この文章は、2020年12月5日(土)よりオンライン公開の劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』についての劇評です。
今回の「げきみる」で2本目のオンライン配信のみの作品だ。劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(脚本・演出/内尾涼介)はSF研究会の狭い部室で話が進んでいく。部員は坂本(内尾涼介)、小野(山岸光)の2名だ。2020年11月21日、小野はタイムマシンを完成させたと言って部室にやってきた。スマホ大の電卓のようなものに、それより一回り大きいボックス形のものがくっついている。電卓で日付と行きたい時間を入力後、走って勢いをつけると目的の時間軸にタイムトラベルできる。この狭い部屋では走るには不向きでタイムトラベルして戻ってきたときに壁にぶつかっていた。実際に小野がこの部屋でタイムトラベルしたのは一往復のみで、あとはドアの外に出て走っていた。ずっと外でバタバタ走っている音がしたのはタイムトラベルのためだったと後でわかる。
この部室には気になるものがいくつかある。まず、テーブルの上に乱雑に置かれた紙類の中にある「鯖SABA」と書かれたA4の紙だ。坂本が手に取ることによってクローズアップされた。後で小野がタイムトラベルした証拠として残したものだとわかる。そして日付が書かれたホワイトボード。入室してきた坂本がその日の日付に書き直していた。毎日書き直されているようだ。タイムトラベルしたときにどこに飛んだかわかりやすい。もう一つ、めったに部活に来ない小野の名前をつけた白いプラスチック製の頭部。これは30年前の伝説にとって重要な小道具だ。これらは明らかすぎる伏線で確実に回収された。変に凝らずに思い切りよく扱っていたのがよかった。ただ、頭部に関してはかなり無理をしてつじつまを合わせようとした感がある。目撃者が近視だったという設定だが30年後も伝説として残るほどはっきりした勘違いをしなければならない。坂本の持ち物である頭部はそもそも人間の色をしていない。真っ白だ。近視の目撃者が頭部だと認識できるのか疑問だ。タイムマシンのチープさは、意外とこういうマシンもあるかもしれないと思えるが、あの頭はもう少し努力が欲しかった。
タイトル通り、タイムマシンを作ったからには「親殺しのパラドックス」を証明したくなる。親を殺すために過去に飛んだ小野と入れ替わりで息子・純一(新田龍一)が現れた。彼もまた親殺しのパラドックスを証明するためやってきたのだ。ここからがクライマックスだ。用意した伏線も余すことなく回収する。テンポのよい音楽が流れ、画面では親と子の生きるか死ぬかの追いかけっこが続く。そしてラストまで人の生き死にについて描き続けるのだ。だが緊迫感が伝わってこない。部室内で小野を追い詰めた純一はカッターナイフを振り回して小野に襲いかかる。結果的に小野を刺しても小野は死なないし純一も消えない。凶器が人を殺す道具として説得力がなかったことと、刺された小野は血すらながれず刺されたこと自体がなかったことになるので、人の生き死にが掛かっている場面として現実味がない。パラドックスとして際立たせるために血を流して刺された事実くらいはあってもよかったのではないかとも思う。この作品では伏線は必ず回収する。血を流してしまったら純一に「父のお腹には傷があった」と証言してもらおう。ちょっと生々しさを足したほうがアクセントになったのではないか。
ずっとゆるい雰囲気だった。普通の学生の普段の会話を目指したのだろうか。セリフが基本的にローテンションだし、言葉のチョイスもゆるい。セリフは脚本通りだったのだろうか。だとしたらもっと芝居を意識したセリフで、芝居によって自然な会話を作ることはできなかったのだろうか。その方がゆるいながらも整ったものにはできるのではないかと思う。編集もゆるい。カットが変わってもう一度同じセリフがあったのはわざとだろうか。それとも入ってしまったのだろうか。いろんなことが雑なのか狙いなのか分からなくなっている。狙いだとしたらきちんと伝わっていないのでもったいない。
この文章は、2020年12月5日(土)よりオンライン公開の劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』についての劇評です。
YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。
タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。
優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。
途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体が自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。ここでは、インターネットの普及によってグラグラと揺れ始めたアイデンティティ(自己同一性)の不安が比喩的に語られている。
さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。
昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰だと強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティに執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。いやむしろ、SNSで複数のIDを自由に操る彼らにとって、「明日の自分」もたくさん存在する自分の一つに過ぎず、気分次第で削除してもなんら問題はないのかもしれない。彼らは生まれた時からすでにネットを使うことが当たり前だった、デジタル・ネイティブの世代なのだ。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。
(以下は改稿前の文章です。)
YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。
タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。
優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。
途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体は自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。
さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。
昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰と強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティ(自己同一性)に執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。
YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。
タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。
優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。
途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体が自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。ここでは、インターネットの普及によってグラグラと揺れ始めたアイデンティティ(自己同一性)の不安が比喩的に語られている。
さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。
昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰だと強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティに執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。いやむしろ、SNSで複数のIDを自由に操る彼らにとって、「明日の自分」もたくさん存在する自分の一つに過ぎず、気分次第で削除してもなんら問題はないのかもしれない。彼らは生まれた時からすでにネットを使うことが当たり前だった、デジタル・ネイティブの世代なのだ。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。
(以下は改稿前の文章です。)
YouTube動画として配信されている劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(作・演出:内尾涼介)は、とある高校のSF研究会を舞台にタイムマシンという空想的な道具立てを使ったドタバタ喜劇だ。「親殺し」というテーマはいかにも哲学っぽくて深刻そうなのに対し、20歳前後らしい役者たち3人の演技はやる気なさげな脱力系。そのギャップから、ブラックな笑いが滲み出ていた。だが、単なるコメディーではない。作品を通して、自分が自分であることの根拠がどこにあるのかを必死で手探りしているような気配を感じた。
タイトルにもなっている「親殺しのパラドックス」とは、タイムマシンで過去へ行き、自分が生まれる前の親を殺した場合、自分の存在は消滅するのか、それとも歴史は変えられないため、何らかのストッパーが働いて殺せないのかという定番の問いかけだ。SF研究会に所属する小野(山岸光)は、親殺しのパラドックスを解明するため、自分でタイムマシンを開発した。と言っても、大がかりな装置ではなく、100均で売っているような電卓にライトをくっつけた程度の代物。燃料もプルトニウムなどを使うはずもなく、単なる電池だ。それを持って久しぶりに部室へ来ると、部長の坂本(内尾涼介)が暇そうにしていた。
優柔不断な小野は、親殺しの実験をやろうかやるまいかと迷うが、とりあえず初めてのタイムトラベルへと出発する。すると、入れ違いに未来から小野の息子・純一(新田龍一)がやって来た。彼も親殺しのパラドックスを解明するため、自分の父親を殺しに来たという。親譲りの実験精神というか、同じことを考えているあたりはさすがに親子、血は争えない。だが、息子の方がほんの少しだけ本気度で上回るようだ。純一はカッターを逆手に構えながら、父親を追いかけ回す。ついに捕まえて刺した時、画面が真っ暗になり、一瞬、世界が終わったのかと思った。だが、彼らが慌てている声だけは聞こえる。やがて画像が乱れたようになり、再び何事もなく元に戻ってしまった。純一は確かめるつもりで何度か刺してみるが、そのたびにプレイバックされ、元に戻る。どうやら、殺すことができない説が実証されたようだ。
途中で幕間狂言的に挿入される坂本のエピソードも面白かった。彼は、30年前からずっとSF研に語り継がれてきた「生首マン」に関心を抱いていた。その秘密を探りにタイムマシンで当時へ向かったところ、生首マンの正体は自分だったことを知る。そんな話、現実にはありえないと思われるかもしれないが、例えば、自分がちょっとした憶測で流した情報がSNSで次第に尾ヒレが付いて拡散され、巡り巡って巨大なデマとなって返って来るみたいなケースに近いのではないか。実は自分が発信源だった、と後で気付く、みたいな。
さて、親殺しの実験が無事に終わってめでたし、めでたし、かと思いきや、小野の好奇心はとどまるところを知らない。さっそく次に取りかかる。今度はわりと即断即決ですぐに出かけて行き、さっさと戻って来た。彼は一体何をやったのか?翌日、小野と坂本が部室で暇そうに喋っているところへ、昨日の小野が入って来た。昨日の小野は今日の小野を刺そうとする。今日の小野は当然ながら、昨日の小野が来ることは知っていた。「自分」殺しの実験が始まる……。
昨日の小野が殺しに来た時、今日の小野は、あ、来たか、という感じで怯える様子もなかった。親殺しに関する実験結果から、自分は死なないと信じているのだろうか。息子がいたこともわかり、将来は安泰と強気にもなっているのか。しかし、小野が殺そうとしているのは、時間差はあるものの、自分であり、結局は「自殺」なのだ。にもかかわらず、まるで他人を殺すようにあっけらかんと出かけて行く後ろ姿が興味深かった。今日と明日の自分が同じ自分であると頭ではわかっていても、実感としてつながっていないのではないだろうか。なぜこうも他人事なのだろう。現代の若者たちにとって、自らのアイデンティティ(自己同一性)に執着するエネルギーが弱くなってきているような気がした。これは新しい感覚が出て来たな、と思った。
この文章は、2020年11月28日(土)19:00開演のチロルマーケット『八人の女』についての劇評です。
チロルマーケット『八人の女』(作:ロベール・トマ、訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、吹雪によって外部から孤立した邸宅で殺されたマルセルという資産家の男を巡り、一緒に住んでいた妻や2人の娘、親族、使用人といった女性ばかり8人が犯人探しを行う密室ミステリーだ。「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」の一環として、金沢市民芸術村ドラマ工房でリーディング公演が行われた。地元の実力派女優たちによる競演は見(聞き?)応えがあったが、何となく時代の変化に対して鈍感な、古めかしい作品という印象を受けた。
マルセルの殺人事件に関し、8人の女たちがお互いに疑いの目を向け合う中で、それぞれの負い目や不都合な真実、彼に対する裏切りが暴かれていく。遺産を相続することになる妻ギャビー(東千絵)は、夫を窮地に陥らせた共同経営者ジャックと浮気しており、その男と海外へ駆け落ちする寸前だった。また、マルセルの妹で自由奔放な生き方をしてきたピエレット(吉村圭子)もジャックに入れ込んでおり、兄から引き出したお金を彼に貢いだのだが、そのお金はジャックとギャビーの逃走資金になってしまっていた。同じ家にはギャビーの年老いた母マミー(新宅安紀子)と独身の妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)もマルセルの厚意を受けて一緒に暮らしていた。そこへちょうどマルセルの長女シュゾン(金山古都美)が留学先のイギリスから帰国し、まだ15歳の次女キャトリーヌ(宗村春菜)と再会の喜びを分かち合う。この家を長年にわたって支えてきた家政婦シャネル(山本久美子)と新入りの小間使いルイズ(勢登香理)もいる。そのうちシュゾンは未婚での妊娠が発覚する。ルイズはマルセルと愛人関係にあり、オーギュスティーヌも密かにマルセルへの恋心を募らせていた。
1961年に初演されたロベール・トマの戯曲は、何度も舞台化され、映画にもなった 。一種の古典と言える。そこでは女たちが一人の金持ち男に群がり、性的魅力で誘惑したり、弱さをアピールして同情させるなど、あの手この手で彼から利益を得ようとする姿が描かれる。例えば、いつも車椅子に乗っている老婆マミーも、実はスタスタと歩けるのに、マルセルに哀れみを催させるために弱いふりをしていたのだ。当時から60年も経った現代において、そのような女性たちの強欲なエゴイストぶりをナンセンスなブラックコメディーとして笑い飛ばすのならまだわかる。しかし、今回の作品はシリアスな劇として上演されたため、正直言って、そんな女たち、今でもいるんですか?と聞きたくなった。いや、現実にはまだいくらでもいるんだろうけど、ドラマの登場人物としてはあまり興味をそそられなかった。
ふと、公演チラシを見たが、演出のクレジットが記載されていなかった。作品に対して誰が最終的に責任を負っているのかが曖昧なのだ。もちろん、出演者は皆、金沢でも折り紙つきの名だたる女優たちだ。全員で意見を出し合って作り上げたのだろうことは想像に難くない。しかし、全体を方向付ける演出の視点がなかったため、出来上がった作品がどんな新しい価値を生み出せるかについては、あまり考えられていなかったのではないだろうか?
少し前、男女の役割がきっちりと固定されていた時代なら、羽振りの良い男を手玉に取るような逞しい女性像は称賛されたかもしれない。女たちは男を利用することでしか自分の人生を実現できなかったからだ。しかし、今はどうだろうか。少なくとも私には、やたらと男に頼るよりも、一人で健気に生きようとする女性の方がドラマの登場人物として魅力的に映る。
8人の女たちが1人の男にぶら下がって生き、都合が悪くなって殺してしまうというストーリーは、あまりにも希望がなさすぎた。この作品の根底にある男尊女卑的なイデオロギーについて、出演者の誰も疑問を抱かなかったのだろうか?とは言え、最終的に金づるの男が死んだことにより、女たちはすがる相手がいなくなった。男性優位社会が終わり、これからは否応なく、自分の力で生きて行かなくてはならない。そんな風に女性たちが自らを解き放ち、自立していく物語として読み解くことも可能だろう。それならそれで、上演に際してはもっと溌剌とした新鮮さを発揮してもらいたかった。私は見ていて、居心地が悪かった。自分勝手に生きながら面倒な責任だけは男性に押し付ける女たちに対し、素直に共感できなかったからだ。
チロルマーケット『八人の女』(作:ロベール・トマ、訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、吹雪によって外部から孤立した邸宅で殺されたマルセルという資産家の男を巡り、一緒に住んでいた妻や2人の娘、親族、使用人といった女性ばかり8人が犯人探しを行う密室ミステリーだ。「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」の一環として、金沢市民芸術村ドラマ工房でリーディング公演が行われた。地元の実力派女優たちによる競演は見(聞き?)応えがあったが、何となく時代の変化に対して鈍感な、古めかしい作品という印象を受けた。
マルセルの殺人事件に関し、8人の女たちがお互いに疑いの目を向け合う中で、それぞれの負い目や不都合な真実、彼に対する裏切りが暴かれていく。遺産を相続することになる妻ギャビー(東千絵)は、夫を窮地に陥らせた共同経営者ジャックと浮気しており、その男と海外へ駆け落ちする寸前だった。また、マルセルの妹で自由奔放な生き方をしてきたピエレット(吉村圭子)もジャックに入れ込んでおり、兄から引き出したお金を彼に貢いだのだが、そのお金はジャックとギャビーの逃走資金になってしまっていた。同じ家にはギャビーの年老いた母マミー(新宅安紀子)と独身の妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)もマルセルの厚意を受けて一緒に暮らしていた。そこへちょうどマルセルの長女シュゾン(金山古都美)が留学先のイギリスから帰国し、まだ15歳の次女キャトリーヌ(宗村春菜)と再会の喜びを分かち合う。この家を長年にわたって支えてきた家政婦シャネル(山本久美子)と新入りの小間使いルイズ(勢登香理)もいる。そのうちシュゾンは未婚での妊娠が発覚する。ルイズはマルセルと愛人関係にあり、オーギュスティーヌも密かにマルセルへの恋心を募らせていた。
1961年に初演されたロベール・トマの戯曲は、何度も舞台化され、映画にもなった 。一種の古典と言える。そこでは女たちが一人の金持ち男に群がり、性的魅力で誘惑したり、弱さをアピールして同情させるなど、あの手この手で彼から利益を得ようとする姿が描かれる。例えば、いつも車椅子に乗っている老婆マミーも、実はスタスタと歩けるのに、マルセルに哀れみを催させるために弱いふりをしていたのだ。当時から60年も経った現代において、そのような女性たちの強欲なエゴイストぶりをナンセンスなブラックコメディーとして笑い飛ばすのならまだわかる。しかし、今回の作品はシリアスな劇として上演されたため、正直言って、そんな女たち、今でもいるんですか?と聞きたくなった。いや、現実にはまだいくらでもいるんだろうけど、ドラマの登場人物としてはあまり興味をそそられなかった。
ふと、公演チラシを見たが、演出のクレジットが記載されていなかった。作品に対して誰が最終的に責任を負っているのかが曖昧なのだ。もちろん、出演者は皆、金沢でも折り紙つきの名だたる女優たちだ。全員で意見を出し合って作り上げたのだろうことは想像に難くない。しかし、全体を方向付ける演出の視点がなかったため、出来上がった作品がどんな新しい価値を生み出せるかについては、あまり考えられていなかったのではないだろうか?
少し前、男女の役割がきっちりと固定されていた時代なら、羽振りの良い男を手玉に取るような逞しい女性像は称賛されたかもしれない。女たちは男を利用することでしか自分の人生を実現できなかったからだ。しかし、今はどうだろうか。少なくとも私には、やたらと男に頼るよりも、一人で健気に生きようとする女性の方がドラマの登場人物として魅力的に映る。
8人の女たちが1人の男にぶら下がって生き、都合が悪くなって殺してしまうというストーリーは、あまりにも希望がなさすぎた。この作品の根底にある男尊女卑的なイデオロギーについて、出演者の誰も疑問を抱かなかったのだろうか?とは言え、最終的に金づるの男が死んだことにより、女たちはすがる相手がいなくなった。男性優位社会が終わり、これからは否応なく、自分の力で生きて行かなくてはならない。そんな風に女性たちが自らを解き放ち、自立していく物語として読み解くことも可能だろう。それならそれで、上演に際してはもっと溌剌とした新鮮さを発揮してもらいたかった。私は見ていて、居心地が悪かった。自分勝手に生きながら面倒な責任だけは男性に押し付ける女たちに対し、素直に共感できなかったからだ。
(12/6、一部を訂正しました。)
この文章は、2020年11月28日(土)19:00開演のチロルマーケット『8人の女』についての劇評です。
石川県内の演劇を見るようになってまだ数年の私ですら、名前を見て期待せずにはいられないキャスト陣だ。楽しみにしていた人も多いだろう。ただ、残念ながらコロナ禍での上演のため客席は通常の約半分で、チケットを取れなかった人もいたのではないだろうか。チロルマーケット『八人の女』(原作/ロベール・トマ、翻訳/和田誠一)はドラマリーディングという形式をとっていた。これもコロナ禍の影響を受けてのことだろう。
物語は当主の娘のシュゾン(金山古都美)が冬休みに帰省してくるところから始まる。妹のカトリーヌ(宗村春菜)が父・マルセルを起こしに行くと父は背中を刺されて死んでいた。状況から犯人はこの8人の中にいる。そこで今帰ってきたばかりのシュゾンが自分は無関係とばかりに推理を始める。8人の女たちはみんな少しずつ嘘をついていて、その嘘が徐々に明らかになっていく。
舞台上は十分な距離を取って椅子が置かれていた。そのうちの2脚は奥の階段4段分ほど高くなっている場所にあった。演者たちは芝居に応じて動いたり移動したりしていたので完全に座りっぱなしではない。立ち居地もかなり移動する。移動する場合は距離を取る。話にあわせて袖に捌ける場面も何回かあった。感染防止に配慮しながらも思った以上に動きがあってとてもよかった。しかし、何か物足りない。
この『八人の女』の時代設定は1950年代だが、演じる役者たちに時代的な違和感がない。この違和感のなさはすごいと思う。屋敷の主は工場を営んでいて、自分の家族の他にお手伝いさんを2人と妻の母と妻の妹を一緒に住まわせている裕福な家だ。犯人探しをしていくうちに女たちの嘘や秘密が次々にばれていくが、この嘘や秘密は女たちが生きるために必要なことであろう。おそらく自分で収入を得て生活をしているのはお手伝いのシャネル(山本久美子)くらいだ。それもきっと十分ではない。だから女たちは強くしたたかでなくては生きていけない。生きていくために彼女たちがこだわったのはマネーだ。女たちはお金のために嘘をつき駆け引きをした。その駆け引きとは無縁だったのが15歳のカトリーヌだった。
主役は8人の女たちだ。当時の女性が置かれている状況がよくわかるように描かれているが、悲壮感はあまり感じない。女たちが強く生きる姿と俳優たちの芝居のパワーがうまく合致しているし、8人のバランスは拮抗していて見ていて楽しい。キャラクターは確立されていたし、一人ひとりの役者について語りたいくらいだ。細かいことを言えば、何人かセリフを噛んだり言い直したりしていて、普通の舞台演劇なら流せるところで目立ってしまったのが残念だった。他のリーディング公演でも普段よりセリフを噛む役者が多いと感じていたので、この形式の公演ではありがちなのかもしれない。思い描いたものとちょっと違ったなと感じた人もいたが、私の勝手なイメージなのでそれは置いておく。でもそれを置いたとしてもどこか引っかかる。
もしかしたらこれもリーディングあるあるなのかもしれないが、テンポが速くて慌ただしく感じる。セリフを噛むのはこのテンポのせいなのでは?とも思ったが、早口なわけではない。セリフの速さというより「間」が全体的に短縮されているような気がする。舞台上にはその芝居を少しも見逃したくない8人の女がいるのだ。見ている方は結構忙しい。間が短いことで芝居そのものに余韻がなかったのかもしれない。せっかくの演技を味わう暇がない。もっとゆっくり堪能したかった。そこが物足りなさを感じた理由かもしれない。いつか通常の演劇作品でこの8人の競演を見てみたい。
石川県内の演劇を見るようになってまだ数年の私ですら、名前を見て期待せずにはいられないキャスト陣だ。楽しみにしていた人も多いだろう。ただ、残念ながらコロナ禍での上演のため客席は通常の約半分で、チケットを取れなかった人もいたのではないだろうか。チロルマーケット『八人の女』(原作/ロベール・トマ、翻訳/和田誠一)はドラマリーディングという形式をとっていた。これもコロナ禍の影響を受けてのことだろう。
物語は当主の娘のシュゾン(金山古都美)が冬休みに帰省してくるところから始まる。妹のカトリーヌ(宗村春菜)が父・マルセルを起こしに行くと父は背中を刺されて死んでいた。状況から犯人はこの8人の中にいる。そこで今帰ってきたばかりのシュゾンが自分は無関係とばかりに推理を始める。8人の女たちはみんな少しずつ嘘をついていて、その嘘が徐々に明らかになっていく。
舞台上は十分な距離を取って椅子が置かれていた。そのうちの2脚は奥の階段4段分ほど高くなっている場所にあった。演者たちは芝居に応じて動いたり移動したりしていたので完全に座りっぱなしではない。立ち居地もかなり移動する。移動する場合は距離を取る。話にあわせて袖に捌ける場面も何回かあった。感染防止に配慮しながらも思った以上に動きがあってとてもよかった。しかし、何か物足りない。
この『八人の女』の時代設定は1950年代だが、演じる役者たちに時代的な違和感がない。この違和感のなさはすごいと思う。屋敷の主は工場を営んでいて、自分の家族の他にお手伝いさんを2人と妻の母と妻の妹を一緒に住まわせている裕福な家だ。犯人探しをしていくうちに女たちの嘘や秘密が次々にばれていくが、この嘘や秘密は女たちが生きるために必要なことであろう。おそらく自分で収入を得て生活をしているのはお手伝いのシャネル(山本久美子)くらいだ。それもきっと十分ではない。だから女たちは強くしたたかでなくては生きていけない。生きていくために彼女たちがこだわったのはマネーだ。女たちはお金のために嘘をつき駆け引きをした。その駆け引きとは無縁だったのが15歳のカトリーヌだった。
主役は8人の女たちだ。当時の女性が置かれている状況がよくわかるように描かれているが、悲壮感はあまり感じない。女たちが強く生きる姿と俳優たちの芝居のパワーがうまく合致しているし、8人のバランスは拮抗していて見ていて楽しい。キャラクターは確立されていたし、一人ひとりの役者について語りたいくらいだ。細かいことを言えば、何人かセリフを噛んだり言い直したりしていて、普通の舞台演劇なら流せるところで目立ってしまったのが残念だった。他のリーディング公演でも普段よりセリフを噛む役者が多いと感じていたので、この形式の公演ではありがちなのかもしれない。思い描いたものとちょっと違ったなと感じた人もいたが、私の勝手なイメージなのでそれは置いておく。でもそれを置いたとしてもどこか引っかかる。
もしかしたらこれもリーディングあるあるなのかもしれないが、テンポが速くて慌ただしく感じる。セリフを噛むのはこのテンポのせいなのでは?とも思ったが、早口なわけではない。セリフの速さというより「間」が全体的に短縮されているような気がする。舞台上にはその芝居を少しも見逃したくない8人の女がいるのだ。見ている方は結構忙しい。間が短いことで芝居そのものに余韻がなかったのかもしれない。せっかくの演技を味わう暇がない。もっとゆっくり堪能したかった。そこが物足りなさを感じた理由かもしれない。いつか通常の演劇作品でこの8人の競演を見てみたい。
この文章は、2020年11月28日(土)19:00開演のチロルマーケット『8人の女』についての劇評です。
隠し事のない人間なんかいない。後ろ暗いことの一つや二つ、誰もが抱えて生きている。しかし、その事情に囚われすぎた者の取る行動は、誠実さからかけ離れ、醜さを増していく。チロルマーケットの『八人の女』(原作:ロベール・トマ、翻訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、それぞれに事情を持った8人の女達による、己を守るための争いを表現したドラマだった。
舞台には、様々な椅子が半円状に5脚並べられている。舞台奥には高台があり、3段ほどの階段が左右に2カ所設置されている。台の上には2脚の椅子が置かれている。上演形式はリーディングである。まず、下手からピエレット(吉村圭子)が登場し、舞台となる館の状況について説明する。彼女が去ると照明が消え、再び明るくなった舞台上には6人の女性が横に並ぶ。彼女らの後ろには車椅子に座ったマミー(新宅安紀子)がいる。ここはマルセルの館。館の中には7人の女性がいる。マルセルの妻であるギャビー(東千絵)、ギャビーの母マミー、ギャビーの妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)。そして屋敷に長く奉公する女中のシャネル(山本久美子)と新入り女中のルイズ(勢登香理)。今、館に、ギャビーの長女であるシュゾン(金山古都美)が帰ってきた。次女のキャトリーヌ(宗村春菜)も起き出してくる。イギリスの大学から帰郷したシュゾンを迎える家の者達。彼女達はそれぞれ、他者に思うところがあるようで、小さな嫌味を交えながら会話をしている。6人は仲良くほのぼのと暮らしているわけではなさそうだ。シュゾンの父、マルセルをルイズが呼びに行く。しかしルイズが見たのは、背中をナイフで刺され、血まみれになったマルセルの姿だった。警察を呼ぼうにも、なぜか電話がつながらない。しばらくしてピエレットも姿を見せ、雪のため孤立した館の中で、犯人捜しが始まる。
8人がやりとりする中で少しずつ、彼女達がそれぞれ抱えている秘密が明らかになっていく。マミーは株券を隠し持っている。ギャビーは、マルセルのビジネスパートナーであるジャックと浮気をしている。ピエレットは金銭トラブルを抱えている。オーギュスティーヌは密かにマルセルに思いを寄せている。シュゾンは妊娠している。ルイズはマルセルと不倫関係にある。シャネルはピエレットと賭け事を楽しんでいる。さて、キャトリーヌにだけ、ここに挙げられるような隠し事がない。しかし彼女はその無邪気さゆえに、大きな罪を犯してしまうことになる。
リーディング公演ではあるが、役者達は座ったままではなく、立って動きもするし、二段に分かれた舞台上で移動することもある。ただじっと座った役者達から語りを聴かせられるよりも、動きを伴っているほうが台詞を発している人物へ注目しやすく、飽きない。畳みかけるように、矢継ぎ早に発せられる彼女達の台詞の応酬には迫力があった。しかし、謎を解きたいと思う気持ちで追っていくには、全体的にテンポが速いように思えた。誰が何をしていて、その結果どうなったのか。全て理解する必要はないものの、情報を追いきれなかった残念さはある。
この戯曲は1961年にパリで初演された。時代を感じる設定や台詞である上に、翻訳の文体でもあるため、今では聞かれないような言葉使いがあり、受けとりにくい感覚もあった。なぜ、今、この戯曲が選ばれたのだろうか。理由の一つとしては、演者達が全員女性であることだろう。タイプの違う女性を演じることで、演者それぞれの個性が引き立つ。そして、この戯曲で描かれている女達の持つ問題が、普遍的であることだ。恋愛、不倫、妊娠、金銭、それら揉め事の種は、今だって多くの女達が持っている。そして何より、初演時から現在まで変わることのない重大な問題、それは女に限らず、人の醜さである。自分を守るため、嘘をつき、他者を非難する。自分の都合の良いように事態を展開させようとする。他者の気持ちや事情など、かけらも考えやしない。殺人事件の起きた密室という極限状態で、その醜さと、自分を取り繕う行動の愚かさが強調される。
物語は最悪の結末を迎える。8人とマルセル、誰も救われることはない。醜い行動への報いとしては当然のことだろう。ほんの少し、誰かが誰かのことを気に掛けていれば、他者への思いやりという心があれば、と思う。しかし、他人事のように考えていてもいいものだろうか。私にも後ろ暗いところはある。ここには決して書けないような問題がある。そこを誰かに見つかりでもしたらと想像すると、恐ろしくて仕方がない。秘密を守り通すために、たやすく保身に走るだろう。私は悪くない。こうなったのは私のせいではない。8人の女達がまくしたてたような台詞を、口にしてしまうだろう。そう思うと、女達に親近感すら覚えてくる。醜さは私の中にも確実に存在している。
(以下は更新前の文章です)
隠し事のない人間なんかいない。後ろ暗いことの一つや二つ、誰もが抱えて生きている。しかし、その事情に囚われすぎた者の取る行動は、誠実さからかけ離れ、醜さを増していく。チロルマーケットの『八人の女』(原作:ロベール・トマ、翻訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、それぞれに事情を持った8人の女達による、己を守るための争いを表現したドラマだった。
舞台には、様々な椅子が半円状に5脚並べられている。舞台奥には高台があり、3段ほどの階段が左右に2カ所設置されている。台の上には2脚の椅子が置かれている。上演形式はリーディングである。まず、下手からピエレット(吉村圭子)が登場し、舞台となる館の状況について説明する。彼女が去ると照明が消え、再び明るくなった舞台上には6人の女性が横に並ぶ。彼女らの後ろには車椅子に座ったマミー(新宅安紀子)がいる。ここはマルセルの館。館の中には7人の女性がいる。マルセルの妻であるギャビー(東千絵)、ギャビーの母マミー、ギャビーの妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)。そして屋敷に長く奉公する女中のシャネル(山本久美子)と新入り女中のルイズ(勢登香理)。今、館に、ギャビーの長女であるシュゾン(金山古都美)が帰ってきた。次女のキャトリーヌ(宗村春菜)も起き出してくる。イギリスの大学から帰郷したシュゾンを迎える家の者達。彼女達はそれぞれ、他者に思うところがあるようで、小さな嫌味を交えながら会話をしている。6人は仲良くほのぼのと暮らしているわけではなさそうだ。シュゾンの父、マルセルをルイズが呼びに行く。しかしルイズが見たのは、背中をナイフで刺され、血まみれになったマルセルの姿だった。警察を呼ぼうにも、なぜか電話がつながらない。しばらくしてピエレットも姿を見せ、雪のため孤立した館の中で、犯人捜しが始まる。
8人がやりとりする中で少しずつ、彼女達がそれぞれ抱えている秘密が明らかになっていく。マミーは株券を隠し持っている。ギャビーは、マルセルのビジネスパートナーであるジャックと浮気をしている。ピエレットは金銭トラブルを抱えている。オーギュスティーヌは密かにマルセルに思いを寄せている。シュゾンは妊娠している。ルイズはマルセルと不倫関係にある。シャネルはピエレットと賭け事を楽しんでいる。さて、キャトリーヌにだけ、ここに挙げられるような隠し事がない。しかし彼女はその無邪気さゆえに、大きな罪を犯してしまうことになる。
リーディング公演ではあるが、役者達は座ったままではなく、立って動きもするし、二段に分かれた舞台上で移動することもある。ただじっと座った役者達から語りを聴かせられるよりも、動きを伴っているほうが台詞を発している人物へ注目しやすく、飽きない。畳みかけるように、矢継ぎ早に発せられる彼女達の台詞の応酬には迫力があった。しかし、謎を解きたいと思う気持ちで追っていくには、全体的にテンポが速いように思えた。誰が何をしていて、その結果どうなったのか。全て理解する必要はないものの、情報を追いきれなかった残念さはある。
この戯曲は1961年にパリで初演された。時代を感じる設定や台詞である上に、翻訳の文体でもあるため、今では聞かれないような言葉使いがあり、受けとりにくい感覚もあった。なぜ、今、この戯曲が選ばれたのだろうか。理由の一つとしては、演者達が全員女性であることだろう。タイプの違う女性を演じることで、演者それぞれの個性が引き立つ。そして、この戯曲で描かれている女達の持つ問題が、普遍的であることだ。恋愛、不倫、妊娠、金銭、それら揉め事の種は、今だって多くの女達が持っている。そして何より、初演時から現在まで変わることのない重大な問題、それは女に限らず、人の醜さである。自分を守るため、嘘をつき、他者を非難する。自分の都合の良いように事態を展開させようとする。他者の気持ちや事情など、かけらも考えやしない。殺人事件の起きた密室という極限状態で、その醜さと、自分を取り繕う行動の愚かさが強調される。
物語は最悪の結末を迎える。8人とマルセル、誰も救われることはない。醜い行動への報いとしては当然のことだろう。ほんの少し、誰かが誰かのことを気に掛けていれば、他者への思いやりという心があれば、と思う。しかし、他人事のように考えていてもいいものだろうか。私にも後ろ暗いところはある。そこを誰かに突かれでもしたら、どうなってしまうだろう。たやすく保身に走るのではないだろうか。私は悪くない。こうなったのは私のせいではない。8人の女達がまくしたてたような台詞を、口にしてしまうだろう。醜さは私の中にも潜んでいる。
隠し事のない人間なんかいない。後ろ暗いことの一つや二つ、誰もが抱えて生きている。しかし、その事情に囚われすぎた者の取る行動は、誠実さからかけ離れ、醜さを増していく。チロルマーケットの『八人の女』(原作:ロベール・トマ、翻訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、それぞれに事情を持った8人の女達による、己を守るための争いを表現したドラマだった。
舞台には、様々な椅子が半円状に5脚並べられている。舞台奥には高台があり、3段ほどの階段が左右に2カ所設置されている。台の上には2脚の椅子が置かれている。上演形式はリーディングである。まず、下手からピエレット(吉村圭子)が登場し、舞台となる館の状況について説明する。彼女が去ると照明が消え、再び明るくなった舞台上には6人の女性が横に並ぶ。彼女らの後ろには車椅子に座ったマミー(新宅安紀子)がいる。ここはマルセルの館。館の中には7人の女性がいる。マルセルの妻であるギャビー(東千絵)、ギャビーの母マミー、ギャビーの妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)。そして屋敷に長く奉公する女中のシャネル(山本久美子)と新入り女中のルイズ(勢登香理)。今、館に、ギャビーの長女であるシュゾン(金山古都美)が帰ってきた。次女のキャトリーヌ(宗村春菜)も起き出してくる。イギリスの大学から帰郷したシュゾンを迎える家の者達。彼女達はそれぞれ、他者に思うところがあるようで、小さな嫌味を交えながら会話をしている。6人は仲良くほのぼのと暮らしているわけではなさそうだ。シュゾンの父、マルセルをルイズが呼びに行く。しかしルイズが見たのは、背中をナイフで刺され、血まみれになったマルセルの姿だった。警察を呼ぼうにも、なぜか電話がつながらない。しばらくしてピエレットも姿を見せ、雪のため孤立した館の中で、犯人捜しが始まる。
8人がやりとりする中で少しずつ、彼女達がそれぞれ抱えている秘密が明らかになっていく。マミーは株券を隠し持っている。ギャビーは、マルセルのビジネスパートナーであるジャックと浮気をしている。ピエレットは金銭トラブルを抱えている。オーギュスティーヌは密かにマルセルに思いを寄せている。シュゾンは妊娠している。ルイズはマルセルと不倫関係にある。シャネルはピエレットと賭け事を楽しんでいる。さて、キャトリーヌにだけ、ここに挙げられるような隠し事がない。しかし彼女はその無邪気さゆえに、大きな罪を犯してしまうことになる。
リーディング公演ではあるが、役者達は座ったままではなく、立って動きもするし、二段に分かれた舞台上で移動することもある。ただじっと座った役者達から語りを聴かせられるよりも、動きを伴っているほうが台詞を発している人物へ注目しやすく、飽きない。畳みかけるように、矢継ぎ早に発せられる彼女達の台詞の応酬には迫力があった。しかし、謎を解きたいと思う気持ちで追っていくには、全体的にテンポが速いように思えた。誰が何をしていて、その結果どうなったのか。全て理解する必要はないものの、情報を追いきれなかった残念さはある。
この戯曲は1961年にパリで初演された。時代を感じる設定や台詞である上に、翻訳の文体でもあるため、今では聞かれないような言葉使いがあり、受けとりにくい感覚もあった。なぜ、今、この戯曲が選ばれたのだろうか。理由の一つとしては、演者達が全員女性であることだろう。タイプの違う女性を演じることで、演者それぞれの個性が引き立つ。そして、この戯曲で描かれている女達の持つ問題が、普遍的であることだ。恋愛、不倫、妊娠、金銭、それら揉め事の種は、今だって多くの女達が持っている。そして何より、初演時から現在まで変わることのない重大な問題、それは女に限らず、人の醜さである。自分を守るため、嘘をつき、他者を非難する。自分の都合の良いように事態を展開させようとする。他者の気持ちや事情など、かけらも考えやしない。殺人事件の起きた密室という極限状態で、その醜さと、自分を取り繕う行動の愚かさが強調される。
物語は最悪の結末を迎える。8人とマルセル、誰も救われることはない。醜い行動への報いとしては当然のことだろう。ほんの少し、誰かが誰かのことを気に掛けていれば、他者への思いやりという心があれば、と思う。しかし、他人事のように考えていてもいいものだろうか。私にも後ろ暗いところはある。ここには決して書けないような問題がある。そこを誰かに見つかりでもしたらと想像すると、恐ろしくて仕方がない。秘密を守り通すために、たやすく保身に走るだろう。私は悪くない。こうなったのは私のせいではない。8人の女達がまくしたてたような台詞を、口にしてしまうだろう。そう思うと、女達に親近感すら覚えてくる。醜さは私の中にも確実に存在している。
(以下は更新前の文章です)
隠し事のない人間なんかいない。後ろ暗いことの一つや二つ、誰もが抱えて生きている。しかし、その事情に囚われすぎた者の取る行動は、誠実さからかけ離れ、醜さを増していく。チロルマーケットの『八人の女』(原作:ロベール・トマ、翻訳:和田誠一、構成:勢登香理)は、それぞれに事情を持った8人の女達による、己を守るための争いを表現したドラマだった。
舞台には、様々な椅子が半円状に5脚並べられている。舞台奥には高台があり、3段ほどの階段が左右に2カ所設置されている。台の上には2脚の椅子が置かれている。上演形式はリーディングである。まず、下手からピエレット(吉村圭子)が登場し、舞台となる館の状況について説明する。彼女が去ると照明が消え、再び明るくなった舞台上には6人の女性が横に並ぶ。彼女らの後ろには車椅子に座ったマミー(新宅安紀子)がいる。ここはマルセルの館。館の中には7人の女性がいる。マルセルの妻であるギャビー(東千絵)、ギャビーの母マミー、ギャビーの妹オーギュスティーヌ(斉藤清美)。そして屋敷に長く奉公する女中のシャネル(山本久美子)と新入り女中のルイズ(勢登香理)。今、館に、ギャビーの長女であるシュゾン(金山古都美)が帰ってきた。次女のキャトリーヌ(宗村春菜)も起き出してくる。イギリスの大学から帰郷したシュゾンを迎える家の者達。彼女達はそれぞれ、他者に思うところがあるようで、小さな嫌味を交えながら会話をしている。6人は仲良くほのぼのと暮らしているわけではなさそうだ。シュゾンの父、マルセルをルイズが呼びに行く。しかしルイズが見たのは、背中をナイフで刺され、血まみれになったマルセルの姿だった。警察を呼ぼうにも、なぜか電話がつながらない。しばらくしてピエレットも姿を見せ、雪のため孤立した館の中で、犯人捜しが始まる。
8人がやりとりする中で少しずつ、彼女達がそれぞれ抱えている秘密が明らかになっていく。マミーは株券を隠し持っている。ギャビーは、マルセルのビジネスパートナーであるジャックと浮気をしている。ピエレットは金銭トラブルを抱えている。オーギュスティーヌは密かにマルセルに思いを寄せている。シュゾンは妊娠している。ルイズはマルセルと不倫関係にある。シャネルはピエレットと賭け事を楽しんでいる。さて、キャトリーヌにだけ、ここに挙げられるような隠し事がない。しかし彼女はその無邪気さゆえに、大きな罪を犯してしまうことになる。
リーディング公演ではあるが、役者達は座ったままではなく、立って動きもするし、二段に分かれた舞台上で移動することもある。ただじっと座った役者達から語りを聴かせられるよりも、動きを伴っているほうが台詞を発している人物へ注目しやすく、飽きない。畳みかけるように、矢継ぎ早に発せられる彼女達の台詞の応酬には迫力があった。しかし、謎を解きたいと思う気持ちで追っていくには、全体的にテンポが速いように思えた。誰が何をしていて、その結果どうなったのか。全て理解する必要はないものの、情報を追いきれなかった残念さはある。
この戯曲は1961年にパリで初演された。時代を感じる設定や台詞である上に、翻訳の文体でもあるため、今では聞かれないような言葉使いがあり、受けとりにくい感覚もあった。なぜ、今、この戯曲が選ばれたのだろうか。理由の一つとしては、演者達が全員女性であることだろう。タイプの違う女性を演じることで、演者それぞれの個性が引き立つ。そして、この戯曲で描かれている女達の持つ問題が、普遍的であることだ。恋愛、不倫、妊娠、金銭、それら揉め事の種は、今だって多くの女達が持っている。そして何より、初演時から現在まで変わることのない重大な問題、それは女に限らず、人の醜さである。自分を守るため、嘘をつき、他者を非難する。自分の都合の良いように事態を展開させようとする。他者の気持ちや事情など、かけらも考えやしない。殺人事件の起きた密室という極限状態で、その醜さと、自分を取り繕う行動の愚かさが強調される。
物語は最悪の結末を迎える。8人とマルセル、誰も救われることはない。醜い行動への報いとしては当然のことだろう。ほんの少し、誰かが誰かのことを気に掛けていれば、他者への思いやりという心があれば、と思う。しかし、他人事のように考えていてもいいものだろうか。私にも後ろ暗いところはある。そこを誰かに突かれでもしたら、どうなってしまうだろう。たやすく保身に走るのではないだろうか。私は悪くない。こうなったのは私のせいではない。8人の女達がまくしたてたような台詞を、口にしてしまうだろう。醜さは私の中にも潜んでいる。