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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2018年11月3日(土)19:00開演のLAVIT DANCE PRESENTS D.D.D.『虹ノカケラ』についての劇評です。

輝く雨に映る まぼろし
優しい面影 記憶の香り

失ってしまった 大切だった絆
七色の光を 思い出して泣いた

遠回りして 疲れても きっと
辿り着けるから 共に行こう
諦めないで…夢は叶う

追想、傷心、そして、Dream comes true。こんなキラキラした歌詞は、心の純粋さを保ち続けるアイドルにピッタリだ。11月2〜4日に金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演されたLAVIT DANCE PRESENTS D.D.D.『虹ノカケラ』(演出・振付:LAVIT、音楽:LAVIT with kanebon)は、ダンサー・俳優のLAVIT(ラビ)が金沢で活動を始めて10周年を記念し、この10年間に作った楽曲10曲を振り付きで披露する歌謡ショーだった。しかし、見ていて、何かが足りないような気がした。金沢演劇界の錚々たる役者たちが歌って踊って一生懸命に頑張っていたのだが、私の視線は落ち着かず、無い物ねだりをするように絶えずあちこちをキョロキョロと探してしまった。歌はアイドルチックなのに、舞台上には思わず感情移入したくなるような華のある「センター」がいなかったのである。

華やかなスターなど地方都市にいるはずがないと思われるかもしれないが、それは誤解だ。今回の作品でも美緑トモハルのダンスや原田明日華の歌など、思わず引き込まれてしまうパフォーマンスはあった。しかし、彼らにスポットライトを当てて前面に押し出すような演出は行われなかった。

冒頭、暗闇に横たわるLAVITに対し、周囲から「おーい」「おーい」と呼び交わす声が聞こえ、これからどんなドラマが始まるのかと期待に胸が高鳴った。しかし、今回の作品はLAVITの10周年記念と言いながら、LAVIT本人は最初の数曲を歌い踊ったのみでさっさと舞台奥に設けられた三段ステージの最上部に引き上げてしまった。例えば、北島三郎の歌謡ショーなら、サブちゃんが真ん中に立って歌い踊り、芝居を見せ、スポットライトを浴びてこそ、ファンは満足するはずだ。

それなら他のダンサーたちが大活躍してLAVITの穴を埋めるのかと思いきや、指を弾いたり、身体の向きを変えたりと、素人でも踊れそうな振付が中心でなかなか集団としての迫力を発揮できない。

LAVITの立ち位置が中途半端だ。先頭を切ってダンスを踊りまくりたい(自分がアイドルになりたい)のか、それともプロデューサーに徹したい(それなら他のメンバーたちをもっと際立たせるべき)のか。どっちなのだろう?

《以下は更新前の文章です。》

「輝く雨に映る まぼろし
優しい面影 記憶の香り」

「失ってしまった 大切だった絆
七色の光を 思い出して泣いた」

「遠回りして 疲れても きっと
辿り着けるから 共に行こう
諦めないで…夢は叶う」

追想、傷心、そして、Dream comes true。こんなキラキラした歌詞は、きっと心の純粋さを保ち続けるアイドルにしか歌えない。LAVIT(ダンサー・俳優)が率いる表現ユニット、D.D.D.による『虹ノカケラ』(演出:LAVIT、音楽:LAVIT with kanebon)は、LAVIT自身のMCによれば、金沢で活動を始めて10周年を記念してこの10年間に作った楽曲10曲を演奏したとのことだった。したがってこの作品は演劇でないのはもちろん、本格的なダンスでもない。あえて言えば、LAVITの楽曲を振り付きで披露する歌謡ショーだった。しかし、どうもおかしい。見ていて、注意力が拡散してしまう。金沢演劇界の錚々たる役者たちが歌って踊って一生懸命に頑張っていたのだが、私の視線はどこを見ればいいのかと落ち着かず、絶えずあちこちをキョロキョロした。歌はアイドルチックなのに、舞台上には思わず感情移入したくなるような華のある「センター」がいなかったのである。

地方都市なのだから、華やかなスターの不在は当然と思われるかもしれない。しかし、出演者の中にはアイドル的なルックスの若い人たちもいた。彼女たちを前面に押し出すやり方もあったと思うが、あえて特別なスターを作らない演出と感じられた。例えば、北島三郎の歌謡ショーなら、サブちゃんが真ん中に立って歌い踊り、芝居を見せ、スポットライトを浴びてこそ、ファンは満足する。しかし、今回の作品はLAVITの10周年記念と言いながら、LAVIT本人は最初の数曲を歌い踊ったのみでさっさと舞台奥に設けられた三段ステージの最上部に登り、そこから高みの見物を決めてしまった。

それなら他のダンサーたちが大活躍してLAVITが引っ込んだ穴を埋めるのかと思いきや、教えられた通りに身体を動かすのが精一杯でなかなか存在感を示せない。中には歌の上手い人もいて思わず引き込まれる瞬間もあったが、その人にスポットライトを当てて際立たせるような演出は行われない。照明は四人の白い衣装を着た女性たちが登場する冒頭のシーンなどを除き、おおむね全体にのっぺりと当てられており、カラオケ教室の発表会のようだ。その結果、肝心のアイドルがおらず、スクールメイツ(=バックダンサー)だけが踊っている歌謡ショーみたいに見えてしまった。

LAVITの立ち位置が中途半端だ。先頭を切ってダンスを踊りまくりたい(自分がアイドルになりたい)わけでもなく、プロデューサーに徹したい(それなら他のメンバーたちにきちんとスポットを当てるべき)わけでもなく。LAVITが一人だけ高い所からずっとメンバーたちを見下ろしていた意図は何だったのだろう。自分の出番でない時は舞台裏に引っ込み、他のメンバーたちを信頼して任せられなかったのだろうか?こんな歌詞もあった。

「一人ぼっちだった 虹の欠片の様な
仲間とめぐり逢い この唄を作った」

彼らを仲間だというのなら、同じ平面に立ってはどうだろう。
金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクターの井口時次郎です。
今回、当「かなざわリージョナルシアター『劇評』ブログ」に掲載されていた文章に一部無断引用(コピペ)がありましたことが判明しましたので、ここまでの経緯をご報告するとともに心よりお詫びを申し上げます。

【経緯について】
当ブログは、金沢市民芸術村アクションプラン実行委員会が主催する「かなざわリージョナルシアター2018『げきみる』」の関連事業として、同委員会が実施している「劇評講座」において受講者が書いた文章を公開しています。
当該記事は、10/20(土)17:00開演のワンネス一座「私の名は『月の輪』」について書かれたものです。

10/24(水)受講者による初稿の提出(ブログ非公開)
10/28(日)講師による文書での講評
10/31(水)18:06 講評を受けてリライトした劇評を当該受講者がブログアップ

このアップされた文章が、すでに公開されていた別の受講者の文章の一部と酷似していることが受講者間で疑問視され、10/31深夜から11/1朝にかけて複数の受講者から私に報告がありました。指摘箇所を私も確認し、引用について本人に確認しました。


【対応について】
11/1(木)午前8時ころには私の判断で当該記事を非公開にするとともに、講師と今後の対応について協議を行いました。

そして11/3(土)に行われた第3回講座において、講師から「著作物に関する意識および倫理について」「引用と盗用(剽窃)との境界」について受講者全員にレクチャーをしていただき、私からは今回の問題を受講者全員で当事者意識をもって共有することと今回のような問題が二度と起こらないよう呼びかけを行いました。


【原因の考察と反省】
今回の問題について事業担当ディレクターとして2点、原因として反省するところがありました。

1)初回講座において著作権にかかるレクチャーを講師にお願いしなかったこと

劇評講座は4年目となり、継続して受講されている方は著作物に対するモラルも十分理解されています。そのため講師に対して「初回のレクチャーに必ず著作権に関する内容を入れてください」という要請が十分ではありませんでした。当該の受講者は新規受講の方であったことからも、「劇評講座を受ける人ならわかっているだろう」という気の緩みがあったことは否定できません。

2)公開のブログにこうした内容のものが掲載されないための措置が不十分だったこと

今回は当該受講者が書かれた初稿を講師がチェックし、文書による講評をしていたわけですが、初稿には引用(コピペ)の部分はありませんでした。
講評を受けて改稿したものをブログにアップするというシステムになっていましたが、ここでアップする文章をチェックするシステムはありませんでした。
このことについてはブログアップに速報性を持たせたいという思いもあるため、現在はまだ受講者のモラルに期待するという状況です。講師および受講者と相談しながら、速報性と信頼性のバランスが取れるようなシステムを検討していくことになっています。



事業担当ディレクターとして、今回のことは大変重く受け止めています。
上演団体をはじめとした関係各位の皆様に深くお詫びを申し上げます。そして再発防止の手立てを行うことで、今後「劇評講座」がよりよいものになっていくよう努力していきたいと考えております。

金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクター
「劇評講座」事業担当 井口時次郎
 この文章は、2018年10月28日(日)16:00開演のPotluck Theater「MASK/炎症」についての劇評です。


 演出家が観客に挨拶。終わると袖に向かい名前を呼ぶ。若い男が下手よりサクラ色のワンピースを着用して登場。彼(中道柊)は舞台中央で、福井県の吉崎に伝えられてきた「肉付きの面」の物語を語る。
男が下手に消えると、大きな壺を抱えた女が登場。舞台装置は下手に段ボールの箱の山。中央下には両脇に「Why」と「What」と書かれたネオンサイン。
 やがて、二人の女が現れ壺を取ろうとする。言葉は日本語ではない。アフタートークの際に演出の島は、それを『ジブリッシュ言語(でたらめ語)』であると明かしていた。その後、男や女が登場し、その壺を奪い取ろうとする。その間、ネオンサインは「Why」。
 暗転の後に女二人。床に置かれた段ボールにテープを張り、箱に組み立てる。組み立てた後、下手にある段ボールの山へと運び、更に積み上げられる。ネオンサインは「What」に変わっていた。
 最後のシーンは、黒いバランスボールが登場。そのボールと遊ぶ女。その時、W.Bイエーツの詩の一節が『ジブリッシュ言語』で叫ばれる。それを日本語で翻訳する男。ネオンサインは二つとも消えている。そして舞台は終わる。
 暗転の後、「炎症」が始まる。明るくなると登山用のリュックを背負い、裸足でワンピースを着た若い女(木村日菜乃)が舞台中央に。彼女は余り抑揚を付けずにモノローグを始める。「炎症」の生理的メカニズムや人間の体のメカニズムを語る。モノローグの途中に舞台中央に脚立を運んでくる。話題は、彼女の妹との思い出に。次に下手より光のロープを引っ張ってくる。そして、再び「炎症」の生理的メカニズムを語り脚立に登る。再び妹のことを語り舞台は終わる
 この舞台で僕の興味を引いたものが二つあった。一つは照明の使い方。ライトが下手から上手に、上手から下手にと舞台を真横に過ぎって使われていた。更に、「炎症」では、光のロープが舞台を真横に過ぎっていた。もう一つは、モノローグを語る中道柊と木村日菜乃の姿勢。セリフの際には体が揺れることがない。ピーンと張りつめたまま彼らは舞台に立ち続けていた。
 そのいずれも美しいと感じた。ストーリーやセリフより、まず、役者の体の佇まいが美しかった。これは、演出の島が、意識的に役者に与えたミッションであり、舞台効果であったように思える。
 僕の推測だが、島は、舞台の上で、いかに役者を美しく見せることができるかを追及している演出家ではないだろうか。そういう意味で、「MASK」の『ジブリッシュ言語』と「炎症」のモノローグには共通するものがあった。
それは、どちらもなにかメッセージを観客に語り届けるというより、語るというスタイルを見せることに徹している。「MASK」の『ジブリッシュ言語』が意味不明なことは理解していただけると思うが、「炎症」のモノローグも、意味があるように見えながら、実は、メッセージとしては、なにも語っていないのだ。
演劇という芸術は、過去においても、いや、現在においても、メッセージを伝える強力な媒体として社会に存在していると僕は理解している。つまり、吉崎の「肉付きの面」の伝承も、演劇的に演じ語られ、「南無阿弥陀仏」という経文の有難さを現在に至るまで伝える役割を果たしてきたのだと考えている。
そういう意味で、宗教的プロパガンダとしての熱いメッセージがそこにあっても良いと思ったが、島の舞台からは、そういう熱量が全くと言って良い程感じられなかった。それどころか、舞台には冷たい空虚さが漂っていた。
それは、坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』のラストシーンで、鬼女と見誤り愛する女を絞め殺した盗賊の男が、桜の満開の下に冷たい虚空が張りつめているのを発見したように、僕も、島の舞台の背後に広がる空虚さを発見した瞬間でもあった。この冷たい空虚さが僕の心に沁みた。そして、僕が島の美意識を、その冷たい空虚さにあると強く感じた瞬間でもあった。
この文章は、2018年10月28日(日)16:00開演のPotluck Theater『MASK/炎症』についての劇評です。


 舞台左奥に20個ほどのダンボールがピラミッドのように積み上がる。右端の観客席から近い場所には大きな観葉植物。どこにでもありそうな品々が舞台に置かれている。舞台中央奥「why」と「what」のネオンの光以外は。
 
劇団Potluck Theaterによる「MASK/炎症」を観劇し、私はこの舞台からもどかしさを受け取った。

 「MASK/炎症」は2連続上演である。「MASK」は福井県に伝わる民話「肉付きの面」から着想を受けたオリジナルな舞台だ。青年による、微動すらもしない精悍な「肉つきの面」の朗読から舞台が始まる。役者の話す言葉は日本語でもない外国語ともいえない、私の知らない言葉だ。ジェスチャーや役者の顔の表情から読み取らなければならないコミュニケーションは、わかりそうでわからない。もどかしい。役者が演じる役から読みとれるのは、水瓶を離そうとしない女と、その女をからかうようにいじめる若い女2人と男1人、腰が曲がっている女、にボールを転がす女による、老いたる者に関する話……だろうか。途中、男が激しい音楽とともにDJを楽しんでいるかのようなシーンや、バースデーケーキが出てくるシーンなど印象に残るものはあっても、それが何を意味するかは、想像に委ねられているように感じた。
 一方、「炎症」は、女性と表現するには若い女の子によるひとり舞台だ。彼女はワンピース姿に大きなリュックを背負い凛とした様子でセリフを読み上げる。炎症と、炎症により発生する事柄を人間の成長過程と照らし合わせたかのようなセリフは、まだ若い女性が読み上げることによってか、妙な説得力があった。終盤、“NOといえない妹”に“炎症が起きなかった場合”に起きたことを説明したセリフがあった。妹が泣いたのは後にも先にもその時だけだという。

 おそらく、この作品は「why」と「what」のネオンと同じようにいたるところに「why」と「what」が散りばめられていた。「why」が点滅していた時はちょうど女がいじめられていたシーン。「what」が点滅していた時は男がいきなりDJを鳴らしていたあたりのシーン。その後は炎症も含めてどちらも点滅していない。「どうして?」「何?」。だが、その答えはどこにあるのだろうか。もどかしさが私を襲う。何をどう表現するのも自由であり、受け取るのも感じるのも観客の自由だ。だが、そこに観客とのコミュニケーションは発生したのだろうか。


この文章は、2018年10月28日(日)16:00開演のPotluck Theater『MASK/炎症』についての劇評です。


 春先に友人と吉崎御坊に行ってきた。石川県と福井県との県境を越えると、すぐである。高台にある御坊跡地に立つと北潟湖と大聖寺川、そして日本海が一望できる。比叡山から逃れてきた浄土真宗が北陸や東北へと勢力を増していく拠点となったのがこの地だ。
 吉崎の言い伝えに「肉付きの面」という話がある。蓮如上人の下へ通い詰める嫁を戒めるため、姑がお面を付けて脅すことにした。ところが面が顔に付いて取れなくなる。困った姑は蓮如上人に助けを求めて無事にお面が外れると言う話だ。このPotluck Theaterは2本立てだった。1本目の『MASK』はこの昔話を語るところから始まった。昔話が終わると場面が変わる。一人の女性が水がめを抱えてゆっくりとやってくる。同じ言葉を繰り返しながら歩き回っている。登場人物は全員サーモンピンクのワンピース姿で、体のラインがとても綺麗に映る。男性は上下が分かれていて下はズボンだったが色は女性と同じだった。話す言語は日本語ではない。「日本昔話」から、西洋か中東のファンタジーの世界に飛んだような気がした。 
 水がめは女性にとって何よりも大事な何かだった。でも他人にはその大切さが理解されず、水がめも女性もぞんざいな扱いを受ける。人々の喜怒哀楽は、人物の表情と声の表現でかなりちゃんと伝わってきていると感じた。「肉付きの面」からのインスピレーションを得てこの作品は作られたのだろうか。話す言葉の意味はわからないが、ストーリーは私自身が受け取ったものを自分なりに解釈して見ていた。ただ、客席に近く床に近い場所で演技する場面が多かったので、階段状の席の中段より上にいた私からは見えない部分が多かった。言葉がわからないので動作が見えないのは困る。残念ながらわたしの中で『MASK』のストーリーは歯抜け状態で完成しなかった。
 舞台上に誰もいなくなると、客席最前列の女性が言葉を発した。2本目『炎症』が始まった。女性の衣装はオレンジの花柄のワンピースだ。1本目の衣装と形が似ている。彼女は素足で、山登りでもするかのような大きなリュックを担いだ。そこから「炎症」についての説明が始まる。インターネット検索したらヒットしそうなどこかで聞いたことがあるような情報を、延々と高らかに発信する。時々「妹」についての語りが入る。テキストに書かれているような言葉が並ぶ炎症についての説明と、妹についての語りは対照的だ。妹についての強いこだわりが伝わってくる。女性は舞台袖から出した黄色の電飾のロープを持って、ゆっくり引っ張っていく。ロープを引きながら人体について説明しながら、彼女は涙を流していた。結わえられた妹がいるのではないかと、ロープの先がとても気になった。彼女は途中で引っ張るのをやめてしまったので、その先に何があるのかわからなかった。
 この2作品はセットも小道具もシンプルだった。ただ、ラストに登場した脚立にはでかでかと「金沢芸術村」の文字があった。備品としては正解である。作品にとっては異物である。