拾った」としていたチヨだが、実はヤマト達から受け取っていた。ハルは、ヤマト達が動かなくなっていることに気づく。そして彼らが身に付けていた、水晶のアクセサリーがなくなっていることにも。水晶は彼らの動力源であったのだ。彼らはハルの成長を見守り続けるために、トモハルが水晶を用いて作った、ロボットなのだった。
 時計を直すために必要な水晶は、彼らから貰わなければならない。だが水晶を失うと彼らは止まってしまう。時計を直すのは、ハルの夢である以前に、トモハルの夢でもあった。だからロボット達は水晶を差し出す。しかし、それでいいのだろうか。ロボットとはいえ、長らく生を共にしてきた存在を、ハルのために止めてしまうことはできるのだろうか。しかし、ロボットに生死はない。死ぬことができるのは人間だけ。ここではそう定義される。

 現実、人に近しい人ではない創造物、ロボットや人工知能などの開発は著しく進んでいる。それらが自律し心を持つ未来が来るのかはわからないが、人に近しいものに人が愛着を持つ時代は来ているだろう。それらが停止したときには、人の死に似た悲しみを感じることもあるだろう。
 ハルのために生まれてきたのだから、ハルのために停止する。それでみんなの夢が叶う、では、無邪気だ。ハルは、ロボット達のこれまでの生を受け止める。受け止めた上で、自分はこの経験をどう携えていくのか、あるいはいかないのか、考え、行動する。その葛藤と結論を、ラストシーンでもっと強く感じさせてほしかった。

 第一回公演であり、また、普段は違う団体に所属する役者達のユニットである。だから、個々のやりたいこと、できることが盛り込まれた内容であったのだと感じる。その積極的な試みを、私は好ましく受け止めた。次回以降、物語にいくらかの重さが加わればどのようなものになるのかが、観てみたい。
この文章は、2017年11月2日(木)20:00開演の表現集団tone!tone!tone!『ダブリンの鐘つきカビ人間』についての劇評です。

言葉で思いを伝えられないもどかしさを時々感じないだろうか?表現集団tone!tone!tone!「ダブリンの鐘つきカビ人間」(後藤ひろひと作、滝川慎哉演出)は、奇妙な伝染病が流行した中世の村で、自分の気持ちとは反対のことしかしゃべれない症状に悩む娘・おさえ(宮崎裕香)と全身にカビが生えて村人たちから毛嫌いされる鐘つき男(江崎裕介)の恋を描いた。二人が言葉のハンディを克服しながら愛を育てていくのに対し、周囲の無理解な村人たちとの摩擦は増大する一方であり、言葉というコミュニケーションの手段を奪われた悲劇を表現していた。

舞台は正面に城壁が聳え立ち、その中央には頑丈な門扉がある。門のかたわらに少し高い台があり、王(坂本好信)や神父(甲斐朋之)が上がってスピーチできる。上手側のやや幅広い階段を登ると、おさえが住む家の屋上。下手側の狭い階段は高い鐘楼へと続き、カビ人間が毎日お昼の時間を知らせる鐘をついている。

恋は予想外な出会いから始まった。本心とは逆の言葉を口にしてしまうおさえは、気味の悪いカビ人間に向かって「来て」「触って」とストレートに誘いかける。普通の男ならかえって逃げ出しそうだが、誰も近づきたがらない醜悪な姿になっていた彼はグラリと来た。おさえの頬にそっと触れ、肌の柔らかさに驚く。次のステップで、カビ人間はおさえの病気について聞き、彼女の言葉がすべて反対の意味だと初めて知るが、すでに走り出した気持ちは止めようがない。やがてカビ人間はおさえの言葉を裏返して受け取る努力を重ね、 次第に彼女の真意をくみ取れるようになる。

おさえは本心を吐露できないイライラが募り、屋上に置いてあった植木鉢を大通りへ投げつけ、運悪く王の侍従長(畠中隆之)に怪我をさせてしまう。カビ人間は自分がやったと言い、おさえの罪をかぶる。おさえは彼の人柄に触れて愛するようになるが、時すでに遅かった。カビ人間の死刑が決まった時、何とか救いたい一心で彼女が民衆に呼びかけた言葉は「彼を殺して!」だった。

恋愛の最高段階に到っては、もはや相手が言葉で何を言おうが関係ない。お互いに好きな気持ちだけがほぼ100%の超伝導率で届いてしまう。死刑台のカビ人間に向かって「あなたが大嫌い」と叫んだ時、おさえの抑えられない熱情は彼だけでなく、一人の観客に過ぎない私にもビンビンと響いてきた。その瞬間、人間が押し込められた日常的な言葉の牢獄から救い出され、一種の奇跡が起こったような気がした。しかし、事情をわきまえない村人たちを説得するすべはない。

彼の後を追い、自らの胸を剣で刺したおさえ。二人の死をきっかけに村人たちの病気が治る。これは確かに悲劇だが、二人の哀しい運命がなければ恋の成就もなかったはずだ。低姿勢ぶりがコミカルな王をはじめ、内緒で伝染病を撒き散らしていた市長(宮下将稔)と神父の陰険さ、さらに背中から柿の木が生えた男(山中良一)や羽根のある人間(越場由貴)、目玉が飛び出た男(西島秀樹)ら村人たち一人一人の症状も演技や衣装(宮崎裕香)でしっかりと造形されていて印象に残った。神父の格好だけは豪華過ぎて、ローマ法王とかモスクワ総主教クラスの高位者に見えた。色彩豊かでシルエットを巧みに使い、現代から中世の物語世界へと想像力を導いた照明(有限会社照研)の仕事も立派だった。