今年も「かなざわリージョナルシアター『げきみる』」が開催され、それにともない劇評講座も開講されることになりました。
今年は講師に山﨑健太さん、徳永京子さんをお迎えし、前期9名後期6名の受講生が劇評に臨みます。
自分が観た芝居をほかの人はどう観たのか。
また自分が観ていない芝居を、書かれた劇評を読むことで想像してみるのも楽しいと思います。
それでは、いざ劇評の世界へ!
「観劇って縛りがある。チケットにお金を支払って、決められた時間に決められた会場に足を運んで、長時間同じ空間でじっとして、その間は携帯電話も触れないし、外の世界と遮断される。だけど、そうだからこそ、観劇することで人は何かを考えることができる。」
そう言い切った講師の徳永京子氏の言葉に、私は全身の血流がどくどくと音を立てて流れていくのを感じた。それは、長年私の心の中にあったモヤモヤ、「(演劇を含めた)芸術文化とは何だろう?」という疑問に対して、「私はこう思うの~!」と徳永氏からの勢いの良い投球とも言え、私はその投球をガシッとキャッチャーミットで受け止めた気がした。だから、私は迷わず劇評講座に参加を決めた。(これは劇評講座前にあったプレレクチャーでのことだった。)
そもそも。約3年前まで、私は都内にある劇団事務所で事務職員として働いていた。そして、石川県にUターンし、今は派遣社員として働いている。
石川県に戻ってきてから1年ぐらいは石川県内の劇団を知りたくて、予定が合うときは金沢市民芸術村で観劇していた。だがその結果、ちょっとした限界を感じてしまい、観劇することがなくなってしまった。私は、いつの間にか演劇から遠ざかっていた。
それでも「何か演劇で関われることはないだろうか……」と、インターネットの中をうろうろしていたところ、リージョナルシアターの『劇評講座』を発見した。そして、そのプレイベントで徳永氏のキラーフレーズを聞いたのだった。
この講座では、5つの演劇作品を観劇した。(1つは残念ながら観劇できなかったのだ。)そして、劇評講座を通して気づいたのは、5つの作品から自分を知ることができたことだ。作品を通して何に反応し、何を感じたのか。そして、何を考えたのか。
ただ、それだけだと、その感情や思考はモヤモヤとしたまま流れて終わってしまう。だが、今回のように“劇評”として書くことによって、自分の言葉にすることによって、心の“フック”をなかったことにせず、形にすることができた。
この“フック”というのは、もう一人の講師の藤原ちから氏の言葉である。私の中では、“心にひっかかったもの”として解釈している。
この“フック”をもとに、私は5作品の劇評を書いた。それは簡単なことではなかったが、フックから紐づくものを発見したり、組み立てたり、完成させたりするのは楽しかった。
そう、劇評講座は本当に楽しかった。楽しめたのは、きっと徳永氏と藤原氏のおかげだと思う。この講座に参加しなければ出会えなかったお二方。毎度、「本当に?気持ちに嘘ついてない?」と生徒たちに問いただす徳永氏と、赤ペン先生のように生徒たちの劇評を添削する藤原氏を見るのが面白くて、その為だけに参加してたと言っても過言ではなかった。お二方の視点には、心動かされることが多かった。
だから、はっきりと言える。「参加を迷ってしなかった方、大損しましたよ!」
勿論、他の生徒たちと出会えたことも大きかった。互いの意見を知り、交わせることは本当に楽しかったし、何より観劇仲間が出来たのは嬉しかった。
そして、ここからである。徳永イズムと藤原イズムを体験した私たち。観劇仲間で終わったら勿体ないと思うのだ。互いのペースで劇評を書き続けてほしいし、他の仲間の劇評をこれからも読んでみたい。そして、これが石川県の演劇への熱い投球になれば最高だと思うのだ。徳永氏と藤原氏のレクチャーを受け、次は私たちが劇評のマウンドに立ってみるのだ。
最後に。劇評をすることになった“かなざわリージョナルシアター”だが、一定の審査を設けることを求めたい。それは作品レベルの審査である。
金沢市の補助金もあって、通常よりも安価で観劇でき、それが金沢市を含めて石川県内の観劇人口の増加に繋げる目的もあるはずである。だが残念なことに、観劇したことによって観劇人口が減少するではないかと思う作品があった。これでは本末転倒ではないか。
つまりは「私たちは面白い作品が観たい」ということだ。
そう言い切った講師の徳永京子氏の言葉に、私は全身の血流がどくどくと音を立てて流れていくのを感じた。それは、長年私の心の中にあったモヤモヤ、「(演劇を含めた)芸術文化とは何だろう?」という疑問に対して、「私はこう思うの~!」と徳永氏からの勢いの良い投球とも言え、私はその投球をガシッとキャッチャーミットで受け止めた気がした。だから、私は迷わず劇評講座に参加を決めた。(これは劇評講座前にあったプレレクチャーでのことだった。)
そもそも。約3年前まで、私は都内にある劇団事務所で事務職員として働いていた。そして、石川県にUターンし、今は派遣社員として働いている。
石川県に戻ってきてから1年ぐらいは石川県内の劇団を知りたくて、予定が合うときは金沢市民芸術村で観劇していた。だがその結果、ちょっとした限界を感じてしまい、観劇することがなくなってしまった。私は、いつの間にか演劇から遠ざかっていた。
それでも「何か演劇で関われることはないだろうか……」と、インターネットの中をうろうろしていたところ、リージョナルシアターの『劇評講座』を発見した。そして、そのプレイベントで徳永氏のキラーフレーズを聞いたのだった。
この講座では、5つの演劇作品を観劇した。(1つは残念ながら観劇できなかったのだ。)そして、劇評講座を通して気づいたのは、5つの作品から自分を知ることができたことだ。作品を通して何に反応し、何を感じたのか。そして、何を考えたのか。
ただ、それだけだと、その感情や思考はモヤモヤとしたまま流れて終わってしまう。だが、今回のように“劇評”として書くことによって、自分の言葉にすることによって、心の“フック”をなかったことにせず、形にすることができた。
この“フック”というのは、もう一人の講師の藤原ちから氏の言葉である。私の中では、“心にひっかかったもの”として解釈している。
この“フック”をもとに、私は5作品の劇評を書いた。それは簡単なことではなかったが、フックから紐づくものを発見したり、組み立てたり、完成させたりするのは楽しかった。
そう、劇評講座は本当に楽しかった。楽しめたのは、きっと徳永氏と藤原氏のおかげだと思う。この講座に参加しなければ出会えなかったお二方。毎度、「本当に?気持ちに嘘ついてない?」と生徒たちに問いただす徳永氏と、赤ペン先生のように生徒たちの劇評を添削する藤原氏を見るのが面白くて、その為だけに参加してたと言っても過言ではなかった。お二方の視点には、心動かされることが多かった。
だから、はっきりと言える。「参加を迷ってしなかった方、大損しましたよ!」
勿論、他の生徒たちと出会えたことも大きかった。互いの意見を知り、交わせることは本当に楽しかったし、何より観劇仲間が出来たのは嬉しかった。
そして、ここからである。徳永イズムと藤原イズムを体験した私たち。観劇仲間で終わったら勿体ないと思うのだ。互いのペースで劇評を書き続けてほしいし、他の仲間の劇評をこれからも読んでみたい。そして、これが石川県の演劇への熱い投球になれば最高だと思うのだ。徳永氏と藤原氏のレクチャーを受け、次は私たちが劇評のマウンドに立ってみるのだ。
最後に。劇評をすることになった“かなざわリージョナルシアター”だが、一定の審査を設けることを求めたい。それは作品レベルの審査である。
金沢市の補助金もあって、通常よりも安価で観劇でき、それが金沢市を含めて石川県内の観劇人口の増加に繋げる目的もあるはずである。だが残念なことに、観劇したことによって観劇人口が減少するではないかと思う作品があった。これでは本末転倒ではないか。
つまりは「私たちは面白い作品が観たい」ということだ。
この文章は、2017年12月9日(土)20:00開演の劇団羅針盤『聖夜に2度目の鉄槌を』についての劇評です。
“かなざわリージョナルシアター2017”全6作品の最後を飾ったのは“劇団羅針盤”の『聖夜に2度目の鉄槌を』だった。この作品には、リージョナルシアター参加団体であった“劇団不完全燃焼”と“空転幾何区”の作品にも出演していた役者も出ており、劇団不完全燃焼と空転幾何区の作品を観劇したお客さんにとっては、ちょっとしたオールスター公演を観た気分になったのではないだろうか。
実際に劇団不完全燃焼と空転幾何区の2劇団は、劇団羅針盤に携わっている役者がそれぞれ旗揚げした劇団のようで、結果的に今回のリージョナルシアターは、この3劇団が同じ流派としての連立与党となった。つまり、6分の3の議席を占めた羅針盤派は、今年のリージョナルシアターのイメージをつくったとも言える。果たして、観客として参加した有権者たちはどのぐらいの支持率だったのだろう。私はもとより支持劇団こそなかったが、羅針盤派の作品に今後の金沢の演劇界を託す一票を投じれるだろうか。
私の頭の中ではグルグルと、このことばが回っている。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
これは劇作家としても有名な井上ひさし氏のことばである。没後もなお多くのファンに愛されている井上氏のことばは、なぞなぞ言葉のようだが、深いメッセージが込められているのではないだろうか。
『聖夜に2度目の鉄槌を』は、サンタクロースの捜索、その存在の確保を巡り、主に3人の男女による格闘、銃撃戦、殺陣が目まぐるしく繰り広げられ、終始テンポの速いセリフ回しが使われていた。3人の役者たちは活舌もいいし、セリフも聞き取れる。テンポの速さで疾走感と迫力はあったが、膨大なセリフの波に頭が追い付かず、その上、次々と入れ替わるそれぞれの設定と展開がわからない。追い付かせてくれる気配はない。ましてや、伝えたいことがわかるはずがなかった。そこに「やさしく」や「ふかく」がなかった。「せめても……」と思って、入場時に配られたパンフレットを読んでみたが、そこに補足的な要素は載っておらず、パンフレットは役者のプライベート情報が掲載されていたファンクラブ冊子であった。
ちなみに、役者たちは劇団羅針盤の活動以外では、金沢の名所である兼六園の、その近くにある“金澤侍館”で行われているショーに出演しているという。ショー事体は観たことはないが、金沢に来た観光客をもてなす侍ショーだという。その為か、役者からはサービスという面での“おもてなしの心”は感じれた。それは開演前に、衣装を纏った役者たちが入場口にいたり、会場整理をしていたことであり、井上氏の唱える「やさしく」とは違うだろうが。
では、「やさしく」とは何だろうか。私が思うに、まずは客の視点に立ってみることではないだろうか。(この場合の客とは、今回リージョナルシアターに参加している意味も含めて、劇団羅針盤のファンではなく一般客のことだ。)自分たちのやりたいこと、伝えたいことがあったとして、それが「むずかしいこと」だとする。それを芝居に置き換えたとき、客が混乱しないだろうか、内輪だけに通じる暗号、自己満足になっていないだろうか……など考えを巡らせて、できるだけそのようにならないことではないだろうか。
前々から井上氏のことばの冒頭がなぜ「むずかしいことをやさしく」なのか気になっていた。そして、今回の劇団羅針盤の作品でわかったのは、「むずかしいこと」が「やさしく」なければ、その「やさしく」の先の「ふかく」に行くことができないということだ。たとえ、「おもしろいことをまじめに」やっていたとしても、「ゆかいなことをあくまでゆかいに」にしていても、こちらまで「むずかしいこと」が伝わらないということだった。
“かなざわリージョナルシアター2017”全6作品の最後を飾ったのは“劇団羅針盤”の『聖夜に2度目の鉄槌を』だった。この作品には、リージョナルシアター参加団体であった“劇団不完全燃焼”と“空転幾何区”の作品にも出演していた役者も出ており、劇団不完全燃焼と空転幾何区の作品を観劇したお客さんにとっては、ちょっとしたオールスター公演を観た気分になったのではないだろうか。
実際に劇団不完全燃焼と空転幾何区の2劇団は、劇団羅針盤に携わっている役者がそれぞれ旗揚げした劇団のようで、結果的に今回のリージョナルシアターは、この3劇団が同じ流派としての連立与党となった。つまり、6分の3の議席を占めた羅針盤派は、今年のリージョナルシアターのイメージをつくったとも言える。果たして、観客として参加した有権者たちはどのぐらいの支持率だったのだろう。私はもとより支持劇団こそなかったが、羅針盤派の作品に今後の金沢の演劇界を託す一票を投じれるだろうか。
私の頭の中ではグルグルと、このことばが回っている。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」
これは劇作家としても有名な井上ひさし氏のことばである。没後もなお多くのファンに愛されている井上氏のことばは、なぞなぞ言葉のようだが、深いメッセージが込められているのではないだろうか。
『聖夜に2度目の鉄槌を』は、サンタクロースの捜索、その存在の確保を巡り、主に3人の男女による格闘、銃撃戦、殺陣が目まぐるしく繰り広げられ、終始テンポの速いセリフ回しが使われていた。3人の役者たちは活舌もいいし、セリフも聞き取れる。テンポの速さで疾走感と迫力はあったが、膨大なセリフの波に頭が追い付かず、その上、次々と入れ替わるそれぞれの設定と展開がわからない。追い付かせてくれる気配はない。ましてや、伝えたいことがわかるはずがなかった。そこに「やさしく」や「ふかく」がなかった。「せめても……」と思って、入場時に配られたパンフレットを読んでみたが、そこに補足的な要素は載っておらず、パンフレットは役者のプライベート情報が掲載されていたファンクラブ冊子であった。
ちなみに、役者たちは劇団羅針盤の活動以外では、金沢の名所である兼六園の、その近くにある“金澤侍館”で行われているショーに出演しているという。ショー事体は観たことはないが、金沢に来た観光客をもてなす侍ショーだという。その為か、役者からはサービスという面での“おもてなしの心”は感じれた。それは開演前に、衣装を纏った役者たちが入場口にいたり、会場整理をしていたことであり、井上氏の唱える「やさしく」とは違うだろうが。
では、「やさしく」とは何だろうか。私が思うに、まずは客の視点に立ってみることではないだろうか。(この場合の客とは、今回リージョナルシアターに参加している意味も含めて、劇団羅針盤のファンではなく一般客のことだ。)自分たちのやりたいこと、伝えたいことがあったとして、それが「むずかしいこと」だとする。それを芝居に置き換えたとき、客が混乱しないだろうか、内輪だけに通じる暗号、自己満足になっていないだろうか……など考えを巡らせて、できるだけそのようにならないことではないだろうか。
前々から井上氏のことばの冒頭がなぜ「むずかしいことをやさしく」なのか気になっていた。そして、今回の劇団羅針盤の作品でわかったのは、「むずかしいこと」が「やさしく」なければ、その「やさしく」の先の「ふかく」に行くことができないということだ。たとえ、「おもしろいことをまじめに」やっていたとしても、「ゆかいなことをあくまでゆかいに」にしていても、こちらまで「むずかしいこと」が伝わらないということだった。
この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。
一度だけ入院したことがある。大部屋の窓際が私のベッドで、その向かいは小柄のおばあちゃん“愛子さん”のベッドだった。愛子さんは内科系の病気を患っていたが、いつも少女のように可愛らしく微笑んでいた。
劇団ドリームチョップの『底のない柄杓』(かなざわリージョナルシアター2017~げきみる~参加作品)を観た。この作品も舞台は大部屋だった。そこは住処のない女性が集まる施設で、6人の女性たちが暮らしていた。
貧困、精神的疾患、無国籍……。女性たちはそれぞれ重い問題を抱えている上、施設長までも女性に暴力を振るうなど、救いのない日常が繰り広げられていた。そこに、施設長の娘が一人のおばあちゃんを保護し、施設に連れてくる。おばあちゃんはやさしい心を持った娘のおかげで施設で暮らすことになる。
おばあちゃんは暗い施設内に差し込んだ陽の光のように、入居女性たちが悩みを吐露すれば、寄り添って「こうだよ」「ああだよ」と励ます。希望が見えてきたかと思いきや、それを打ち砕くように次々と女性たちに悲惨な事件が起こり、最後にはおばあちゃんまでも行方不明になってしまう。まるで最初からその存在がなかったかのように。おばあちゃんは“山田花子”だと名乗っていたが、山田花子は実在しない人物であった。
冒頭に戻るが、愛子さんは後期高齢者だったものの、少女でもあった。愛子さんにとって“自分が少女であること”は真実だった。なぜなら、彼女は認知症も患っていた。
愛子さんは自分が後期高齢者であることだけでなく、病院にいる理由もわからないようだった。毎日、何故自分の家に帰れないのかと看護師に聞いていたし、食事をするのも薬を飲むのも言われるがままだった。当時の世間知らずの私から見れば、最初は哀そうに見えた。それでも毎日、愛子さんはにこにこと微笑んでいた。自分が誰であるか、どんな状況であるかがわからなくても、にこにこ笑っていた。見ていると可愛らしくて、こちらまで微笑んでしまった。私が退院する頃には、愛子さんはお日様のように見えた。
「“山田花子”というおばあちゃんは何者だったのだろう?」
そう考えて辿り着いた先は、愛子さんとの思い出だった。愛子さんのように、“山田花子”と名乗ったおばあちゃんも認知症で、自分の家も、自分が誰なのかさえも忘れてしまった末、施設に来たのではないか。だから、実在しない“山田花子”として振舞ったことも、おばあちゃんにとっては真実であったのだが、突然にまた施設での“山田花子”としての記憶を無くし、施設を出て行ったのではないか。
山田花子が何者だったのか、最後までわからずに作品は終わる。その後もどうなったのかは誰もわからない。だから、私の考察もあくまでも憶測でしかない。
だが、私は山田花子が可哀そうな高齢者には見えなかった。彼女はひょっとしたら、自分の理想である女性を演じていたのかもしれない。もしくは、自分が一番幸せだった時代の自分を演じていたのかもしれない。
一度だけ入院したことがある。大部屋の窓際が私のベッドで、その向かいは小柄のおばあちゃん“愛子さん”のベッドだった。愛子さんは内科系の病気を患っていたが、いつも少女のように可愛らしく微笑んでいた。
劇団ドリームチョップの『底のない柄杓』(かなざわリージョナルシアター2017~げきみる~参加作品)を観た。この作品も舞台は大部屋だった。そこは住処のない女性が集まる施設で、6人の女性たちが暮らしていた。
貧困、精神的疾患、無国籍……。女性たちはそれぞれ重い問題を抱えている上、施設長までも女性に暴力を振るうなど、救いのない日常が繰り広げられていた。そこに、施設長の娘が一人のおばあちゃんを保護し、施設に連れてくる。おばあちゃんはやさしい心を持った娘のおかげで施設で暮らすことになる。
おばあちゃんは暗い施設内に差し込んだ陽の光のように、入居女性たちが悩みを吐露すれば、寄り添って「こうだよ」「ああだよ」と励ます。希望が見えてきたかと思いきや、それを打ち砕くように次々と女性たちに悲惨な事件が起こり、最後にはおばあちゃんまでも行方不明になってしまう。まるで最初からその存在がなかったかのように。おばあちゃんは“山田花子”だと名乗っていたが、山田花子は実在しない人物であった。
冒頭に戻るが、愛子さんは後期高齢者だったものの、少女でもあった。愛子さんにとって“自分が少女であること”は真実だった。なぜなら、彼女は認知症も患っていた。
愛子さんは自分が後期高齢者であることだけでなく、病院にいる理由もわからないようだった。毎日、何故自分の家に帰れないのかと看護師に聞いていたし、食事をするのも薬を飲むのも言われるがままだった。当時の世間知らずの私から見れば、最初は哀そうに見えた。それでも毎日、愛子さんはにこにこと微笑んでいた。自分が誰であるか、どんな状況であるかがわからなくても、にこにこ笑っていた。見ていると可愛らしくて、こちらまで微笑んでしまった。私が退院する頃には、愛子さんはお日様のように見えた。
「“山田花子”というおばあちゃんは何者だったのだろう?」
そう考えて辿り着いた先は、愛子さんとの思い出だった。愛子さんのように、“山田花子”と名乗ったおばあちゃんも認知症で、自分の家も、自分が誰なのかさえも忘れてしまった末、施設に来たのではないか。だから、実在しない“山田花子”として振舞ったことも、おばあちゃんにとっては真実であったのだが、突然にまた施設での“山田花子”としての記憶を無くし、施設を出て行ったのではないか。
山田花子が何者だったのか、最後までわからずに作品は終わる。その後もどうなったのかは誰もわからない。だから、私の考察もあくまでも憶測でしかない。
だが、私は山田花子が可哀そうな高齢者には見えなかった。彼女はひょっとしたら、自分の理想である女性を演じていたのかもしれない。もしくは、自分が一番幸せだった時代の自分を演じていたのかもしれない。
この文章は、2017年11月4日(土)19:00開演の表現集団tone!tone!tone!『ダブリンの鐘つきカビ人間』についての劇評です。
目玉が飛び出た男。背中に羽が生えた男。背中に柿の木が生えた男…。この“あべこべな人間”たちは、表現集団tone!tone!tone!が上演したダークファンタジー『ダブリンの鐘つきカビ人間』に出てくる、中世ヨーロッパのような町に住む住人たちである。ただ、住人たちはもとよりそのような姿だった訳でなく、町に流行した“疫病”によってそれぞれがそのような姿になったのだった。
そして、主人公の“カビ人間”もまた同じく、疫病によって体中、顔や指の先までもカビだらけの人間だ。そんな容姿のため、カビ人間は町中の住人たちから毛嫌いされる。だが、カビ人間はその見た目とは正反対に、心は誰よりも美しいのであった。住人達から嫌われてもなお、カビ人間は“お昼(正午)10分前を知らせる鐘を鳴らす仕事”を誇りに、毎日を明るく生きていたのだった。
果たして、私が疫病を患ったらどうなるだろうか。
カビ人間は住人たちから嫌われ、他人の罪を被ってボコボコに殴られ、最後には町の重役たちに仕組まれて放火犯にされ、銃殺される。散々である。それでも自分の身に降りかかった全てをカビ人間は受け入れていた。
対照的に、住人たちは自分の疫病を憐れんでいる。町の重役たちも自分の利欲のためなら手を汚すことを厭わない。自分を疫病から守るためならカビ人間を放火犯に仕立てることも当たり前で、住人たちがカビ人間に刃を剥けるように仕向ける。
誰しも悪い人間にはなりたくない。ただ、肯定はしないが住人や重役たちが人間らしく思えたのは私以外にもいるのではないか。
私には疫病が、自分のコンプレックス、悩み、あるいは天災などの“自分を苦しめるネガティブなもの”に見えた。時には身を亡ぼす危険さえあるものを、受け入れることは簡単ではないだろう。あらゆる角度から向かい合い、考え、時には目を逸らし、逃げたり避けたり、何度も抵抗を繰り返すのではないか。
ただ、受け入れることによって、得るものもあるのだろう。これはセリフでさらっと流されたが、カビ人間は疫病にかかる前は見た目は絶世の美しい青年だったが、性悪だったという。それが疫病によって正反対の人間となってしまった訳だが、それによって純粋なカビ人間の心が、塞ぎがちだった町娘の心を動かし、愛を育んだのだから。
話は変わるが、作品の冒頭、階段を上った高いところにカビ人間が登場する。その顔の前には一本の縄が吊ってあり、その先が輪になっていた。私にはそれが首を吊るための縄に見えた。だが、それはカビ人間の誇りである“鐘を鳴らすための鐘紐”であった。私には“死に道具”に見えたものが、カビ人間には“生きる証”であった。そして、その鐘紐の下でカビ人間は死を迎える。
目玉が飛び出た男。背中に羽が生えた男。背中に柿の木が生えた男…。この“あべこべな人間”たちは、表現集団tone!tone!tone!が上演したダークファンタジー『ダブリンの鐘つきカビ人間』に出てくる、中世ヨーロッパのような町に住む住人たちである。ただ、住人たちはもとよりそのような姿だった訳でなく、町に流行した“疫病”によってそれぞれがそのような姿になったのだった。
そして、主人公の“カビ人間”もまた同じく、疫病によって体中、顔や指の先までもカビだらけの人間だ。そんな容姿のため、カビ人間は町中の住人たちから毛嫌いされる。だが、カビ人間はその見た目とは正反対に、心は誰よりも美しいのであった。住人達から嫌われてもなお、カビ人間は“お昼(正午)10分前を知らせる鐘を鳴らす仕事”を誇りに、毎日を明るく生きていたのだった。
果たして、私が疫病を患ったらどうなるだろうか。
カビ人間は住人たちから嫌われ、他人の罪を被ってボコボコに殴られ、最後には町の重役たちに仕組まれて放火犯にされ、銃殺される。散々である。それでも自分の身に降りかかった全てをカビ人間は受け入れていた。
対照的に、住人たちは自分の疫病を憐れんでいる。町の重役たちも自分の利欲のためなら手を汚すことを厭わない。自分を疫病から守るためならカビ人間を放火犯に仕立てることも当たり前で、住人たちがカビ人間に刃を剥けるように仕向ける。
誰しも悪い人間にはなりたくない。ただ、肯定はしないが住人や重役たちが人間らしく思えたのは私以外にもいるのではないか。
私には疫病が、自分のコンプレックス、悩み、あるいは天災などの“自分を苦しめるネガティブなもの”に見えた。時には身を亡ぼす危険さえあるものを、受け入れることは簡単ではないだろう。あらゆる角度から向かい合い、考え、時には目を逸らし、逃げたり避けたり、何度も抵抗を繰り返すのではないか。
ただ、受け入れることによって、得るものもあるのだろう。これはセリフでさらっと流されたが、カビ人間は疫病にかかる前は見た目は絶世の美しい青年だったが、性悪だったという。それが疫病によって正反対の人間となってしまった訳だが、それによって純粋なカビ人間の心が、塞ぎがちだった町娘の心を動かし、愛を育んだのだから。
話は変わるが、作品の冒頭、階段を上った高いところにカビ人間が登場する。その顔の前には一本の縄が吊ってあり、その先が輪になっていた。私にはそれが首を吊るための縄に見えた。だが、それはカビ人間の誇りである“鐘を鳴らすための鐘紐”であった。私には“死に道具”に見えたものが、カビ人間には“生きる証”であった。そして、その鐘紐の下でカビ人間は死を迎える。