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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2017年12月9日(土)20:00開演の劇団羅針盤『聖夜に2度目の鉄槌を』についての劇評です。

 石川県金沢市に拠点を置く劇団羅針盤の第38回公演『聖夜に2度目の鉄槌を』(作・演出 平田知広)を見た。場所は金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房。かなざわリージョナルシアター2017の参加作品である。

 客席に入る前に、サンタの帽子をかぶった人が改札口を模した入口でチケットにスタンプを押すという演出がなされ、何が始まるのだろうかとわくわくしたと同時に、作品がクリスマスの話なのだとようやくそこで気付いた。客席は5段程度の階段状で、代表の平田自身が観客を出迎え、観客の誘導を行っていた。舞台には中央奥に出入り口となる空洞があり、そこから数段ほどの階段が舞台へと通じていた。上手下手それぞれの袖側には高い台があり、また、舞台中央からやや上向きの傾斜のついた花道のような通路が上手下手に向かって設置されていた。
 
 開演前の注意事項の説明がが終わりしばらくすると、突然明かりがついて芝居が始まり、そこにはジェド=マロース(平田知広)、ドルフィ=アンダンテ(矢澤あずな)、東條慶一郎(野沢秀矢)が立っていた。変身前の戦隊モノのヒーローのような衣装に身を包んだ3名による、怒涛のスピード芝居が始まった。彼らは情熱的に言葉を発し、演技をし、そこから「サンタ」、「自衛隊」、「オーバーテクノロジー」などの単語が耳に飛び込んで来た。それはあまりにもスピーディーで、結局私は終演まで、目の前で繰り広げられている物語の全容を掴むことはできなかった。その3名以外には、カタリナ(山本理央)、スモーキンブラザーズのスモー=アジタート(和田和真)、モーキン=アジタート(川端大晴)が途中何度か登場した。

 当日パンフレットに「油断してると3つくらい話が進んでますよ」、「大切なのは分かったふりと思い込み」、「どうか最後まで一緒に駆け抜けましょう」と観客へのメッセージがあったが、その通りの作品に仕上がっていた。私にとって演出の意図的な疾走感は、単にセリフの聞き取れない不親切さとなった。同パンフレットによれば、この物語は、1930年代、サンタクロースが世界から姿を消した事件に端を発し、それから数十年後のサンタの目撃情報をきっかけに、世界各国の機関から出て来た腕利きたちがサンタを取り戻そうとする様子を描いたSF作品だったようだ。

 作中、5分に1回ぐらいのペースだろうか、殺陣や拳銃を突き付け合うシーンが頻繁に盛り込まれいた。真面目な登場人物がギャグを言ったり、観客を巻き込んで一緒にセリフを言ったりする演出もあった。照明は何色もふんだんに使われ、時には素早くくるくるとライトが動き、音楽も切れ間のないくらいコロコロと入れ替わりながら流れ、効果音も時々使用されていた。スピード感があって情熱的な演技とカットが次々に切り替わる映像作品のような見る者を飽きさせない演出やアクションの数々が、アニメのコスプレにも見えるファッションに身を包んだ俳優たちによって繰り広げられていたが、俳優の演技やアクションのレベルが突出して高いという訳ではなかった。

 結成13年目である劇団羅針盤がこれまで培ってきたものを生かして、自分が魅了されるような作品が見てみたい。
この文章は、2017年11月2日(木)20:00開演の表現集団tone!tone!tone!『ダブリンの鐘つきカビ人間』についての劇評です。

 表現集団tone!tone!tone!(トントントン)第14回公演『ダブリンの鐘つきカビ人間』(演出:滝川慎哉)を見た。後藤ひろひとの脚本、G2(ジーツー)の演出で何度か再演された人気作品の、金沢の劇団tone!tone!tone!版である。存在は知っていたものの未見だったこの作品を、私はこの金沢市内にある声優学校の卒業生で作られた劇団の公演で初めて見ることとなった。
 
 会場は金沢市民芸術村ドラマ工房PIT2。開場時にはアイルランド民謡風の曲が流れていた。舞台には何かの建物の一階部分の外壁だろうか、ヨーロッパ風の淡いイエロー系のレンガ造りの壁が舞台を埋めつくかのようにセットされ、中央には空洞があった。舞台下手には鐘つき台へとつながる階段。上手にも階段とその先にバルコニーがあった。これらの舞台セットを見るだけで、これから始まる物語への期待が高まった。

 物語は、中世アイルランドを思わせる不思議な土地で起こった、カビの生えた醜い容姿の男、カビ人間(江崎裕介)と町の人たちにまつわる悲劇だ。その物語を当時市長だった男(宮下将稔)が土地に旅行に来たカップル真奈美(増田美穂)と聡(四方直樹)に語る場面から、舞台が展開してゆく。町の教会の鐘つきであるカビ人間、心は美しいがその容姿のためにみんなから嫌われている彼は、心とは逆の言葉を発する奇病にかかった女の子、おさえ(宮崎裕香)に恋をする。実はこの二人、町に発生した疫病によって、カビが生えたり、思ったことと逆のこと言うようになっていのだ。彼らだけではなく、その町のみんなが疫病により何らかの異変が起こっていた。ある者は目が飛び出し、ある者は体に電流が走り、またある者は背中に羽根が生えた。そんな町を救うべく、おさえの婚約者である戦士(上田真大)が伝説の剣を探しに行くこととなる。そしてなぜかその物語の中に、時代をさかのぼって真奈美たちカップルも入り込み、剣を探しに行くことになる。剣探しの冒険の裏では、町の教会の神父と市長の陰謀が進行し、やがて町全体を巻き込む悲劇が生まれる。

 心と容姿の美醜、コミュニティからの疎外、集団意識の持つ恐ろしさ、そこに真実の愛や神の存在など様々な重たいテーマが混在していた。一方では、中世ヨーロッパとはかけ離れた「群馬水産高校」の歌や、剣を探し出すための試練にクイズ番組風のやり取りなど、小劇場的なコメディ要素が、本筋と絶妙なバランスを保ちながらうまく散りばめられていた。

 今回の公演は、ゲスト出演者2名以外全員が劇団オリジナルメンバーだった。団員は出演者以外にもいるのだろうか、個性的な登場人物が多い中で、うまくその役に合ったキャスティングがなされていた。キャストの中では何を考えているかわからない怪しい雰囲気の市長や、身のこなしが軽やかで動きがきれいな天使(越場由貴)、また、人間味のある勝気な女性の真奈美らが印象的だった。

 プロの作品は見ることがあっても、アマチュア劇団に対して足が遠のいていた自分にとって、tone!tone!tone!の公演は期待値を超えて見ごたえを感じさせるものだった。地方に住む者にとって、また、演劇ファンではない者にとって、現代の小劇場作品は身近ではないが、今回のように地方の劇団が質の高い上演をすることで、演劇って面白い、演劇がもっと見たいと思う人が少しでも増えたらいいと思う。G2演出版が未見だった私も、それがどのようなものだったのだろうかともとても興味が湧いた。私にとってまた一つ観劇の愉しみが増えた。そんな舞台だった。
10月から「演劇を10倍!楽しむ劇評講座!!」を受講していました。
先月すべての観劇スケジュールが終わって書いた劇評のコメント待ちをしていたのですが、待ちきれずに講師コメント(修正)なしでアップしたのが年明けに上げた2本です。大丈夫でしょうか、これ。
もともと劇評講座は受けるつもりがなくて、9月のプレ講座を講演会のつもりで参加したのがきっかけでした。タイトルが「演劇を10倍!楽しむ方法教えます。」だったんです。そのあとに劇評講座があることは知っていたんですが単純に言葉通りに受け取って参加したら、完全に劇評講座関連講座でした。ちょっと思ったのと違ったなぁというのが正直なところ。でも、これでだけで終わるのがなんかもったいなく感じて受講を決めました。
決めて正解だったなぁ。楽しかった。ただお芝居のことを考えてる時間が本当に楽しかった。
もともと文章を書く経験がなくて書けるかどうか自信がありませんでしたが、徳永京子さんからも藤原ちからさんからも一つづつ褒めてもらえたことがとっても励みになりました。そして単純にお二方のファンになりました。

せっかくなので劇評はこれからも書きたいと思っています。私自身は演劇の経験がなく完全に見る専門です。できれば地元にいながらいろんな舞台を見ることができたらどんなにいいかといつも考えています。東京や大阪の演劇情報をただうらやましく眺めるのもだいぶ飽きたので、地元に観劇ファンが増えたらいいんじゃないの?と短絡的に考えています。そのためにこの劇評と言うジャンルは役に立つのではないかと。劇評の裾野が広がれば劇評そのものに力が付くかもしれません。裾野があれば頂点がある。そのうち影響力のある劇評家が地元にバンバン生まれるかもしれません。そうしたら、あんな煌びやかな舞台やこんなマニアックな舞台が金沢で公演されるかもしれません。書いているうちにどんどん現実味がなくなってきましたが、とりあえず劇評の裾野を目指して行こうかしらと思っています。いきなり徳永京子レベルの文章を狙わなくてもいいんです。私が言っても説得力ないけど。
藤原さんには「石川県内の観劇人口を増やしたいんです」なんて大見得切ったけど講座が終わると(締め切りがないと)文章って書けないですね。それでも何か書けるといいなと思っています。
この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。

 

 生身の人間が生身の観客に直に語りかけ、ふと立ち止まらせ、再考させる。劇団ドリームチョップ第17公演『底のない柄杓』(作・演出 井口時次郎)は、そんな演劇ならではの力を、信じさせてくれる作品であった。

 20世紀初期のロシアの文豪ゴーリキーの「どん底」を下敷きに描かれた今回の作品の舞台は、21世紀の日本。身寄りがない、お金がない、困っている女性たちが共同で生活する施設のなかで物語は展開していく。そこには嘘や差別、経済的搾取が横行する、まさに救いようのない「どん底」といえる場所だった。
 重苦しい音楽が流れ、汚れのない白を基調とした舞台装置は、少し緊張した空気が漂う。まるで、金沢市民芸術村ドラマ工房は、病院のような葬式場のような、「居心地の悪い」雰囲気を醸しだしていた。舞台の真ん中にテーブルが1つと椅子が4つ置かれている。照明が落ち音楽が止み、暗闇からは「ケホン、ケホン」という女性の咳が聞こえ、舞台の幕が開けた。

 テーブルを挟んで老婆の奥平佳乃(奥正子)と真面目そうな若い女・新垣美知(邑本なおみ)が何やら言い争いをしている。9人の登場人物は1人を除いて全員女。金も、身よりも、行き場もない者が共同で生活する施設で、女たちは好色で暴力的な所長(長山裕紀)に金や体を搾取されている。ある日、山田花子と名乗る老婆(厚沢トモ子)が所長の娘・宮原咲空(竹松舞音)の慈悲により、施設に居着く。首に底のない柄杓をぶらさげた花子は絶望的な状況にいる入所者たちを前向きにさせ、すさんだ施設の雰囲気も少し明るくなる。中でも、以前は女優だったという都(みやこ、横川正枝)は花子の言葉に勇気づけられ、施設の外の世界へと踏み出す。しかし、病弱な若い女・真島結愛(古林珠実)が医者にも行けずに死に、花子によって光がさしかかったかのようにみえた施設に再び影が落ちはじめる。所長とその愛人・綾部裕美(新宅安紀子)の痴情がもつれ、以前より所長にそそかされていた無国籍の若い女「ゴン子」(中山杏香)が、裕美を刺し殺す事件が起きた。その混乱の中、ゴン子そして花子が姿を消す。そして、生きる希望を失った都は自身で折った底のない柄杓で喉を突き、自ら命を落とす。

 よく小説などで「行間を読む」と表現するが、演劇でも会話の間にしばし沈黙が流れる。この静寂な一瞬に、時には咳もしていけないような「居心地の悪さ」を感じることもあるが、本作では舞台と観客が一体となりつくりだすそのような居心地の悪い緊張感が最後まで続いた。『底のない柄杓』は、どん底のままで終わる。終わってみれば、1人を除きどん底生活から抜け出すことに成功した人物はいない。好むと好まざるとにかかわらず登場人物はみんなどん底生活をそのまま続ける。そう、誰も“すくわれない”話である。しかし、ラストで、都が自ら折った「底のない柄杓」で喉を突き、命をたった場面は、「どん底」から抜け出したかのようにみえ、私もようやく息をつくことができた。最後に安易な希望を抱かせない演出はみるものに良い意味での“ショック”を与えたと思う。

 高齢化社会や無縁社会、移民や社会的監視や弾圧の問題が急速に深刻化した現代社会において、作品で描かれていることは決して他人事とは思えない。これまで目を背けたてきたものを突きつけられる
普段の自分の身の回りにはない問題ではなく、それはちょっと隣をみると潜んでいる。目を背けてしまうであった。今を生きる人間が、同時代の観客へ問いかけてみせる「ちょっと先のあり得るかもしれない日本」は、ニュースやメディアを通してみるよりもリアルに問題を提起し、演劇が持つ社会的意味や役割をより考えさせるものであった。

 最後に蛇足ではあるが作品の中で安易な希望が描かれなかったのはなぜだろうか。日本では「夢は叶うよ」「自分を信じて」を連呼するのが「メッセージ・ソング」だとされているが、本当に大変な時に「アカルイミライ」を信じるのがどれだけ大変なことかは、一度落ちたことのある人間にしか分からないはずだ。そして、確かにそういうセリフも作品には含まれているのだが、特に終盤で繰り返されるのが「人間は、よりよい人間のために生きる」というメッセージである。これは、“人は自分のためではなく、自分の周囲や子孫の中からいつか生まれるであろう、自分を超えた素晴らしい人のために生きるのだ”、ということを意味しているのではないだろうか。このメッセージの重さは自分自身に現世的な分かりやすい希望を最早求めないことが前提となっている。冷徹なリアリズムがあるから、希望を語るメッセージは深みを持つのである。
この文章は、2017年11月2日(木)20:00開演の表現集団tone!tone!tone!『ダブリンの鐘つきカビ人間』についての劇評です。



 ある種の真理を感じる作劇力の見事さ。セリフはもちろんのこと、登場人物の性格やひとつひとつの仕草にいたるまで、物語全体と有機的に作用し合い、観客を物語に取り込み、包み込んでいくような構造の精緻さがこの演劇にはあったと言い換えてもいいかもしれない。
 「表現集団tone!tone!tine!」が演じた舞台は、名作の『ダブリンの鐘つきカビ人間』を、童話のようなファンタジックで無邪気な外見を持ちながらも、物語に緻密かつ壮大な仕組みを与え、人間存在への根本的な問いを投げかけているように私は感じた。

 物語の場面はアイルランドを思わせる森の中からはじまる。突然の霧に行く手を阻まれた若いカップル(聡=四方直樹、真奈美=増田美穂)は、近くの大きな館に住むご主人の好意で、霧が晴れるまでの間、くつろいでいた。主人(宮下将稔)が「かつてこのあたりには街があり、自分はそこの市長だった」と明かしたため、2人はこの元市長の不思議な昔話を聞くことになる。市長が言うには、かつて街には奇妙な病気が蔓延し、村人は、原因も意味も不明な病気にかかっていた。しかし、背中に天使の羽根が生えた男(越場由貴)、止まり木のように指に鳥が止まる男(中澤直也)、背中から柿の木生えている柿男(山中良一)、膝が痛いと言い張る女(舘智恵)など皆、困っているようにもみえるが、どこかそれを楽しんでいるようにもみえる。しかも、この街の国を治めている王(坂本好信)さえも病気になってしまった。市長(宮下将稔)と侍従長(畠中隆之)は、街を救うため、奇跡を起こすボーグマホーンという宝剣を手に入れるべく、おそろしい森に行く勇気のある者を広く募った。多くの市民が尻込みする中、手を挙げたのは、なんと未来で元市長の昔話を聞いているはずの真奈美だった。真奈美は、聡とともに、颯爽と森へと出掛ける。
 真奈美と聡の物語と並行して、もうひとつの物語も進んでいく。この物語を動かすのは、身体にカビが生えてくる病気にかかったカビ人間(江崎祐介)と、自分の意思とは反対のことを口走ってしまう病気にかかったおさえ(宮崎裕香)の運命的な出会いだ。このふたつの物語が並行し、混ざり合いながら進行し、最後にはあるひとつの頂点に向かう。
 街の人たちと同じように、カビ人間とおさえも病気にかかり、因果応報な症状が出る。カビ人間は、外見は美しいが内面はかなりの性悪人間だったにもかかわらず、まったくの正反対——外見はカビだらけで醜いが内面は誰よりも心優しい——になってしまった。それは何かの罰のようでもあり、物語の悲しい結末を象徴しているようでもあった。カビ人間は、毎日の時を告げる鐘つきという仕事を担っており、それをもっとも誇りとしていた。しかし、醜い外見ゆえに街の人から疎まれ、最後には冤罪の罠にはめられ、殺されてしまう。その引き金となったのは、おさえだった。おさえは、思ったことの反対の意味のことを口に出してしまう病気にかかっているがゆえに、殺さないで願う心からの必死の訴えが、カビ人間の命を奪う言葉となってしまう。おさえは、カビ人間の後を追うように最後に自らの命と引き換えにボーグマホーンの奇跡の力によって街の人々を病から救う。そのやり切れなさが、鐘の音が永遠に残響し続けるような果てしない悲しみとなって私の胸をえぐった。

 物語は、複数の時代や空間が入り混じりながら、ジェットコースターのように次の展開へ運ばれていく。にもかかわらず、物語の流れや語られるべき主題がすんなりと頭に入ってくるのは、この劇団の構成力の妙というほかない。
 俳優の宮崎と江崎は、作品の出来を大きく左右するおさえとカビ人間の役柄の本質を、頭で理解するよりも深く会得していたように思う。差別などとは無縁の、人をいたわる純粋な心を持つゆえに、大きな不幸を背負うおさえは、運命に必死に抵抗する。宮崎の熱演は、おさえのそんな芯の強さを見事に体現して見せた。クライマックスで、おさえは自分の意思とは逆の言葉が出て、事態がどんどん悪い方へと向かっていくことに心の中では泣いていたに違いない。その心は確実に身体を通って、舞台の上でかすかに光る涙として表現されていたように私には見えた。
 自分を嫌う村人に対して何の恩義もないはずなのに、鐘を鳴らすという仕事をまっとうしようとするカビ人間という役も、コミカルに演じすぎても、あまりいい人に演じ過ぎても、偽善的にも見えてしまいかねないから、難しい。しかし、江崎は、外見と内面が反転するカビ人間を自然体で、うまく演じきっていた。登場人物が持つ何か強い天命のようなものを、とても神々しく見せる演技だったと私は思う。
 その他の役についても言えることだが、今回の「表現集団劇団tone!tone!tone!」による舞台『ダブリンの鐘つきカビ人間』は、きちんと芝居の出来る役者たちによって丁寧に演じられたことで、物語の素晴らしさが改めて浮き彫りになり、感動の度合いが何倍にも増幅されていたと私は感じた。