(劇評)「演劇が物語を超えて、観客に問いかける時」 本多瑠美 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2017年11月2日(木)20:00開演の表現集団tone!tone!tone!『ダブリンの鐘つきカビ人間』についての劇評です。



 ある種の真理を感じる作劇力の見事さ。セリフはもちろんのこと、登場人物の性格やひとつひとつの仕草にいたるまで、物語全体と有機的に作用し合い、観客を物語に取り込み、包み込んでいくような構造の精緻さがこの演劇にはあったと言い換えてもいいかもしれない。
 「表現集団tone!tone!tine!」が演じた舞台は、名作の『ダブリンの鐘つきカビ人間』を、童話のようなファンタジックで無邪気な外見を持ちながらも、物語に緻密かつ壮大な仕組みを与え、人間存在への根本的な問いを投げかけているように私は感じた。

 物語の場面はアイルランドを思わせる森の中からはじまる。突然の霧に行く手を阻まれた若いカップル(聡=四方直樹、真奈美=増田美穂)は、近くの大きな館に住むご主人の好意で、霧が晴れるまでの間、くつろいでいた。主人(宮下将稔)が「かつてこのあたりには街があり、自分はそこの市長だった」と明かしたため、2人はこの元市長の不思議な昔話を聞くことになる。市長が言うには、かつて街には奇妙な病気が蔓延し、村人は、原因も意味も不明な病気にかかっていた。しかし、背中に天使の羽根が生えた男(越場由貴)、止まり木のように指に鳥が止まる男(中澤直也)、背中から柿の木生えている柿男(山中良一)、膝が痛いと言い張る女(舘智恵)など皆、困っているようにもみえるが、どこかそれを楽しんでいるようにもみえる。しかも、この街の国を治めている王(坂本好信)さえも病気になってしまった。市長(宮下将稔)と侍従長(畠中隆之)は、街を救うため、奇跡を起こすボーグマホーンという宝剣を手に入れるべく、おそろしい森に行く勇気のある者を広く募った。多くの市民が尻込みする中、手を挙げたのは、なんと未来で元市長の昔話を聞いているはずの真奈美だった。真奈美は、聡とともに、颯爽と森へと出掛ける。
 真奈美と聡の物語と並行して、もうひとつの物語も進んでいく。この物語を動かすのは、身体にカビが生えてくる病気にかかったカビ人間(江崎祐介)と、自分の意思とは反対のことを口走ってしまう病気にかかったおさえ(宮崎裕香)の運命的な出会いだ。このふたつの物語が並行し、混ざり合いながら進行し、最後にはあるひとつの頂点に向かう。
 街の人たちと同じように、カビ人間とおさえも病気にかかり、因果応報な症状が出る。カビ人間は、外見は美しいが内面はかなりの性悪人間だったにもかかわらず、まったくの正反対——外見はカビだらけで醜いが内面は誰よりも心優しい——になってしまった。それは何かの罰のようでもあり、物語の悲しい結末を象徴しているようでもあった。カビ人間は、毎日の時を告げる鐘つきという仕事を担っており、それをもっとも誇りとしていた。しかし、醜い外見ゆえに街の人から疎まれ、最後には冤罪の罠にはめられ、殺されてしまう。その引き金となったのは、おさえだった。おさえは、思ったことの反対の意味のことを口に出してしまう病気にかかっているがゆえに、殺さないで願う心からの必死の訴えが、カビ人間の命を奪う言葉となってしまう。おさえは、カビ人間の後を追うように最後に自らの命と引き換えにボーグマホーンの奇跡の力によって街の人々を病から救う。そのやり切れなさが、鐘の音が永遠に残響し続けるような果てしない悲しみとなって私の胸をえぐった。

 物語は、複数の時代や空間が入り混じりながら、ジェットコースターのように次の展開へ運ばれていく。にもかかわらず、物語の流れや語られるべき主題がすんなりと頭に入ってくるのは、この劇団の構成力の妙というほかない。
 俳優の宮崎と江崎は、作品の出来を大きく左右するおさえとカビ人間の役柄の本質を、頭で理解するよりも深く会得していたように思う。差別などとは無縁の、人をいたわる純粋な心を持つゆえに、大きな不幸を背負うおさえは、運命に必死に抵抗する。宮崎の熱演は、おさえのそんな芯の強さを見事に体現して見せた。クライマックスで、おさえは自分の意思とは逆の言葉が出て、事態がどんどん悪い方へと向かっていくことに心の中では泣いていたに違いない。その心は確実に身体を通って、舞台の上でかすかに光る涙として表現されていたように私には見えた。
 自分を嫌う村人に対して何の恩義もないはずなのに、鐘を鳴らすという仕事をまっとうしようとするカビ人間という役も、コミカルに演じすぎても、あまりいい人に演じ過ぎても、偽善的にも見えてしまいかねないから、難しい。しかし、江崎は、外見と内面が反転するカビ人間を自然体で、うまく演じきっていた。登場人物が持つ何か強い天命のようなものを、とても神々しく見せる演技だったと私は思う。
 その他の役についても言えることだが、今回の「表現集団劇団tone!tone!tone!」による舞台『ダブリンの鐘つきカビ人間』は、きちんと芝居の出来る役者たちによって丁寧に演じられたことで、物語の素晴らしさが改めて浮き彫りになり、感動の度合いが何倍にも増幅されていたと私は感じた。