(劇評)「私たちをどん底たらしめるもの」ino | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。

 2017年に生きる私にとって「どん底」な状況とはどのようのものなのか、もう少し先の未来だったらどうか。劇団ドリームチョップ第17回公演『底のない柄杓』(作・演出 井口時次郎)を見てそんなことを考えた。

 この公演はかなざわリージョナルシアター2017の参加作品として、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で行われた。ドリームチョップは石川県で2000年から活動する劇団であり、代表の井口は、金沢市民芸術村において演劇分野の市民ディレクターを務め、石川県内の高校演劇の指導も行うなど、石川県の演劇界で精力的に活動している人物である。

 物語はゴーリキーの『どん底』を下敷きにしてはいるが、どうやら今より少し先の将来の話のようであった。事情により住む場所のない女性たちが拠り所として暮らす、とある施設。そこで繰り広げられる数日間の出来後を描いた作品だった。

開演前の会場には、スピルバーグ映画の悲しいシーンを思い起こさせる音楽が流れ、悲劇を予感させた。舞台上のセットは女性たちが暮らす施設の内部を表現していた。中央にダイニングテーブルと4つの椅子、両側には50センチほどの高さの白い板で仕切られた寝床が3つずつ。最低限の簡易宿泊所という感じだ。
 
 神様の話を力説する高齢女性、奥平佳乃(奥正子)、それをキレ気味に聞いている女性、新垣美知(邑本なおみ)のやり取りから物語はスタートする。老女は熱心な宗教信者であるらしい。その会話の後、施設に入所している女性たちとその背景が見えてくる。セリフが覚えられなくなった舞台女優、薬漬けの女性、病人、戸籍のない女性など、様々である。施設の所長、宮原均(長山裕紀)は女性たちの弱みにつけ込み、入所者たちには高圧的かつ暴力的に振る舞う。そんな施設に柄杓を首にぶら下げた不思議な白髪の老婆、自称・山田花子(厚沢トモ子)が、野間口都(横川正枝)に連れられやって来て、施設で暮らすことなった。彼女は次第に入所者の女性たちと打ち解けてゆく。しかし、花子の存在で施設内が明るくなったのも束の間、ある日、施設内で悲惨な事件が起こり、そこから悲劇が続く。

 いわゆる救いのない話であった。ゴーリキーが当時のロシアの底辺で生きる人々を演劇で描いたように、ドリームチョップの劇作家である井口時次郎は未来の日本の底辺生活者を描いた。それにより、今の社会に対してこの作品は警鐘を鳴らした。だが、将来の現実というよりは、将来を舞台にした架空の話のように感じ、私はこの作品を身近に感じることができなかった。セリフが説明的だったり、キャラクターの設定や言動がステレオタイプだったり、何よりも、入所者がそんなに不幸そうに見えなかった。例えば入所者同士で絆ができており、そこそこ施設での生活を楽しんでいるなど、衣食住に仲間もいる生活が本当に「どん底」なのか疑問に感じた。

 将来の「どん底」生活者たちとはどんな人たちなのだろうか。この作品では社会的弱者として登場したのは全て女性であった。女性が弱者となりがちな点は、今も将来も変わらないとするこの設定には賛同する。しかし、本当に将来的にも女性が弱い社会は変わらないのだろうか。そして経済的弱者であることが「どん底」なのだろうか。だとすると女性の経済的弱者を描いたこの『底のない柄杓』の設定は短絡的すぎる。そして、そのことが作品のリアリティを弱めてしまったように思う。

 経済的な豊かさやジェンダーに関する日本人の感覚が、今後どんな速度でどう変わってゆくのか、もしくは変わらないのか、私には読めない。貧乏でも、身寄りがなく不健康でも、自分たちの置かれている状況が「どん底」だと本人が思えばそうかもしれないが、思わなければそれはパラダイスかもしれない。そうなると、本人の価値観にそぐわない生き方を強いられている状況こそが、個人を「どん底」に突き落とすことになる。それ以外で無条件に人を「どん底」たらしめる何かがあるとすれば戦争だろうか。どのような形であれ、近い将来、社会やそこに住む人の何がどう変わっていて、何が全く変わっていないのかがこの『底のない柄杓』の中に具体的にはっきり提示されている部分がもう少しあれば、その中で描かれる未来の世界に、私はより強く引きずり込まれていただろう。

 これからも経済的格差が広がると言われている日本において、近い将来の経済的弱者が描かれた作品は、私にこの先の社会を考える時間を与えてくれた。それが都市部で活躍する演劇人によるものではなく、同じ地域に住む人の作品によるものであれば、尚のことそのテーマを自分のこととして受け止めやすい。地方の劇団が社会的テーマを扱うことの意義は大きいと感じた。