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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2018年10月20日(土)17:00開演のワンネス一座『私の名は「月の輪」』についての劇評です。


 「戯曲の通りにやると、彼らが制限されてるように見えた。それは彼らが生きにくいと感じている日常、制限のように感じた。だから、彼らが自由に自分自身を表現できるよう即興劇にした」……だったか。言い回しは違ったと思うが、上演後のアフタートークで演出の南光太朗(さざなみ企画)の発言を要約すれば、こういうニュアンスだった。
 “彼ら”とは、不登校・ひきこもりの若者支援をしている“ワンネススクール”の生徒やOB、スタッフらのことだ。この作品は彼らが出演者となり、川手鷹彦氏が書いた音楽劇『私の名は「月の輪」』が上演される予定だった。だが、上演前に南のその意向によって、戯曲から言葉を抜粋した即興劇に変更したという。
 どこからどこまでが即興だったかは定かではない。南曰く、出演者の台詞、出はけのタイミングは、出演者に任せたという。結果、和装姿や学生服姿の出演者たちが、ぽつりぽつりと、入れ替わり立ち替わりながら、それぞれの思いの丈を話す独白場となった。
 南は「彼ら……」からはじまる言葉を何度も発していた。だが、この公演が彼らのためであったならば、それは演劇や舞台ではなく、ワークショップや発表会でよかったのではないだろうか。観客は彼らのために用意されるものではなく、時間とお金を使い、観劇に来ている他人である。だから、自由に意見も言う。その観客を相手にしなければいけないことを忘れていたならば、内輪で見せるものでよかっただろう。
 そして、戯曲は本当に彼らを制限するものであっただろうか。稽古中はわからなくても、上演中や上演後、またはその何年後かに、その台詞にハッとしたり、作者の意図がスッと腑に落ちる可能性もある。だから、「戯曲が彼らを制限している」という考え自体も、視点や思考の制限ではないだろうか。
この文章は、2018年10月28日(日)16:00開演のPotluck Theater『MASK/炎症』についての劇評です。

 信仰に熱心過ぎる嫁を驚かそうと、老婆は仮面を付けた。しかし、その仮面が顔から取れなくなってしまう。だが、老婆が浄土真宗の教えに従うと、顔から仮面は外れた。という内容の民話が俳優によって紹介される。Potluck Theater(構成・演出:島貴之)による、2作品同時上演の1作目『MASK』は、越前の民話『肉付きの面』を元にした芝居だ。

 舞台下手奥には、段ボール箱が積まれピラミッド状になっている。背景はこの会場の設備そのままの木枠だ。木枠の下部には、細く「WHY」と「WHAT」の文字がある。上手には細い木が一本立ち、その奥には、キャスターのついた大きなラックがあり、DJの機材が積まれている。

 大きな水瓶を抱えた女性が登場する。着ているものはシンプルな薄茶色のワンピース(衣装:川口知美)。女性は懸命に喋るが、それはどこの言葉でもなく、何と言っているのかわからない。その後に登場する人物達も皆、わからない発語、ジブリッシュ(でたらめな言葉使い)をする。彼らは女性から何度も水瓶を取り上げたり返したりする。その後、彼らはガムテープで止めて箱を作ったり、大きなボールを転がしたりする。突然バースデーケーキが運ばれ、最初に登場した女性を祝ったりもする。機材を乗せたラックが動かされ、DJが音楽を鳴らし体をゆらす。彼らの行動の意味が取れない。言葉がわからないので、疑問は余計に膨らむ。なぜ、何が、行われているのか。民話からあらすじが取り去られ、形容し難い抽象的な場面が続いた。

 続いての『炎症』(脚本:加藤一郎(劇団aji))は、女性(木村日菜乃)による一人芝居だ。炎症という症状について彼女は語る。それから、自分がこれからインドへ旅立つということや、彼女の妹の話。彼女はその語りの中で何度も「わからない」と言った。彼女は舞台下手から、電飾の付いたロープを引っ張って、舞台上に光の線をつくる。そして最後に脚立を持ってくる。それを立てて上った彼女は、てっぺんで語りを終える。

 何を意味しているのかわからない『MASK』と、言葉はわかるが、話している本人がわからない『炎症』は、わからなさでつながっていた。
 アフタートークで演出の島が話した。金沢の俳優は答えを欲しがっている、と。俳優に限らず、自分の言動が正解かどうか、人はいつも不安だ。だからといって、正解だとすぐにわかるもの、わかりやすさは果たして、いつでも良いものなのだろうか。わからなさを前にした時に、しばし考える時間、これも必要なのではないか。
 わからない不安を、まだ正解にも間違いにもならない、言語化できていない気持ちを味わってみてはどうか。その言葉になる前の不定形に、自分で形を与えてみてはどうか。誰かから出来合いのわかりやすいものをもらうのではなく。そのような提案が、二つの作品なのだと感じた。
 この文章は2018年10月20日〔土〕17:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」についての劇評です。

 舞台が始まると可憐な少女の歌声。チラシに書かれていた「お母さま、よく見て、十字架は数えきれないほど立っているわ。遠くまで、数えきれないほど」の始まりかと見ていると、どうも様子がおかしい。慌ててチラシを読み返してみると「川手鷹彦氏の戯曲から言葉だけを抜粋し、あらたな作品を創造する」となっていた。
 そこで漸く、これは筋の無い芝居なんだと気が付いた。ストーリーを読み取ろうとしていた頭を切り替えねばと焦ったが、なかなかそういうモードに切り替わらない。
 更に、音楽セクションはギター、和太鼓にキーボードと生演奏をしているが、その音楽とセリフや動きが、必ずしもシンクロしていない。どうやら、事前の打ち合わせなしに、役者は演技を、ミュージシャンは音楽を演奏しているようだ。
 一度、こういうことが気になりだすとなかなか舞台に集中できない。その上、女性が演ずる太郎冠者まで登場し、それまでのティストとも違った世界が出現した時点で、この舞台とまともに向き合う気持ちが僕の中で萎えてしまった。そして、芝居は再び少女の可憐な歌声で終わりを迎えた。
 芝居が終わった後、演出家が舞台に登場し、今回は、舞台の出入り、セリフについては全て役者が即興的にやったことで、演出家としてなにもしてこなかったと告白した。
 彼はその告白の中で、このような形で上演したのは、この芝居の主要な役者が、フリースクールの生徒である。その彼らは、既成の学校教育で生徒に求められる役割から、ドロップアウトしてフリースクールにやってきた。その彼らに、演出家が役割を与え、芝居を演じさせるということに疑問を感じたためだと語った。
 この演出家の告白を前に僕は違和感を覚えた。それは上演した芝居を、すべて役者の即興に任せようとした彼の姿勢に対してだ。観客は、舞台に現れた役者の動きやセリフといったものが、演出家の意図や書かれたシナリオではなく、役者個人の思い付きやアイデアであったことを知らされ、その結果、役者の演技の評価は、すべて役者に帰せられることになった。これは少々アンフェアーなやり方ではないだろうか。
 そうであるなら、演出としてご自身の名前を書く必要があったのだろうか。チラシに演出として南光太朗と表記したのは、演出をしない演出家。それが新しい芝居の手法であるという演出家の自己主張のように僕には感じられ、そのための手段として今回の舞台で役者を使ったような後味の悪さを覚えたのだった。
 舞台に登場したほとんどの役者たちが、プロの役者ではない素人の役者としての初々しさを持って演じていただけに、この後味の悪さが僕にはとても気になった。さて、本当に演出をしない演出は可能なのだろうか?
この文章は、2018年10月20日(土)17:00開演のワンネス一座『私の名は「月の輪」』についての劇評です。

 ワンネス一座が上演する『わたしの名は「月の輪」』は、川手鷹彦による戯曲であり、“国定忠治に東北民話、不思議な音楽劇”との紹介文がチラシにあった。
 布が幾重にも巻かれてふわりとした、四角く大きめの白い台が中央にある。その上には小さなぼんぼりが灯る。舞台上手奥には太鼓やパーカッション、手前にはギター、下手にはキーボード、フルート、ギターが置かれ、演者が控える。着物を身につけた人々が登場してくる。お茶道具を持ってきてお茶を点てる人。スケッチブックに絵を描く人。奏でられる音楽。誰かが話し出す。これから民話の世界が始まるのだと思った。しかし、彼らが語ったのは、戯曲の言葉ではなく、彼ら自身の素の言葉だった。

 不登校、ひきこもりなどの若者支援を行うフリースクール、NPO法人ワンネススクールが、ワンネス一座の母体だ。ワンネス一座は、スクール生やOB、スタッフから構成されている。金沢の演劇人、音楽家、美大生達の協力を得て、今回の公演へと至った。 
 終演後、演出の南光太朗から説明があった。今回の上演は即興劇であったと。戯曲通りに練習を積んできたが、上演の2週間前に戯曲を手放した。これまで何らかの枠にはめられてきた彼らが、演じることで再び枠にはまっている。彼ら自身を表現し、自分の言葉で語ってほしい。そのような思いからの決断だった。
 
 2人の青年が話し合うシーンがあった。人の目を見ることが怖いという青年に、別の青年が語りかける。今できるのは前を向くことだと。青年は前を向く。そして、素晴らしい光景だと言った。そこにあったのは観客のまっすぐな瞳の群れである。怖いであろうそれを、素晴らしいと、彼が本心から思えて言えたのかはわからない。しかしそう言ってみせたことで、彼の恐怖はその色を変えたのではないだろうか。この上演が、演者達を救うものになったと願いたい。それも演劇の一つの効果だ。
この文章は、2018年10月20日(土)17:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」についての劇評です。

学生服の白いワイシャツを着た若者三人がやや離れて並び、明るく爽やかなテレビドラマのように「前を向け。素晴らしい景色が広がっているんだ」と一人が叫ぶ。だが、そう呼びかけられた若者はとりあえず振り返って前を向きはしたものの、終始うつむいたままで決して顔を上げようとしない。彼は他人の視線が怖くて怯えているのだ(!)。このシーンは、ありきたりな学園モノのパロディあるいはアンチテーゼとしても面白かったし、一味も二味も違う青春ドラマがここにはあると予感させられた。不登校やひきこもりなどの若者が通うフリースクール「NPO法人ワンネススクール」(森要作校長)の生徒や卒業生、スタッフ、支援者らを中心に結成されたワンネス一座の旗揚げ公演となる音楽劇「私の名は『月の輪』」(作:川手鷹彦、構成・演出:南光太朗、企画:奈良井伸子)は10月19~21日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演された。

舞台の中央にふわふわとした妖精の羽根のような半透明の薄布をふんだんに使った台(美術:劇団べれゑ)が置かれ、その上や周囲で作品は進行する。衣装は着物や学生服など、時代設定がバラバラ。全体として明確なストーリーも存在しない。さまざまな人物が入れ代わり登場し、意味がありそうでなさそうな言葉を喋っては去って行く。とりわけフリースクールという母集団の性格を反映してか、いじめやひきこもりによる心の傷に触れた言葉が多く、自らも股旅姿の国定忠治に扮して出演した森校長は、アスペルガー症候群や自閉症などに対する世の中の無理解を嘆いてみせた。また、途中でスクールOBの野村俊裕が見事な和太鼓のソロを披露するなど、観客を飽きさせない工夫も施されていた。

脚本にはゴルゴタの丘で磔にされたキリストや江戸後期の侠客・国定忠治などの伝承が織り込まれていたようだが、上演後に行われた南の説明によれば、当初は脚本の台詞通り忠実に稽古を積んでいた。しかし、舞台上で役者が嘘をついているように見えたことから、最終的に演出家の判断で本番の二週間前頃に脚本から離れ、役者は出たい時に登場して伝えたい内容を自分の言葉で喋る「即興」方式に切り替えたという。

演出家は、台詞を一生懸命に暗記してそのまま繰り返そうとする役者たちに何か物足りなさを感じたのかもしれない。演技経験の少ない俳優陣(小学生を含む)が戯曲の壮大な世界観を十分に理解して体現することには無理があると判断し、偶発的なハプニングに賭けたということのようだった。だが、演じずに人前で自分自身の素をさらせと要求するなんて、いささか過酷ではないだろうか。

とはいえ、南の指示で「即興」を演じた役者たちは、本当に舞台上で丸裸になって真実の自己をさらけ出していたか?私にはそうとも思えなかった。いじめや差別に苦しんだという告白には、迫害を受けたキリストを連想させるオリジナル脚本の雰囲気が残り、和服の衣装とも相まって、甘く陶酔させるような香りが漂っていた。いじめなどによる人権侵害を訴える役者たちの言葉も、比較的どこにでもありがちな紋切り型の表現にとどまり、個人的な体験に鋭くメスを入れる性質のものではなかった。役者たちは「真実らしい嘘」(=世間からこう見られているであろうイメージ)を口にすることで「本当の自分」を隠しおおせていた。

この作品は、ワンネススクールによる自己確認の意味合いも強かったのではないか。客席には関係者も多かったはずだ。劇中でスクールの職員役らしき女性がこの子たちはキラキラ輝いていると褒めた時、近くの客席に座っていた女性はハンカチを目に当てた。どんな苦労を思い出したのだろうか。この時点ですでに私はこの方の何分の一も作品に共感できるだろうかと不安になったのだが。しかし、母親役を演じていた市井早苗が娘である月の輪に対して「もう一度(あなたを妊娠している時から)やり直したい」と泣き崩れたり、「毎日が湿っぽい話ばかりでイヤ」などと必ずしも優等生的ではない本音をあっけらかんと言い放った時、さっき目頭を押さえた観客の女性は身体を起こして市井の姿を真っ直ぐに見つめていた。そんな客席の反応も含めて私には興味深かった。

最初に取り上げた若者たちのシーン。いくら前を向けと呼びかけられても、調子に乗ってカラ元気を振り絞って何もない虚空を輝く瞳で見上げたりせず、じっと地面を凝視し続けていた一人の青年の姿は、その頑固な肉体性によって忘れられない映像として私の脳裏に焼き付いた。例えば、チェーホフの名作「三人姉妹」のエンディングは三人が肩寄せ合い、前方を見つめて終わる演出が多い。不安を抱えながらも未来志向の気持ちを表現するためだと思う。そんな場合、役者がずっと下を向いていたら十中八九、ダメ出しを受けるだろう。だから、今回の若者たちのシーンは、役者に任せて放置した南演出でなければ舞台に乗らなかったはずだ。そして、表現として改めて考えてみると、現代社会の生きにくさとか未来への信頼感の欠如など、フリースクールという枠を超えて若者たちが直面している問題を暗示しているようにも見えて、意外と面白かったのである。