(劇評 12/7更新)「虚しい理由」 本多瑠美 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2017年11月25日(土)19:00開演の空転幾何区『CLOCK』についての劇評です。



 出演者一人ひとりが輝き、キャラクターとして魅せながらも、中身がみえないのはなぜだろう。劇団空転幾何区が演じる「CLOCK」(作・演出 川端大晴)は、キレイな話だが、虚しい気持ちになった。

 劇団空転幾何区とは、金沢大学の学生を中心とした演劇ユニットだ。“ちょっと変わったこと”をテーマに、新しいカタチを探っている、20代前半の大学生が主なメンバーとなり、複数の劇団に所属するメンバーがユニットを組み結成された。

 会場へ入るとダンスミュージックのようなリズムを刻む音楽が流れている。青い光に包まれた舞台が4段に組まれ、一番上の中央には直径1mほどの白い円が置かれている。流れていた音楽が止み、舞台がはじまると、スモークによって金沢市民芸術村ドラマ工房内はだんだんと薄い靄に包まれていく。いよいよはじまるかと思ったところで、出演者は顔が見えるように並び、こちらに向かって時間を唱えはじめた。一体なにがはじまるのだろうか。私は異様な空間に、不安と微かな期待を覚えた。4度ほど繰り返されたそれらは、彼らの舞台(異空間)へと誘う有効的な手段であった。

 物語は、町一番の時計屋さんになることが夢のハル(川端大晴)と、ハル工房に住み込みで店員をしているチヨ(佐藤史織)を中心に展開していく。ハルが町の真ん中に立つ大きな時計を直すための手段を探していると、チヨが持つモトハル(ハルの祖父・川端大晴)の残した書籍に、重要なことが書かれていることが明るみに出る。その本によると、時計を直すためには水晶が必要らしく、その水晶はハルが幼い頃から知っている様々な世界の住人が持っていた。ハルとチヨは本を頼りに彼らに会いにいく。だが、実はその住人たちはモトハルがつくったロボットだった。そして、その水晶がなければ動かなくなってしまう。チヨまでもがロボットだったという告白と、その真実を知ったハルは水晶を受け取りたくないというが、彼らロボットたちは、モトハルさんが望んだことだ、君に一人前の時計屋さんになってほしいから、とハルに水晶を渡す。そして、ロボットが止まり、ハルは受け取った水晶で、町の真ん中に立つ大きな時計を直したところで、話は終演をむかえた。
 世界の住人は、5人登場する。言葉の世界の住人のヤマト(山田浩平)、七色の世界の住人のカノン(上野ひなた)、静かなる世界の住人のサイ(大竹琴子)、宇宙将棋の世界の車掌さんの哲朗(能沢秀矢)、ベルの世界の王子様のキッド(清水康平)という個性を主張したキャラクターが次々と登場する様子からは、時計の刻む時を人に喩え、多様な時があることを伝えたかったのだろう。そのほかにも、ハル工房時計役として、モトハルの時代から店にいるユニークで愛嬌が印象的な振り子時計(間宮一輝)や、入荷したての可愛らしい鳩時計(木村日菜乃)など、多くのキャラクターが次々と登場し、モトハルからハルへと時の流れによる変化を表していた。

 ただ、設定に違和感を感じたというのも正直に書いておきたい。モトハルは右に出るものはいない時計職人という設定だが、そもそも街に1人しかいないのなら、右も左もないだろう。ハルは孫だというが、1人なら孫の生まれようもないだろうし、街一番の時計屋になるのが夢だというが他に住人がいないなら一番も二番もない。だいたい店に時計を買いに来る客がどこから来るのか、まったく説明がない。この設定の無理こそが物語の比喩を機能させるためのものだとするなら、例えば、これはハルという人間の妄想の世界で起きていることを描いている、とも解釈できるだろう。“モトハル”は“元ハル”であり、すべての登場人物はハルの分身にすぎず、この世界の中にはハルしか存在していない……というような。

 あるいは、この物語の題でもある「CLOCK」=時計を舞台の中でどう捉えるかにもよるが、「時間」が進んでしまったら後戻りすることの出来ないものの象徴ならば、人生における家族や仲間との不条理な別れというトラウマを乗り越える場面として、少年から大人への成長を描くストーリーと考えることもできる。時計を他者と時間を共有し、社会の中に自己を順応させるための仕組みとして捉えるのであれば、モラトリアムからの脱却と捉えることもできるだろう。
 しかし、果たしてハルは本当に成長しているのだろうか。仲間の命と自分の夢を天秤にかける状況のはずなのに、相手から差し出された水晶(死)を言われるがままに受け取ってしまうという受動的なハルの姿は、あまりに幼いように感じた。街一番の時計職人になるという夢があるならば、おじいさんの用意したレールを歩くのではなく、仲間のロボットの命も失わずに時計も直す第3の道を、葛藤に葛藤を重ね自分で見つけ出すべきではなかっただろうか。他人から与えられた道を歩くのではなく、自らも考えたことがないような未来を切り開いてこそ人は成長するはずだから。