(劇評)「何者であるか。何者になるか。」西田愛 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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 この文章は、2017年12月2日(土)19:30開演の劇団ドリームチョップ『底のない柄杓』についての劇評です。



 一度だけ入院したことがある。大部屋の窓際が私のベッドで、その向かいは小柄のおばあちゃん“愛子さん”のベッドだった。愛子さんは内科系の病気を患っていたが、いつも少女のように可愛らしく微笑んでいた。
 劇団ドリームチョップの『底のない柄杓』(かなざわリージョナルシアター2017~げきみる~参加作品)を観た。この作品も舞台は大部屋だった。そこは住処のない女性が集まる施設で、6人の女性たちが暮らしていた。
 貧困、精神的疾患、無国籍……。女性たちはそれぞれ重い問題を抱えている上、施設長までも女性に暴力を振るうなど、救いのない日常が繰り広げられていた。そこに、施設長の娘が一人のおばあちゃんを保護し、施設に連れてくる。おばあちゃんはやさしい心を持った娘のおかげで施設で暮らすことになる。
 おばあちゃんは暗い施設内に差し込んだ陽の光のように、入居女性たちが悩みを吐露すれば、寄り添って「こうだよ」「ああだよ」と励ます。希望が見えてきたかと思いきや、それを打ち砕くように次々と女性たちに悲惨な事件が起こり、最後にはおばあちゃんまでも行方不明になってしまう。まるで最初からその存在がなかったかのように。おばあちゃんは“山田花子”だと名乗っていたが、山田花子は実在しない人物であった。
 冒頭に戻るが、愛子さんは後期高齢者だったものの、少女でもあった。愛子さんにとって“自分が少女であること”は真実だった。なぜなら、彼女は認知症も患っていた。
 愛子さんは自分が後期高齢者であることだけでなく、病院にいる理由もわからないようだった。毎日、何故自分の家に帰れないのかと看護師に聞いていたし、食事をするのも薬を飲むのも言われるがままだった。当時の世間知らずの私から見れば、最初は哀そうに見えた。それでも毎日、愛子さんはにこにこと微笑んでいた。自分が誰であるか、どんな状況であるかがわからなくても、にこにこ笑っていた。見ていると可愛らしくて、こちらまで微笑んでしまった。私が退院する頃には、愛子さんはお日様のように見えた。
 「“山田花子”というおばあちゃんは何者だったのだろう?」
 そう考えて辿り着いた先は、愛子さんとの思い出だった。愛子さんのように、“山田花子”と名乗ったおばあちゃんも認知症で、自分の家も、自分が誰なのかさえも忘れてしまった末、施設に来たのではないか。だから、実在しない“山田花子”として振舞ったことも、おばあちゃんにとっては真実であったのだが、突然にまた施設での“山田花子”としての記憶を無くし、施設を出て行ったのではないか。
 山田花子が何者だったのか、最後までわからずに作品は終わる。その後もどうなったのかは誰もわからない。だから、私の考察もあくまでも憶測でしかない。
 だが、私は山田花子が可哀そうな高齢者には見えなかった。彼女はひょっとしたら、自分の理想である女性を演じていたのかもしれない。もしくは、自分が一番幸せだった時代の自分を演じていたのかもしれない。