この文章は2018年10月28日(日)16時開演のpotlucktheater Maskについての劇評です。
演劇にしてみるとは??
舟木 香織
重そうな水差しを抱え、ゆっくりとすり足で登場する女性。鬼気迫る目つきその表情は、可哀想になるくらいに悲しみを帯びている。
インド音楽が鳴り響き、揃いの桜色の衣装を着た男女が登場する。彼らのまるで違うそのテンションに、戸惑う女性。親切にしてくれる男性に安堵し、少しだけ寄りかかるが、その男性には後ろから壷を盗られたりする。心を開けば裏切られる。そんなシーンが相次いで起こる。他に、男性がガスマスクを付け、DJブースで音楽を爆音で流すシーンや、空の段ボール箱を仲間からかぶせられた女性が、段ボール箱をはずし、叫びながら、舞台袖へと走り去るシーンが印象に残った。そして舞台後方の電光には「WHY」の文字が青く光り、演者らの台詞は終始、「ジブリッシュ言語」というでたらめ語で話されていた。
『Mask』は越前の民話『肉付きの面』を元に作られた舞台だそうだが、どの部分をモチーフにしていたのかまでは、つかみ取ることができなかった。
孤独感や疎外感が、女性の表情から、伝わってきて、その壷は、女性にしかわからぬ「孤独」「苦悩」「執着」そして「守りたい彼女自身の世界」の象徴のように思えた。「ジブリッシュ言語」と、「明確なストーリー」がない分、いかようにも解釈でき、前述した壺を抱えた女性が、いじめられているようにも思えるシーンでは、「WHY」の文字が彼女自身の叫びにも、弱いものは排除してしまおうとする人間の「業」に対する問いかけであるかのようにも思えた。
だがアフタートークの際に、演出家の島貴之さんの受け答えで疑問に思う箇所があった。観客から向けられた「一部日本語で話された台詞はどうゆう意図があるのか」との問いに、「昨日まではそうゆう演出にはしていなかったのだが、今回はそうしてみようと思っただけ。特別深い意味はない。」との受け答えだった。あまり納得がいっていない様子の観客に対し、「私が今日、日本語の台詞を選び、あなたがそれを好ましく思わなかった、それだけ」と言い放った。
それを聞いた私は、混乱してしまった。ガスマスクをつけた男性のDJのシーンや、急に発狂し舞台袖まで走り出す女性のシーンも、特に意味がないのだとしたら、そのシーンに、偶然に感動したという感情は、果たしてほんとうに本物だったといえるのだろうか。
この文章は、2018年10月21日(日)11:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」についての劇評です。
金沢市民芸術村を会場に、地元で活動する劇団を気軽に楽しんでもらおうという企画「かなざわリージョナルシアター げきみる」。トップバッターは、フリースクールの生徒・OBらによる「ワンネス一座」の音楽劇「私の名は『月の輪』」だった。
上演が始まってすぐに、評価の難しさに困ってしまった。まず筋と言える筋が見当たらない(チラシなどによると、劇作家・川手鷹彦の戯曲から言葉を抜粋し、新たに生み出したオリジナル脚本とある)。舞台の中央には、空気の詰まったポリ袋を重ねたような、キングサイズのベッドほどの白い台があり、その上部には桃色のぼんぼりが灯りを照らしている。演者は着物に裸足で(一部例外もいるが)、舞台上に現れては短い独白や歌を口にし、すぐ姿を消す。2人以上による短い会話の場合もある。その繰り返しで、場面ごとのつながりがさっぱりわからない。役名も一切出てこない。舞台上手側には和太鼓ドラマーとギタリストが、下手側にはキーボード・フルートなど多種の楽器をこなす奏者がいて、幻想的な音楽が途切れず続く。
疑問符だらけになりながらも、演者たちが皆「つらいつらい」「こんな世界は嫌だ」など、苦悩を抱えていることは分かった。いったい何が起きているのか。やっと答えが与えられたのは終演後だった。観客の前に現れた演出の南光太朗によると、全て「即興劇」だったというのだ。元は脚本があったが、フリースクールの生徒らが「表現手段である芝居によって逆に仮面をつけてしまう」のをやめるため、上演2週間前に変更したそうだ。稽古では自らの過去を振り返り、互いを理解することに時間を使ったという。それで衣装や雰囲気は元の東北民話っぽい感じを残しつつ、話す内容は現代的だったのかと納得がいった。
謎が解けたと同時に、別の疑問が浮かんできてしまった。本当に彼らは仮面を外していたのか。私は最後に種明かしされるまで、違和感はありつつも即興とは気づかなかった。ある程度「観客に見せる」ことを意識していたと思うし、そもそも誰しも日常で「素の顔」―例えば怒りや不安といったネガティブな感情を見せることは殆どないのではないか。観客を置き去りにしてまで、脚本を捨てる必要はあったのか。
演者たちが真摯に舞台に向き合おうとする姿勢は感じた。特に何人かの生徒の、自らの過去を言葉に詰まりながらも必死に絞り出そうとする姿は印象に残っている。彼らはこれが初めての外部公演だという。演劇という形をとるなら、観客に何かを伝えることを成長の糧とするならば、物語の方が説得力は増すはずだ。いろいろな背景を持つ彼らだからこそ経験した感情を、次は役を通して伝えてほしいと思う。
金沢市民芸術村を会場に、地元で活動する劇団を気軽に楽しんでもらおうという企画「かなざわリージョナルシアター げきみる」。トップバッターは、フリースクールの生徒・OBらによる「ワンネス一座」の音楽劇「私の名は『月の輪』」だった。
上演が始まってすぐに、評価の難しさに困ってしまった。まず筋と言える筋が見当たらない(チラシなどによると、劇作家・川手鷹彦の戯曲から言葉を抜粋し、新たに生み出したオリジナル脚本とある)。舞台の中央には、空気の詰まったポリ袋を重ねたような、キングサイズのベッドほどの白い台があり、その上部には桃色のぼんぼりが灯りを照らしている。演者は着物に裸足で(一部例外もいるが)、舞台上に現れては短い独白や歌を口にし、すぐ姿を消す。2人以上による短い会話の場合もある。その繰り返しで、場面ごとのつながりがさっぱりわからない。役名も一切出てこない。舞台上手側には和太鼓ドラマーとギタリストが、下手側にはキーボード・フルートなど多種の楽器をこなす奏者がいて、幻想的な音楽が途切れず続く。
疑問符だらけになりながらも、演者たちが皆「つらいつらい」「こんな世界は嫌だ」など、苦悩を抱えていることは分かった。いったい何が起きているのか。やっと答えが与えられたのは終演後だった。観客の前に現れた演出の南光太朗によると、全て「即興劇」だったというのだ。元は脚本があったが、フリースクールの生徒らが「表現手段である芝居によって逆に仮面をつけてしまう」のをやめるため、上演2週間前に変更したそうだ。稽古では自らの過去を振り返り、互いを理解することに時間を使ったという。それで衣装や雰囲気は元の東北民話っぽい感じを残しつつ、話す内容は現代的だったのかと納得がいった。
謎が解けたと同時に、別の疑問が浮かんできてしまった。本当に彼らは仮面を外していたのか。私は最後に種明かしされるまで、違和感はありつつも即興とは気づかなかった。ある程度「観客に見せる」ことを意識していたと思うし、そもそも誰しも日常で「素の顔」―例えば怒りや不安といったネガティブな感情を見せることは殆どないのではないか。観客を置き去りにしてまで、脚本を捨てる必要はあったのか。
演者たちが真摯に舞台に向き合おうとする姿勢は感じた。特に何人かの生徒の、自らの過去を言葉に詰まりながらも必死に絞り出そうとする姿は印象に残っている。彼らはこれが初めての外部公演だという。演劇という形をとるなら、観客に何かを伝えることを成長の糧とするならば、物語の方が説得力は増すはずだ。いろいろな背景を持つ彼らだからこそ経験した感情を、次は役を通して伝えてほしいと思う。
この文章は、2018年10月28日(日)16:00開演のPotluck Theater(ポットラックシアター)『MASK/炎症』についての劇評です。
人間は通常、目の前の現実に埋没しながら生きている。赤ちゃんは成長して大人になり、就職し、結婚し、子どもを作り、やがて老いて死んでいく。だが、ある時ふと、それだけでいいのかと内なる声が聞こえ、人生があまりに虚しすぎるように感じられて気が狂いそうになることもある。10月26〜28日に金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演されたPotluck Theater(ポットラックシアター)『MASK/炎症』(演出:島貴之、衣装:川口知美)を見て、普段は心の奥底に押し殺しているどうしようもない無常観を形にしてポンと突きつけられたような気がした。
二作品からなるオムニバスの一本目は『MASK』。室町時代後期、浄土真宗の蓮如上人による北陸布教の拠点となった越前国吉崎御坊(福井県あわら市)に残る『肉付きの面』の民話を集団創作で現代に蘇らせる試みだ。上人の教えを聞くために夜な夜な吉崎へ通う嫁を思いとどまらせるため、姑は鬼の面をかぶって嫁をおどす。だが、面が顔に張り付いて取れなくなってしまい、仕方なく鬼面のまま帰宅する。姑は上人の前で懺悔し、南無阿弥陀仏を唱えたとたんに鬼面が取れたという。初めにこの民話を簡単に紹介した後、舞台はいきなり異国へと移る。釈迦が悟りを開いた頃のインドだろうか、人々は僧衣にも見えるサフラン色の服を身につけている。役者たちが外国語めかして喋る「ジブリッシュ」(=デタラメ語)の意味はわからないが、抑揚や表情、身振りなどから感情の動きはおおよそ伝わってくる。
一人の女(横川正枝)が水瓶を抱えている。だが、周囲の親しい人たちはその水瓶の大切さを理解せず、彼女から取り上げようとする。彼女自身も誕生日のパーティーでケーキのろうそくを吹き消した際には水瓶をどこかへ置いてきてしまった。仏教では、観音菩薩が携えている水瓶には穢れを取り除く甘露水が入っており、信仰の象徴とされる。その水瓶を必死で守りながらもうっかり忘れてしまう姿は、強い宗教心を保ち続けることの困難さを表していた。
舞台の下手奥には空っぽの段ボール箱が山のように高く積み上げられている。若い娘(中野有里菜)は遊びに行きたいのに、腰の曲がった老婆(小川雅美)から言い付けられて仕方なく段ボール箱を組み立てる。それは我々が毎日従事しているルーチンワークそのものだ。やがて老婆は黒いバランスボール(=宗教的奇跡?)に乗って運動能力が回復したのか、背筋がシャンと伸び、杖をついて元気良く歩き出した。勢い余って他の女が折り畳んでいる段ボール箱(=日常性)を踏みつけても気にしない。それは近所へ買い物に行くような歩き方ではなく、はるか彼方にある聖地を目指すような大股の闊歩だ。まるで今までやってきたことがすべて徒労だったと気付き、日常生活から一つ上の次元へと意識が覚醒してしまったかのように。
彼女の歩き方を見て、私は一つの古い説話を思い出した。一人の男が夕食中に突然立ち上がり、家族を残してフラフラと外へ出て行った。後を追いかけて来た娘に対し、父は比叡山へ行って坊さんになる、と告げた。彼はそのまま仏道修行に一生を捧げたらしい。現代人がこの世の無意味さに気付いた時、どこへ向かえばいいのか?セミナー、座禅、法話、それとも新興宗教だろうか?
そんな疑問で頭が一杯になっている時、二本目の一人芝居『炎症』(脚本:加藤一郎/劇団aji)が始まった。炎症は、病気の原因となる細菌やウイルスが体内へ侵入した時、身体の組織を守るために引き起こされる…。医学的な知識を口にしながら登場した若い女性(木村日菜乃)は、赤いワンピース姿ながら背中には大きな登山用のリュックサックを担ぐという不思議にアンバランスな格好をしている。
私にはこの作品は『MASK』で杖をついてグングンと歩き出した女の後日譚と感じられた。この女性の「家出」はすなわち仏教的には「出家」であり、リュックサックは例えば山伏の峰渡りのような「修行」を暗示している。なによりも途中で彼女が舞台袖からズルズルと引っ張り出して来た白い電球を繋いだロープ(長さ数メートル)は私には仏教の「数珠」に見えて仕方がなかった。やがてこの女性は舞台上で脚立に登り、さらなる高みを目指す姿勢で作品が終わる。
炎症は、現代社会のあちこちで頻発する不祥事の比喩にも聞こえた。本来、炎症は組織の自己治癒力なのに、批判を恐れて問題をひた隠しに隠すことにより、かえって症状を悪化させてしまっているのではないか。そんなメッセージを語り伝える女性の姿は、私の目には初々しい巫女とも世直し行者とも映ったのである。
人間は通常、目の前の現実に埋没しながら生きている。赤ちゃんは成長して大人になり、就職し、結婚し、子どもを作り、やがて老いて死んでいく。だが、ある時ふと、それだけでいいのかと内なる声が聞こえ、人生があまりに虚しすぎるように感じられて気が狂いそうになることもある。10月26〜28日に金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演されたPotluck Theater(ポットラックシアター)『MASK/炎症』(演出:島貴之、衣装:川口知美)を見て、普段は心の奥底に押し殺しているどうしようもない無常観を形にしてポンと突きつけられたような気がした。
二作品からなるオムニバスの一本目は『MASK』。室町時代後期、浄土真宗の蓮如上人による北陸布教の拠点となった越前国吉崎御坊(福井県あわら市)に残る『肉付きの面』の民話を集団創作で現代に蘇らせる試みだ。上人の教えを聞くために夜な夜な吉崎へ通う嫁を思いとどまらせるため、姑は鬼の面をかぶって嫁をおどす。だが、面が顔に張り付いて取れなくなってしまい、仕方なく鬼面のまま帰宅する。姑は上人の前で懺悔し、南無阿弥陀仏を唱えたとたんに鬼面が取れたという。初めにこの民話を簡単に紹介した後、舞台はいきなり異国へと移る。釈迦が悟りを開いた頃のインドだろうか、人々は僧衣にも見えるサフラン色の服を身につけている。役者たちが外国語めかして喋る「ジブリッシュ」(=デタラメ語)の意味はわからないが、抑揚や表情、身振りなどから感情の動きはおおよそ伝わってくる。
一人の女(横川正枝)が水瓶を抱えている。だが、周囲の親しい人たちはその水瓶の大切さを理解せず、彼女から取り上げようとする。彼女自身も誕生日のパーティーでケーキのろうそくを吹き消した際には水瓶をどこかへ置いてきてしまった。仏教では、観音菩薩が携えている水瓶には穢れを取り除く甘露水が入っており、信仰の象徴とされる。その水瓶を必死で守りながらもうっかり忘れてしまう姿は、強い宗教心を保ち続けることの困難さを表していた。
舞台の下手奥には空っぽの段ボール箱が山のように高く積み上げられている。若い娘(中野有里菜)は遊びに行きたいのに、腰の曲がった老婆(小川雅美)から言い付けられて仕方なく段ボール箱を組み立てる。それは我々が毎日従事しているルーチンワークそのものだ。やがて老婆は黒いバランスボール(=宗教的奇跡?)に乗って運動能力が回復したのか、背筋がシャンと伸び、杖をついて元気良く歩き出した。勢い余って他の女が折り畳んでいる段ボール箱(=日常性)を踏みつけても気にしない。それは近所へ買い物に行くような歩き方ではなく、はるか彼方にある聖地を目指すような大股の闊歩だ。まるで今までやってきたことがすべて徒労だったと気付き、日常生活から一つ上の次元へと意識が覚醒してしまったかのように。
彼女の歩き方を見て、私は一つの古い説話を思い出した。一人の男が夕食中に突然立ち上がり、家族を残してフラフラと外へ出て行った。後を追いかけて来た娘に対し、父は比叡山へ行って坊さんになる、と告げた。彼はそのまま仏道修行に一生を捧げたらしい。現代人がこの世の無意味さに気付いた時、どこへ向かえばいいのか?セミナー、座禅、法話、それとも新興宗教だろうか?
そんな疑問で頭が一杯になっている時、二本目の一人芝居『炎症』(脚本:加藤一郎/劇団aji)が始まった。炎症は、病気の原因となる細菌やウイルスが体内へ侵入した時、身体の組織を守るために引き起こされる…。医学的な知識を口にしながら登場した若い女性(木村日菜乃)は、赤いワンピース姿ながら背中には大きな登山用のリュックサックを担ぐという不思議にアンバランスな格好をしている。
私にはこの作品は『MASK』で杖をついてグングンと歩き出した女の後日譚と感じられた。この女性の「家出」はすなわち仏教的には「出家」であり、リュックサックは例えば山伏の峰渡りのような「修行」を暗示している。なによりも途中で彼女が舞台袖からズルズルと引っ張り出して来た白い電球を繋いだロープ(長さ数メートル)は私には仏教の「数珠」に見えて仕方がなかった。やがてこの女性は舞台上で脚立に登り、さらなる高みを目指す姿勢で作品が終わる。
炎症は、現代社会のあちこちで頻発する不祥事の比喩にも聞こえた。本来、炎症は組織の自己治癒力なのに、批判を恐れて問題をひた隠しに隠すことにより、かえって症状を悪化させてしまっているのではないか。そんなメッセージを語り伝える女性の姿は、私の目には初々しい巫女とも世直し行者とも映ったのである。
この文章は、2018年10月21日(日)11:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」についての劇評です。
舞台の中央の台には、ふわふわとした薄い布が重なり合いおとぎの国のようだ。その上にはキラキラしたビーズと共に丸いライトが下がる様子からはファンタジックな雰囲気を感じた。左奥にはギターや電子ピアノ、フルート奏者。右奥には太鼓や打楽器の奏者。その手前には頭に狐のお面を掛けたもうひとりギター奏者が控えていた。演者は着物姿の者が多く、私はこのような舞台美術や衣装からは、童話的な素朴な空想を含む物語がはじまるのかと想像した。だが、この作品にはいわゆる明確な筋書きはなく、役者が放つ言葉は、台本のあるセリフではなく、彼ら自身が発する言葉であった。
演出を務めた南光太郎は若い演出家だ。彼はこの公演の2週間ほど前に、役者に向けて演じるのではなく即興で表現し舞台に立つよう指示をしたという。舞台に立った役者は、ワンネス一座という金沢市と石川県白山市に拠点を置くフリースクールNPO法人ワンネススクールの生徒やOB・スタッフらによる演劇部だ。これは私の見解だが、演技経験の決して多くない彼らには演じることで表現できる幅にも限界がある。その中で演出家が行った今回のことは、今できることに特化した苦肉の策であると同時に最善のことであったのかもしれない。
しかし、演出家の余計な一言が、作品に内在していた演出家の無意識のエゴを明らかにした。演出家が言うには、「彼ら彼女たちは、仮面を身につけ枠にはまるその息苦しさから解放されワンネススクールにいるのに、脚本通りに役を演じることで、再び枠にはまり仮面を着けてしまう。彼らには自分の言葉で語ってほしい。」という自身の決断であったと。カーテンコール後興奮から覚めやらないのか、そのように嬉々と裏事情を話す彼に、私は少々嫌悪を抱いた。観劇後の余韻が損なわれたように思う。
今回の舞台で一番大変だったのは矢面に立たされる覚悟で、この表現をやり遂げた役者だ。彼らは言いづらいことを観客が見つめる舞台上で自身の言葉として言わないといけない。これはとてつもない重圧であると同時に恐怖であったと想像する。役者に対する敬意があるのなら、演出家は「彼らのために良いことをやってあげた感」を出さずに、演出家として演劇の演出をすべきであったのではないだろうか。自分の舞台であるといっているかのような演出家の言葉が、唯一この物語の中でいらない言葉のように感じた。
舞台の中央の台には、ふわふわとした薄い布が重なり合いおとぎの国のようだ。その上にはキラキラしたビーズと共に丸いライトが下がる様子からはファンタジックな雰囲気を感じた。左奥にはギターや電子ピアノ、フルート奏者。右奥には太鼓や打楽器の奏者。その手前には頭に狐のお面を掛けたもうひとりギター奏者が控えていた。演者は着物姿の者が多く、私はこのような舞台美術や衣装からは、童話的な素朴な空想を含む物語がはじまるのかと想像した。だが、この作品にはいわゆる明確な筋書きはなく、役者が放つ言葉は、台本のあるセリフではなく、彼ら自身が発する言葉であった。
演出を務めた南光太郎は若い演出家だ。彼はこの公演の2週間ほど前に、役者に向けて演じるのではなく即興で表現し舞台に立つよう指示をしたという。舞台に立った役者は、ワンネス一座という金沢市と石川県白山市に拠点を置くフリースクールNPO法人ワンネススクールの生徒やOB・スタッフらによる演劇部だ。これは私の見解だが、演技経験の決して多くない彼らには演じることで表現できる幅にも限界がある。その中で演出家が行った今回のことは、今できることに特化した苦肉の策であると同時に最善のことであったのかもしれない。
しかし、演出家の余計な一言が、作品に内在していた演出家の無意識のエゴを明らかにした。演出家が言うには、「彼ら彼女たちは、仮面を身につけ枠にはまるその息苦しさから解放されワンネススクールにいるのに、脚本通りに役を演じることで、再び枠にはまり仮面を着けてしまう。彼らには自分の言葉で語ってほしい。」という自身の決断であったと。カーテンコール後興奮から覚めやらないのか、そのように嬉々と裏事情を話す彼に、私は少々嫌悪を抱いた。観劇後の余韻が損なわれたように思う。
今回の舞台で一番大変だったのは矢面に立たされる覚悟で、この表現をやり遂げた役者だ。彼らは言いづらいことを観客が見つめる舞台上で自身の言葉として言わないといけない。これはとてつもない重圧であると同時に恐怖であったと想像する。役者に対する敬意があるのなら、演出家は「彼らのために良いことをやってあげた感」を出さずに、演出家として演劇の演出をすべきであったのではないだろうか。自分の舞台であるといっているかのような演出家の言葉が、唯一この物語の中でいらない言葉のように感じた。
この文章は、2018年10月21日(日)11:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」についての劇評です。
舞台中央にピンクがかった巨大なわたあめのような塊があった。その真上にはちょうちんのようなものがぶら下がっている。舞台が始まると左奥では一人の男性がピアノ、パソコン、フルートなどを使って演奏する。私が観劇した回では左奥の演奏がメインとなっていた。俳優たちが演技する場所まで出てきて演奏することもあった。右の奥には和太鼓などの打楽器があった。和太鼓は5つほど並んでいただろうか。ロックバンドのドラマーのように連打する音と姿は見ていて気持ちよかった。割と早めの段階で一度きりしかその演奏が聴けなかったのは残念だった。その手前にはギター奏者がいた。俳優としても舞台上に立つ彼は白い着物に赤い羽織を肩から掛けて、頭には狐の面を付けていた。優しそうな顔立ちの男性だったが、ギターは見た目のイメージとは違って力強くはじけるような演奏だった。セリフ、俳優たちが舞台上に出るタイミング、照明、そして音楽、すべてが即興で進むこの芝居の中で、彼はずっと回りの様子を伺っていた。やっと演奏できるタイミングを掴んだ勢いがあの音になったのだろうか。
衣装はほとんどの人が着物だった。子どもも細身の男性も大人の女性も、着物をきちんと着ていたのがとても好ましかった。言葉がきれいだなと思った。言葉の選び方がよかった。静かに通る声で、わかりやすいテンポで、スーッと頭に入ってくる感じがした。「私は正しくない」「正しくなりたい」と言う言葉が胸にギュッと来た。音楽も、言葉も、彼らの内から湧き出てくるものを発したいタイミングで表現していたらしい。だからストーリーはなかった。でもその言葉一つに、音に、彼らの思いとここまで人生の物語が詰まっていたのかもしれない。全ては受け取れなかったけど、届いた気がする。
もともと脚本どおり演じる予定だったこの作品が即興劇になった経緯を、関西訛りの男性が長々と説明した。彼らのための変更だったと強調して。観劇気分から、出演者の多くが関わる「ワンネススクール」の保護者気分に変わってしまった。受け取ったものを感じる余韻を、彼が掻っ攫ってしまった。
舞台中央にピンクがかった巨大なわたあめのような塊があった。その真上にはちょうちんのようなものがぶら下がっている。舞台が始まると左奥では一人の男性がピアノ、パソコン、フルートなどを使って演奏する。私が観劇した回では左奥の演奏がメインとなっていた。俳優たちが演技する場所まで出てきて演奏することもあった。右の奥には和太鼓などの打楽器があった。和太鼓は5つほど並んでいただろうか。ロックバンドのドラマーのように連打する音と姿は見ていて気持ちよかった。割と早めの段階で一度きりしかその演奏が聴けなかったのは残念だった。その手前にはギター奏者がいた。俳優としても舞台上に立つ彼は白い着物に赤い羽織を肩から掛けて、頭には狐の面を付けていた。優しそうな顔立ちの男性だったが、ギターは見た目のイメージとは違って力強くはじけるような演奏だった。セリフ、俳優たちが舞台上に出るタイミング、照明、そして音楽、すべてが即興で進むこの芝居の中で、彼はずっと回りの様子を伺っていた。やっと演奏できるタイミングを掴んだ勢いがあの音になったのだろうか。
衣装はほとんどの人が着物だった。子どもも細身の男性も大人の女性も、着物をきちんと着ていたのがとても好ましかった。言葉がきれいだなと思った。言葉の選び方がよかった。静かに通る声で、わかりやすいテンポで、スーッと頭に入ってくる感じがした。「私は正しくない」「正しくなりたい」と言う言葉が胸にギュッと来た。音楽も、言葉も、彼らの内から湧き出てくるものを発したいタイミングで表現していたらしい。だからストーリーはなかった。でもその言葉一つに、音に、彼らの思いとここまで人生の物語が詰まっていたのかもしれない。全ては受け取れなかったけど、届いた気がする。
もともと脚本どおり演じる予定だったこの作品が即興劇になった経緯を、関西訛りの男性が長々と説明した。彼らのための変更だったと強調して。観劇気分から、出演者の多くが関わる「ワンネススクール」の保護者気分に変わってしまった。受け取ったものを感じる余韻を、彼が掻っ攫ってしまった。