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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2020年12月19日(土)19:00開演の劇団羅針盤『元号パレード』についての劇評です。

 劇団羅針盤(以下、羅針盤)のかなざわリージョナルシアター2020参加作品は「芝居小屋羅針盤・赤と青の陣っ!」と題して、『秘密結社“取調室”』と『元号パレード』が交互で上演された。この公演は、劇団の第52回公演にあたる。この上演回数と、2作を交互に上演できる体制から、劇団が長年活動を続け、積み重ねてきた実績があることがわかる。実際、筆者が観劇した『元号パレード』(作・演出:平田知大)は安定感のある作品だった。「だがしかし」という思いが筆者の中にある。

 舞台後方には、下手から、赤、青、赤、青と4枚の長方形の板が立てられている。後方上部には白いスクリーンが吊り下げられている。前方には、1段高くなった黒い台があり、それらは直線的に簡略化された日本の本州、四国、九州と、中国大陸のようだ。北海道と沖縄はない。舞台には着物をベースにした和洋折衷の衣装を身につけた2人が登場する。白い衣装の人物が「帝」(能沢秀矢)、黒い衣装の人物が「家来」(平田知大)。パンフレットにはそう表記があるが、2人は役名に留まらず、様々な人物を演じる。家来は時の帝と敵対する存在を演じることもある。スクリーンには番号と、元号が表示される。2人は元号の由来や、その元号の時に起きた出来事などを、大化から順に説明していく。元号は西暦645年の「大化」から始まり、現在使用されている「令和」まで、248ある。「まさか全部説明するのか?」と思ったらそうだった。この2人と、「政子様」(寺嶋佳代)、「中華な人々」(志波重忠、田中麻衣子)の、合わせて5人で、248ものの元号について語っていく。長い日本の歴史が、60分にぎゅっと濃縮されていた。元号にまつわる雑学的話題も盛り込まれており、日本史が好きな人にはそうそうと思わせ、よく知らない人にもなるほど、と思わせただろう。

 ただ、近代の歴史を語る上で、元号の話題は扱いが難しいところがある。ここには三つの語りにくさがあるのではないか。一つは元号と天皇の関係だ。明治以前は、天皇の譲位とは関係なく改元することができたが、明治政府によって「一世一元」の詔が発布され、新天皇即位の時にだけ改元できるようになった。よって、元号を語ることが、その元号時の天皇を語ることにもつながってしまう。二つ目が、歴史上8人存在する女性天皇について。今も様々な論が交わされている問題である。作中では深い考察はなされていなかったが、現代社会につながる問題であるだけに、もう少し説明があってもよかったのではないか。そして三つ目は近い歴史の扱い方である。地震や津波、飢饉や疫病などをきっかけに改元がなされたこともあったため、作中でもこれらの事象はよく登場した。遠い過去の出来事は軽く語ることができた。しかし、東日本大震災は過去の話にはできない。東日本大震災や新型コロナウイルス感染症については、作品中で具体名は出されていなかった。それまでコミカルに演じられていた態度も、近代の辺りではトーンダウンした感がある。羅針盤の持ち味の一つである、熱さも発揮しきれていないラストだったと思えた。熱く日本の近代史を語ることに潜む政治的な危険性が、劇団内でも感じられていたのではないか。

 先に安定感のある作品と書いた。248もの元号を記憶し、そのほとんどのエピソードを2人の掛け合いで表現する。途中に交えられる殺陣もそつなくこなす。羅針盤は殺陣に力を入れている劇団だが、今回もその実力は発揮されていた。これらができる基礎体力が羅針盤にはある。その安定感こそが持ち味であり、長所だ。いつ観にいっても、一定のレベルを超えた演劇を観せてくれる。それは観客にとって喜ばしいことだ。いつもと変わらない羅針盤らしさを求めて、多くのファンは劇場を訪れる。地方で長く劇団を続けていく。その活動にまつわる幾多の困難を乗り越え、演劇を続けている姿は賞賛に値する。

 そんなふうに、安定しているように見えてはいるが、裏では大変な苦労がなされているであろうことは、頭の隅に置いた上で書こう。「変化」が欲しいと。それは「驚き」と言い換えてもいいかもしれない。「羅針盤がこんなことを」と、びっくりしてみたい。それは殺陣を売りにする羅針盤が多く公演している、時代物や活劇物ではない、今までにない題材やジャンルへの挑戦かもしれない。これまでの脚本は平田知大が多く手掛けているようであるが、違う脚本家の起用があってもいいかもしれない。この演出と脚本を同一人物が手掛けることによるスタイルの固定は、羅針盤に限らず多くの劇団の問題でもある。変化が加えられそうなところはまだまだあるだろう。これは決して、現在の劇団を否定するものではない。もっと可能性があるのではないかという、期待の形の一つである。


(以下は更新前の文章です)


 劇団羅針盤(以下、羅針盤)のかなざわリージョナルシアター2020参加作品は「芝居小屋羅針盤・赤と青の陣っ!」と題して、『秘密結社“取調室”』と『元号パレード』が交互で上演された。この公演は、劇団の第52回公演にあたる。この上演回数と、2作を交互に上演できる体制から、劇団が長年活動を続け、積み重ねてきた実績があることがわかる。実際、筆者が観劇した『元号パレード』は安定感のある作品だった。だがしかし。という思いが筆者の中にある。

 舞台後方には、下手から、赤、青、赤、青と4枚の長方形の板が立てられている。後方上部には白いスクリーンが吊り下げられている。前方には、1段高くなった黒い台があり、それらは直線的に簡略化された日本の本州、四国、九州と、中国大陸のようだ。舞台には着物をベースにした和洋折衷の衣装を身につけた2人が登場する。白い衣装の人物が「帝」(能沢秀矢)、黒い衣装の人物が「家来」(平田知大)。パンフレットにはそう表記があるが、2人は役名に留まらず、様々な人物を演じる。家来は時の帝と敵対する存在を演じることもある。スクリーンには番号と、元号が表示される。2人は元号の由来や、その元号の時に起きた出来事などを、大化から順に説明していく。元号は西暦645年の「大化」から始まり、現在使用されている「令和」まで、248ある。まさか全部説明するのか? と思ったらそうだった。この2人と、「政子様」(寺嶋佳代)、「中華な人々」(志波重忠、田中麻衣子)の、合わせて5人で、248ものの元号について語っていく。長い日本の歴史が、60分にぎゅっと濃縮されていた。元号にまつわる雑学的話題も盛り込まれており、日本史が好きな人にはそうそうと思わせ、よく知らない人にもなるほど、と思わせただろう。

 ただ、近代の歴史を語る上で、元号の話題は扱いが難しいところがある。明治以前は、天皇の譲位とは関係なく改元することができたが、明治政府によって「一世一元」の詔が発布され、新天皇即位の時にだけ改元できるようになった。よって、近代の元号は天皇制と切り離して考えることはできない。元号を語ることが、その元号時の天皇を語ることにもつながってしまう。そして、歴史上8人存在する女性天皇。作品中では、特別に深い考察はされていなかったが、現在、様々な論が交わされている問題であることが、女性天皇の登場により想起されてしまう。また、遠くない歴史は、人々の記憶に生々しく残っている。大昔の地震については客観視して話せても、東日本大震災は過去の話にはできない。東日本大震災や新型コロナウイルス感染症については、作品中で具体名は出されていなかった。コミカルに演じられていた態度も、近代の辺りではトーンダウンした感がある。羅針盤の持ち味の一つである、熱さも発揮しきれていないラストだったと思えた。熱く日本の近代史を語ることに潜む政治的な危険性が、劇団内でも感じられていたのではないか。

 先に安定感のある作品と書いた。248もの元号を記憶し、そのほとんどのエピソードを2人の掛け合いで表現する。途中に交えられる殺陣もそつなくこなす。羅針盤は殺陣に力を入れている劇団だが、今回もその実力は発揮されていた。殺陣は元号エピソードの合間に挟み込まれていたが、もっと長く観たかったのが本音だ。これらができる基礎体力が羅針盤にはある。その安定感こそが持ち味であり、長所だ。いつ観にいっても、一定のレベルを超えた演劇を観せてくれる。それは観客にとって喜ばしいことだ。劇団の色がころころ変わるようでは、観たいと思うものが観られないかもしれず、安心できない。いつもと変わらない羅針盤らしさを求めて、多くのファンは劇場を訪れる。地方で長く劇団を続けていく。その活動にまつわる幾多の困難を乗り越え、演劇を続けている姿は賞賛に値する。

 そんなふうに、そつなく安定しているように見えてはいるが、裏では大変な苦労がなされているであろうことは、頭の隅に置いた上で書こう。「変化」が欲しいと。それは「驚き」と言い換えてもいいかもしれない。「羅針盤がこんなことを」と、びっくりしてみたい。それは今までにない題材かもしれないし、ジャンルかもしれない。これまでの脚本は平田知大が多く手掛けているようであるが、違う脚本家の起用があってもいいかもしれない。演技かもしれないし、演出かもしれない。役者かもしれない。書き出してみただけで、変化が加えられそうなところはこれだけある。まだまだあるだろう。これは決して、現在の劇団を否定するものではない。もっと可能性があるのではないかという、期待の形の一つである。
この文章は、2020年12月11日(金)よりオンライン公開のネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』についての劇評です。

YouTube動画として配信されている、ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』(作:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚+ネ・プロミンテ、映像制作・監督:宮向隆)。登場する3人は、いずれも好奇心の塊であり、「個」でい続ける強さを持っている。食べることが生きるあかしだという「食べる女」(高田初恵)、世情に流されながらも自然に触れて喜びを覚える「流れる女」(下條世津子)、少しでも空に近づきたいと歩みを止めない「昇る女」(市川幸子)。それぞれの設定は一応フィクションだと思われるが、当の役者が人生の中でずっと追い求めてきた価値観を語っていたのではないか。本人にしか体現できない感覚が滲み出し、結晶のように美しく凝固していた。

「食べる女」は、フォークとスプーンを上手に使ってスパゲティ・ナポリタンを美味そうに食べる。電子レンジで冷凍パックを温めるシーンから完食するまでをカメラは記録する。その後で「私の一生は、食べるための旅だったような気がします」などと本人の声が入る。何らかの収入を得て生活を営むことを日本語で「食べて行く」と言う通り、まさに食べることは人生の基本であり、最大の関心事と言ってもよい。

「流れる女」は「流れに身を任す。人に限らず、動物や植物や大自然さえ、身を任すしかない状況が多くなってきました」と今までの暮らしぶりを省みる。流れとは、人間が生きて行く上で無視できない世間や社会を意味しているのかもしれない。その中で、彼女は必ずしも自分の思い通りではなくても、泳ぎ渡るための最低限の技法は身につけてきたことがうかがわれる。そして、今、流れる女は改めて自らの存在を確認するかのように、庭の木や土に触れてみる。次の瞬間、人差し指の先端からツーッと血が流れる。樹皮の棘でも刺さったのか。だが、それさえも、自分が自然の一部である証拠と感じられて彼女にとっては快いようだ。

「昇る女」は、大空を仰ぎつつ、急勾配の山道をひたすら歩く。「毎日少しずつ登れば、一生のうちに必ず空に到達するはず」と信じ、息を切らしながら。その姿は難行苦行を厭わない修験者を思わせる。3人の中では最も抽象的だが、理想を追い求める姿には神々しさすら漂っていた。これらの「〜する女」シリーズは、映像を見ただけで3人がそれぞれどういう人たちなのかがわかる。自分の本質をこれほど潔く、コンパクトに凝結できる表現者は少ないのではないだろうか。

さて、場面は変わり、床に寝転んだ3人が身体ごと白い袋に入ってモゾモゾしている。何かの幼虫かウジ虫にも見える。どちらが頭でどちらが尻かもわからぬ、原始的な生命体。その色鮮やかな映像をじっと眺めていると、ふとこんな声が聞こえてくる。「人生に意味があるのかどうかなんて言葉の遊びに過ぎない。そんなことを考えるのはまだ早いぞ、青二才のくせに。ただ盲目的に蠢(うごめ)く虫になってみろ!そうすれば、生きていること自体への感謝の念が湧くはずだ」ーー。人生の大先輩たちから叱咤激励を受けているような気分になった。

最後はチェーホフの戯曲「三人姉妹」の朗読に合わせて3人が海辺の波打ち際でたわむれる。例の「……やがて時が経つと、私たちも永久にこの世に別れて忘れられてしまう。……でも、私たちの苦しみは後に生きる人たちの喜びに変わって、幸福と平和がこの地上に訪れるだろう……」と、姉妹たちが生きる意味を問い直す有名な一節だ。あの戯曲では、三人姉妹がそれぞれに辛酸を嘗め尽くした後で辿り着いた心境を吐露しており、悲惨な人生からの救いの象徴としてモスクワへと憧れていた。それに対し、今回の作品では、前半部分で特に3人の苦労が明瞭に描かれていたわけではなく、あの名ゼリフを喋るための根拠が漠然としていた。また、どこか具体的な地名が挙げられてもいなかったことから、強力なベクトルが発生せず、結局は行き場なんかない現実を認めざるを得なくなっていた。

作品の冒頭、「どこへ行くのですか?」というタイトルの文字がトイレを流す音とともにグルグル回って排水口の中へ消えて行く映像があった。その後で、3人が傍若無人なまでにひたすら砂浜を歩いて行くシーンを見せられたものだから、認知症の徘徊老人の話なのかなという失礼なイメージさえ浮かんでしまった。しかし、その日常レベルの質問は、 途中でウジ虫の映像を見ているうち、答えようのない抽象的な問いへと変化した。やがて海辺の三人姉妹では、どこかへ行こうとしているのかすらも問題ではなくなった。最終的には、3人が身一つで、ここにいる、ただそのことだけが残ったのである。

(以下は改稿前の文章です。)

五十の大台をとうに越したと思われる女性たちだが、子や孫、親戚や仲良しがどうしたの、こうしたのという所帯じみた話は一切出て来ない。YouTube動画として配信されている、ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか?』(作:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚+ネ・プロミンテ、映像制作・監督:宮向隆)。登場する3人は、いずれも好奇心の塊であり、「個」でい続ける強さを持っている。食べることが生きるあかしだという「食べる女」(高田初恵)、世情に流されながらも自然に触れて喜びを覚える「流れる女」(下條世津子)、少しでも空に近づきたいと歩みを止めない「昇る女」(市川幸子)。それぞれの設定は一応フィクションだと思われるが、当の役者が人生の中でずっと追い求めてきた価値観を語っていたのではないか。本人にしか体現できない感覚が滲み出し、結晶のように美しく凝固していた。

食べる女は、フォークとスプーンを上手に使ってスパゲティ・ナポリタンを美味そうに食べる。電子レンジで冷凍パックを温めるシーンから完食するまでをカメラは記録する。その後で「私の一生は、食べるための旅だったような気がします」などと本人の声が入る。何らかの収入を得て生活を営むことを日本語で「食べて行く」と言う通り、まさに食べることは人生の基本であり、最大の関心事と言ってもよい。

流れる女は「流れに身を任す。人に限らず、動物や植物や大自然さえ、身を任すしかない状況が多くなってきました」と今までの暮らしぶりを省みる。流れとは、人間が生きて行く上で無視できない世間や社会を意味しているのかもしれない。その中で、彼女は必ずしも自分の思い通りではなくても、泳ぎ渡るための最低限の技法は身につけてきたことがうかがわれる。そして、今、流れる女は改めて自らの存在を確認するかのように、庭の木や土に触れてみる。次の瞬間、人差し指の先端からツーッと血が流れる。樹皮の棘でも刺さったのか。だが、それさえも、自分が自然の一部である証拠と感じられて彼女にとっては快いようだ。

昇る女は、大空を仰ぎつつ、急勾配の山道をひたすら歩く。「毎日少しずつ登れば、一生のうちに必ず空に到達するはず」と信じ、息を切らしながら。その姿は難行苦行を厭わない修験者を思わせる。3人の中では最も抽象的だが、理想を追い求める姿には神々しさすら漂っている。

さて、場面は変わり、床に寝転んだ3人が身体ごと白い袋に入ってモゾモゾしている。何かの幼虫かウジ虫にも見える。どちらが頭でどちらが尻かもわからぬ、原始的な生命体。その色鮮やかな映像をじっと眺めていると、人生に意味があるのかどうかなんて言葉の遊びに過ぎない。そんなことを考えるのはまだ早いぞ、青二才のくせに。ただ盲目的に蠢(うごめ)く虫になってみろ!そうすれば、生きていること自体への感謝の念が湧くはずだ、と人生の大先輩たちから叱咤激励を受けているような気分になった。

最後はチェーホフの戯曲「三人姉妹」の朗読に合わせて3人が海辺の波打ち際でたわむれる。例の「……やがて時が経つと、私たちも永久にこの世に別れて忘れられてしまう。……でも、私たちの苦しみは後に生きる人たちの喜びに変わって、幸福と平和がこの地上に訪れるだろう……」と姉妹たちが生きる意味を問い直す有名な一節だ。しかし、あの戯曲では、三人姉妹がそれぞれに辛酸を嘗め尽くした後で辿り着いた心境を吐露しており、モスクワへ行きたいと憧れていた。それに対し、今回の作品では、前半部分で特に3人の苦労が明瞭に描かれていたわけではなく、どこかの地名も挙げられていなかった。したがって、あの名ゼリフをリアルに喋るための根拠に欠けており、何となくやってみました的な表現で終わっていた。

作品の全体を通して、これだけは訴えたいという一貫した主張が感じられたわけでもない。むしろ日々の生活で思い付いたアイディアをあれも、これもと楽しげに詰め込んだような内容だ。だからこそ、「大人による夏休み絵日記」という風に見えた。とは言え、長年にわたってさまざまな演劇に親しんできた彼女らなので、趣味の高さは隠しようがない。特に前半の「〜する女」シリーズは、この映像を見ただけで、3人がそれぞれどういう人たちなのかがわかる。自分の本質をこれほど潔く、コンパクトに凝結できる表現者は少ないのではないだろうか。

作品の冒頭、「どこへ行くのですか?」というタイトルの文字がトイレを流す音とともにグルグル回って排水口の中へ消えて行く映像があった。その後で、3人が傍若無人なまでにひたすら砂浜を歩いて行くシーンを見せられたものだから、認知症の徘徊老人の話なのかなという失礼なイメージさえ浮かんでしまった。しかし、その具体的な質問は、 途中でウジ虫の映像を見ているうち、答えようのない抽象的な問いへと変化した。やがて海辺の三人姉妹では、どこかへ行こうとしているのかすらも問題ではなくなった。最終的にはただ、3人が手ぶらで、そこにいる、ことだけが残ったのである。
この文章は、2020年12月11日(金)よりオンライン公開のネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』についての劇評です。



 今回の作品は「げきみる」3作目のオンライン配信のみの作品だ。このネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』は他の2作品より映像の力が強く出ていた。脚本・演出は支那金魚+ネ・プロミンテ、出演は高田初恵、下條世津子、市川幸子、映像制作・監督は宮向隆。長く石川演劇に携わっている人には知らない人はいないという面々だ。観劇歴がまだ浅い私でも何人かはわかる。だが残念なことにこの作品には公演チラシがなかった。「げきみる」のリーフレットやウェブサイトにも出演者やスタッフのクレジットがない。ouTubeの概要欄には書いてあるが、興味が沸かなければYouTubeにアクセスしない。毎年「げきみる」に足を運び今年も何本か見ている知人にこの動画を見たか聞いたところ、出演者を初めて知った、危うく見逃すところだったと言われた。劇場に足を運ぶということと動画サイトにアクセスするということは、意外と似ているのかもしれない。どちらも必要な情報があって初めてなされることなのだと感じた。
 冒頭はトイレから始まった。和風のドア、和風の電灯。色味は全体的に茶色い。洋式トイレだけが青白い。そこから薄暗い海岸に映像は映る。グレーがかった青い海。グレーがかった青い空。日本海独特の色だ。「もしそれが私のものではないならばそれは私のものではない」三人の女は唱えるようにつぶやきながら波打ち際の砂を手で掘っていく。この海はどこだろうと気になっていたら、コメント欄に答えが書いてあることに気づいた。徳光海岸の海だった。
 三人の女は食べる女と流れる女と昇る女だ。生きるために必要なものはそれぞれ違う。彼女たちが自分を語る口調はゆっくりで声のトーンは高くなく心地よく耳に響く。言っていることはよく分からない。自分自身がわかっていればいい。そんな感じがした。では私にとって命を維持することはなんだろうと少し考えてみたくなった。場所は海から移動していた。緑が優しく感じる。この場面に映る景色は穏やかで、耳から聞こえる声の絶妙なトーンもあって、なんだかゆったりできる場面だった。
 場面が変わると、黒い画面の真ん中にピンク色の丸い何かが映し出された。最初はきれいだなと思って見ていた。だんだん丸い何かがゆがんで本来の映像になっていく。花びらかなと思ってその動きを見ていたが花びらではなく、人が入っている細長い袋状の生地だった。薄暗い場所で木目がはっきりとわかる床の上で3つの花びらだと思っていたものはうごめきながら場所を変える。ずっと小さな声でいろんな色をつぶやいていた。色の名前の前には色そのものが生きているかのように形容詞や動詞がついていた。声はだんだん大きくなっていく。
 同じ場所で花びらだったものの代わりに床一面の白い布地が広がっている。白い生地は波のように上下に揺れる。ナレーションはずっと細胞についての説明をしている。その声はイヤホンの右に揺れたり左に揺れたりしていて、だんだん目が回るような感覚になってくる。言葉の効果より音としての効果が強い。耳障りな雑音も小さく入っていて、ずっとなんだか気持ちが悪い。不快さがピークに達した頃、細胞が自爆システムによって爆発を起こし、景色は冒頭の海に戻る。
バラバラに立つ三人。一人ひとり区切るように「サバク」「カワク」「トドク」と一言。女たちは一塊になって波打ち際で楽しそうに笑う。ここでもずっと彼女たちの言葉が流れている。ラストシーンはオスマン・トルコ軍楽の「ジェッディン・デデン」のメロディが強く印象に残る。これまで音楽のように流れていた言葉と実際の音楽がぶつかり合った。映像はきれいにまとまって終わったが、私の中に引っかかるものがあった。
 この作品の中の言葉は演劇の台詞が持つ言葉の力とは違った効果があったように思う。とにかく映像の力が強く、言葉は映像のための音楽に近いものがあった。特徴のある言い回しの台詞は言葉として生きていないように感じた。映像のために紡がれた台詞だったのではないか。


(以下は更新前の文章です)


 今回の作品は「げきみる」3作目のオンライン配信のみの作品だ。このネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』は他の2作品より映像の力が強く出ていた。脚本・演出は支那金魚+ネ・プロミンテ、出演は高田初恵、下條世津子、市川幸子、映像制作・監督は宮向隆。長く石川演劇に携わっている人なら知らない人はいないという面々だ。だが残念なことに「げきみる」のリーフレットやウェブサイトには出演者やスタッフのクレジットがない。YouTubeの概要欄には書いてあるが、興味が沸かなければYouTubeにアクセスしない。毎年「げきみる」に足を運び今年も何本か見ている知人にこの動画を見たか聞いたところ、出演者を初めて知った、危うく見逃すところだったと言われた。劇場に足を運ぶということと動画サイトにアクセスするということは、意外と似ているのかもしれない。どちらも必要な情報があって初めてなされることなのだと感じた。
 「もしそれが私のものではないならばそれは私のものではない」三人の女は唱えるようにつぶやきながら波打ち際の砂を手で掘っていく。この海はどこだろう。冒頭とラストに出てくる浜辺がどこなのか、ものすごく気になった。雰囲気が美川に似ている。でも砂が美川の浜のものとは違う気がしたし、何より砂浜が広い。無難に内灘だろうか。でも内灘という感じがしない。浜がどこであっても本筋とは関係ないとは思いながら気になっていたら、コメント欄に答えが書いてあることに気づいた。徳光の海だった。海が近い場所で私は育った。子どものころには浜で行われる行事が少なからずあった。そのどれもがいい思い出ではない。海は気持ちがざわざわする。
 食べる女がいて流れる女がいて昇る女がいる。生きるために必要なものはそれぞれ違う。彼女たちが自分を語る口調はゆっくりで声のトーンは高くなく心地よく耳に響く。言っていることはよく分からない。自分自身がわかっていればいい。そんな感じがした。では私にとって命を維持することはなんだろうと少し考えてみたくなった。場所は海から移動していた。海からは遠い場所だ。海とは違って優しく感じる。この場面に映る景色は穏やかで、耳から聞こえる声の絶妙なトーンもあって、なんだかゆったりできる場面だった。
 場面が変わると、黒い画面の真ん中にピンク色の丸い何かが映し出された。最初はきれいだなと思って見ていた。だんだん丸い何かがゆがんで本来の映像になっていく。花びらかなと思ってその動きを見ていたが花びらではなく、人が入っている細長い袋状の生地だった。薄暗い場所で木目がはっきりとわかる床の上で3つの花びらだと思っていたものはうごめきながら場所を変える。ずっと小さな声でいろんな色をつぶやいていた。色の名前の前には色そのものが生きているかのように形容詞や動詞がついていた。声はだんだん大きくなっていく。
 同じ場所で花びらだったものの代わりに床一面の白い布地が広がっている。白い生地は波のように上下に揺れる。ナレーションはずっと細胞についての説明をしている。その声はイヤホンの右に揺れたり左に揺れたりしていて、だんだん目が回るような感覚になってくる。言葉の効果より音としての効果が強い。耳障りな雑音も小さく入っていて、ずっとなんだか気持ちが悪い。不快さがピークに達した頃、細胞が自爆システムによって爆発を起こし、景色は冒頭の海に戻る。
 バラバラに立つ三人。一人ひとり区切るように「サバク」「カワク」「トドク」と一言。女たちは一塊になって波打ち際で楽しそうに笑う。ここでもずっと彼女たちの言葉が流れている。この作品の中の言葉は演劇の台詞が持つ言葉の力とは違った効果があったように思う。とにかく映像の力が強く、言葉は映像のための音楽に近いものがあった。ラストシーンはオスマン・トルコ軍楽の「ジェッディン・デデン」のメロディが強く印象に残る。これまで音楽のように流れていた言葉と実際の音楽がぶつかり合った。ときどき自分に刺さる言葉が耳に残る。見終わった後に反芻する時間が欲しくなる。映像はきれいにまとまって終わったが、私の中に引っかかるものがいくつもある作品だった
この文章は、2020年12月11日(金)よりオンライン公開のネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』についての劇評です。

 ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』(脚本:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚&ネ・プロミンテ、映像製作・監督:宮向隆)は、かなざわリージョナルシアター2020げきみるに参加する映像作品である。その映像は、わかりやすい物語仕立てにはできていない。意味を明確に提示しているわけではない。安易に言語化しないで、受け取ったそのままを味わいたい感覚を鑑賞者に与えるこの作品は、まるで詩のようだ。

 冒頭、「はあ」とため息がもれる。そこはトイレだ。流された水が渦を巻いている上に「どこへ行くのですか」の文字が現れ、ぐるぐると回りながら小さくなって消えていく。場面が変わると、そこは海。白い服を着て、裸足で砂浜を歩く女性が3人。やがて彼女達は砂を掘り始める。そして何か言葉を呟いている。「わたしではない」「それはわたしのものではない」「もしそれがわたしのものではないのならば」。彼女達の声は徐々に大きくなり、叫びになっていく。皆、「わたし」が何であり、何を持っているのかを、確かめたがっているように見えた。

 その後、3人の女性それぞれの場面がある。「食べる女」(高田初恵)は、電子レンジでパスタを温めて、皿に出して、テーブルに運び、食べる。「食べることは命を維持することそのもの」と彼女は語る。続いて、「流れる女」(下條世津子)が、木に触れている。枯葉を拾ったり、木の葉を揺らしたりする。木肌に触れた彼女の人差し指の先から、血が滲み、流れ出す。「流れることは命を維持することそのもの」と彼女は語る。そして、草の生い茂る坂に設置された木の階段を上がっていく、「昇る女」(市川幸子)。頂上にたどり着き、空の下で彼女は「空に昇ることは命を維持することそのもの」と語る。彼女達の語る言葉が、詩のように聞こえた。命に対する、3人の信念。それを為すことで、3人はここまで命をつないできた。「食べる」ことは生命維持の基本として必要だが「流れる」ように変わっていくこと、「昇る」ように自らの高みを目指していくことも、生きていく上で大切なことだ。

 映像が変わる。何かの模様のような画面から、段々とそれは、床に転がった、布に包まれた3人の姿だとわかる。3人はうごめきながら、言葉を発する。「濁った無色透明」「限りなくフレッシュブラック」「引き裂かれた紫」など、様々な色を形容している。これらの言葉使いにも詩的な表現を感じた。誰かが最後に「行かないで紫ピンク」と叫んで、この場面は終わる。次の場面では、大きな白い布が揺らめいている。布には、血管や細胞を思わせる赤い模様が映し出されている。ナレーション(下條世津子)が語るのは、生命とは何かについて。細胞の仕組みを説明し、細胞が持つアポトーシスという機能について話す。アポトーシスとは、プログラムされた細胞死のことである。ここでは、映像が液体のような青い模様に変わっている。生命は生き続けているが、その内部では、細胞が自ら、より良い生のために死んでいく。細胞の変化を経ても、私が私でいられることの不思議を考える。

 場面が変わって、再び海辺である。音楽が鳴る。管楽器と打楽器による、トルコ軍楽曲『ジェッティン・デデン』が、妖しくも盛大な印象を映像に付与する。3人は海辺ではしゃいでいる。「生きていかなければ」そのために「働くわ」、そして「私達の苦しみは、後に生きる人の喜びに変わる」「なんのために私達が生きているのか、わかるような気がする」と言葉が続く。

 「生きている」とはどういうことか。単純ながらも簡単には答えの出ない難問に、これまでの自分達の「生」の歴史をかけて回答したのが、この作品なのだと感じる。感染症の流行により、人々の生死の捉え方にも変化が生じているのではないだろうか。死は遠いものではなく、生の延長線上にあるものだが、各々がなんとなく予想している死までの距離は、突然縮まってしまうこともある。死の瞬間がいつ訪れるのか、誰にも予測はできない。だからこそ、今この瞬間も自らの中にある「生」を、そして細胞に備えられている「死」も、意識することが大切ではないか。

 3人が歩いてきた生の道のりの途中には、様々な出来事があっただろう。その一つ一つが、それぞれの抱く信念によって乗り越えられ、自分の糧となっていっただろう。たくさんの栄養を得て育ち、また、得たものと同じくらい何かを失ってきたであろう3人の、生の証が、この映像に刻み込まれている。詩のように抽象的に、けれど鮮やかに。その証もまた新たなる糧として、3人はそれぞれの生を歩いていく。その姿に、人生の少し先を行く、先輩からの応援のようなものを感じた。


(以下は更新前の文章です)


 ネ・プロミンテ『どこへ行くのですか』(脚本:ネ・プロミンテ、演出:支那金魚&ネ・プロミンテ、映像製作・監督:宮向隆)は、かなざわリージョナルシアター2020げきみるに参加する映像作品である。その映像は、わかりやすい物語仕立てにはできていない。意味を明確に提示しているわけではない。安易に言語化しないで、受け取ったそのままを味わいたい感覚を鑑賞者に与えるこの作品は、まるで詩のようだ。

 冒頭、「はあ」とため息がもれる。そこはトイレだ。流された水が渦を巻いている上に「どこへ行くのですか」の文字が現れ、ぐるぐると回りながら小さくなって消えていく。場面が変わると、そこは海。白い服を着て、裸足で砂浜を歩く女性が3人。やがて彼女達は砂を掘り始める。そして何か言葉を呟いている。「わたしではない」「それはわたしのものではない」「もしそれがわたしのものではないのならば」。彼女達の声は徐々に大きくなり、叫びになっていく。皆、「わたし」が何であり、何を持っているのかを、確かめたがっているようだ。

 その後、3人の女性それぞれの場面がある。食べる女(高田初恵)は、電子レンジでパスタを温めて、皿に出して、テーブルに運び、食べる。「食べることは命を維持することそのもの」と彼女は語る。続いて、流れる女(下條世津子)が、木に触れている。枯葉を拾ったり、木の葉を揺らしたりする。木肌に触れた彼女の人差し指の先から、血が滲み、流れ出す。「流れることは命を維持することそのもの」と彼女は語る。そして、草の生い茂る坂に設置された木の階段を上がっていく、昇る女(市川幸子)。頂上にたどり着き、空の下で彼女は「空に昇ることは命を維持することそのもの」と語る。命に対する、3人の信念。それを為すことで、3人はここまで命をつないできた。「食べる」ことは生命維持の基本として必要だが「流れる」ように変わっていくこと、「昇る」ように自らの高みを目指していくことも、生きていく上で大切なことだ。

 映像が変わる。何かの模様のような画面から、段々とそれは、床に転がった、布に包まれた3人の姿だとわかる。3人はうごめきながら、言葉を発する。「濁った無色透明」「限りなくフレッシュブラック」「引き裂かれた紫」「究極のオレンジ」など、様々な色を形容している。誰かが最後に「行かないで紫ピンク」と叫んで、この場面は終わる。次の場面では、大きな白い布が揺らめいている。布には、血管や細胞を思わせる赤い模様が映し出されている。ナレーション(下條世津子)が語るのは、生命とは何かについて。細胞の仕組みを説明し、細胞が持つアポトーシスという機能について話す。アポトーシスとは、プログラムされた細胞死のことである。ここでは、映像が液体のような青い模様に変わっている。生命は生き続けているが、その内部では、細胞が自ら、より良い生のために死んでいく。細胞の変化を経ても、私が私でいられることの不思議を考える。

 場面が変わって、再び海辺であるが、映像はモノクロだ。食べる女が「さ、ば、く」とゆっくり言葉を発する。流れる女は「か、わ、く」と。昇る女は「と、ど、く」と言う。空を映した画面が白くなる。モノクロだった映像がカラーになり、音楽が鳴る。管楽器と打楽器による、トルコ軍楽曲『ジェッティン・デデン』が、妖しくも盛大な印象を映像に付与する。3人は海辺ではしゃいでいる。「生きていかなければ」そのために「働くわ」、そして「私達の苦しみは、後に生きる人の喜びに変わる」「なんのために私達が生きているのか、わかるような気がする」と言葉が続く。海辺に寝転がった3人の姿で、映像は終わる。

 「生きている」とはどういうことか。単純ながらも簡単には答えの出ない難問に、これまでの自分達の「生」の歴史をかけて回答したのが、この作品なのだと感じる。感染症の流行により、人々の生死の捉え方にも変化が生じているのではないだろうか。死は遠いものではなく、生の延長線上にあるものだが、各々がなんとなく予想している死までの距離は、突然縮まってしまうこともある。死の瞬間がいつ訪れるのか、誰にも予測はできない。だからこそ、今この瞬間も自らの中にある「生」を日々実感することが大切ではないか。

 3人が歩いてきた生の道のりの途中には、様々な出来事があっただろう。その一つ一つが、それぞれの抱く信念によって乗り越えられ、自分の糧となっていっただろう。たくさんの栄養を得て育ち、また、得たものと同じくらい何かを失ってきたであろう3人の、生の証が、この映像に刻み込まれている。その証もまた新たなる糧として、3人はそれぞれの生を歩いていく。その姿は、別の誰かが生を行く時の、一つの助けになるだろう。
この文章は、2020年12月5日(土)よりオンライン公開の劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』についての劇評です。

 何がどうあれば演劇になるのだろう。劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(脚本・演出:内尾涼介、撮影:岩尾龍太郎、内尾涼介、編集:内尾涼介)は、そんな途方もなく大きな疑問を私に抱かせた。劇団情熱劇場は、今年旗揚げしたばかりの劇団だ。かなざわリージョナルシアター2020げきみるにて初公演となる予定であったが、コロナ禍の状況を踏まえ、映像作品での参加となったそうだ。この経緯がまた、「何が演劇になるのか」という疑問に複雑に絡んでくる。舞台作品と映像作品の違いについても考えなくてはいけないからだ。映像だから演劇ではない、というわけでは決してない。録画、編集されたものであっても、映像効果がふんだんに取り入れられていても、演劇であると強く感じる作品はある。しかし、『親殺しのパラドックス』を鑑賞して、演劇であるとはどういうことか、という疑問が生まれてしまった。その理由は何にあるのか。

 作品の舞台は大学のSF研究会。部長の坂本(内尾涼介)が部室に来ると、部員の小野(山岸光)が久しぶりに顔を見せる。小野はタイムマシンを作ったという。それは電卓に箱型のライトが付いたような形をしている。行きたい年月日と時刻を入力すると、その時間に行けるというのだ。小野には疑問に思っていることがあった。それは「親殺しのパラドックス」だ。過去にいる親を殺すと、未来の自分も消えてしまうのか。小野はタイムマシンのテストを始める。タイムマシンを作動させるため走った小野は、光って消える。小野が消えた後、光とともに何かが出現した。それは小野でなかった。新入部員かと勘違いした坂本が名前を尋ねると、彼は小野純一(新田龍一)だという。純一は小野のノートに興味があるようだ。坂本がジュースを買いに行っている間に、純一は消える。そして小野が帰ってくる。実験は成功だ。小野が不在の間に再び訪れた純一によると、彼は未来から来た、小野の息子だという。彼もまた「親殺しのパラドックス」を疑問に思っていた。よって、小野は純一に命を狙われることになる。

 タイムマシンやタイムパラドックスなど、SF的な知識が筆者にはない。だからこそ、知識を持たない者でも納得してしまうほどの説得力が、物語に欲しい、と感じた。説明が足りないわけではない。言葉以外でわかりやすく伝えるのは至難の技だとは思う。そしてこれは「味」と捉える向きもあるだろうし、あえての選択なのだろうとは思うが、話し方や受け答え、身振りなどの演技、小道具、音楽の選択、映像処理の使い方などに見られる「ゆるさ」が物語への感情移入を遠ざけているように感じた。小野を殺そうと追う純一と小野の間に緊張が感じられない。タイムマシンの作り方が書かれているはずの大事なノートに、何かが書いてあるようには見えない。SF研究会の部室のはずなのに、レンタル会議室の注意書きが貼ってある。など、非常に些細なことまでが気になってくる。

 「簡単さ」が、この作品を語る上でのキーワードになるだろう。昔なら専用の機材をあれこれ準備しなければできなかった撮影も、編集も、スマホがあればできてしまう。配信されている動画のタイトルに「歌ってみた」「踊ってみた」など「してみた」が付くものがあるが、この「できる環境があるからやってみた」感覚が『親殺しのパラドックス』にも漂っている。ただそれは悪い話ではない。しなくてもいい苦労はしないほうがいい。苦労をすればいいものができるわけではない。ある環境は使えばいい。しかし、誰でもできるからこそ、競争は厳しくなっている。もう一つキーワードを挙げるなら「軽さ」だ。命の扱われ方があまりにも軽い。その軽さが今の感覚なのかもしれないが、先に記載した「ゆるさ」とつながって、親殺しという題材の深刻さは薄れている。

 この作品に、演劇という何かへの疑問を抱かせる要因があるとして、その一つには、観客の不在が挙げられるのではないか。録画している時も、編集している時も、そこにあるのは創り手の視点だけだ。目の前にいない観客の反応や受け取り方を想像して制作できればいいのだろうが、自分の行いを客観視し、時には自分で修正しなければいけないことは難しい。

 何が演劇になるのか。いや、そもそも、演劇という何かにならなければいけない理由もないのではないか。ボーダーレスな表現が、演劇の形態も変えていくのだろう。『親殺しのパラドックス』もその萌芽の一つなのかもしれない。しかし、演劇というジャンルの進化が起きているとしても、まだまだそれは途上にある。やってみることができるからこそ、やってみた先に何が訪れる可能性があるのか、それは観客に何をもたらすのかを、想像してみる必要がある。


(以下は更新前の文章です)


 何がどうあれば演劇になるのだろう。劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(脚本・演出:内尾涼介、撮影:岩尾龍太郎、内尾涼介、編集:内尾涼介)は、そんな途方もなく大きな疑問を私に抱かせた。劇団情熱劇場は、今年旗揚げしたばかりの劇団だ。かなざわリージョナルシアター2020げきみるにて初公演となる予定であったが、コロナ禍の状況を踏まえ、映像作品での参加となったそうだ。この経緯がまた、「何が演劇になるのか」という疑問に複雑に絡んでくる。舞台作品と映像作品の違いについても考えなくてはいけないからだ。映像だから演劇ではない、というわけでは決してない。録画、編集されたものであっても、映像効果がふんだんに取り入れられていても、演劇であると強く感じる作品はある。しかし、『親殺しのパラドックス』を鑑賞して、演劇であるとはどういうことか、という疑問が生まれてしまった。その理由は何にあるのか。

 作品の舞台は大学のSF研究会。部長の坂本(内尾涼介)が部室に来ると、部員の小野(山岸光)が久しぶりに顔を見せる。小野はタイムマシンを作ったという。それは電卓に箱型のライトが付いたような形をしている。行きたい年月日と時刻を入力すると、その時間に行けるというのだ。小野には疑問に思っていることがあった。それは「親殺しのパラドックス」だ。過去にいる親を殺すと、未来の自分も消えてしまうのか。小野はタイムマシンのテストを始める。タイムマシンを作動させるため走った小野は、光って消える。小野が消えた後、光とともに何かが出現した。それは小野でなかった。新入部員かと勘違いした坂本が名前を尋ねると、彼は小野純一(新田龍一)だという。純一は小野のノートに興味があるようだ。坂本がジュースを買いに行っている間に、純一は消える。そして小野が帰ってくる。実験は成功だ。小野が不在の間に再び訪れた純一によると、彼は未来から来た、小野の息子だという。彼もまた「親殺しのパラドックス」を疑問に思っていた。よって、小野は純一に命を狙われることになる。

 タイムマシンやタイムパラドックスなど、SF的な知識が筆者にはない。だからこそ、知識を持たない者でも納得してしまうほどの説得力が、物語に欲しい、と感じた。説明が足りないわけではない。言葉以外でわかりやすく伝えるのは至難の技だとは思う。そしてこれは「味」と捉える向きもあるだろうし、あえての選択なのだろうとは思うが、話し方や受け答え、身振りなどの演技、小道具、音楽の選択、映像処理の使い方などに見られる「ゆるさ」が物語への感情移入を遠ざけているように感じた。小野を殺そうと追う純一と小野の間に緊張が感じられない。タイムマシンの作り方が書かれているはずの大事なノートに、何かが書いてあるようには見えない。SF研究会の部室のはずなのに、レンタル会議室の注意書きが貼ってある。など、非常に些細なことまでが気になってくる。

 この作品に、演劇という何かへの疑問を抱かせる要因があるとして、その一つには、観客の不在が挙げられるのではないか。録画している時も、編集している時も、そこにあるのは創り手の視点だけだ。目の前にいない観客の反応や受け取り方を想像して制作できればいいのだろうが、自分の行いを客観視し、時には自分で修正しなければいけないことは難しい。

 「簡単さ」が、この作品を語る上でのキーワードになるだろう。昔なら専用の機材をあれこれ準備しなければできなかった撮影も、編集も、スマホがあればできてしまう。配信されている動画のタイトルに「歌ってみた」「踊ってみた」など「してみた」が付くものがあるが、この「できる環境があるからやってみた」感覚が『親殺しのパラドックス』にも漂っている。ただそれは悪い話ではない。しなくてもいい苦労はしないほうがいい。苦労をすればいいものができるわけではない。ある環境は使えばいい。しかし、誰でもできるからこそ、競争は厳しくなっている。もう一つキーワードを挙げるなら「軽さ」だ。命の扱われ方があまりにも軽い。その軽さが今の感覚なのかもしれないが、先に記載した「ゆるさ」とつながって、親殺しという題材の深刻さは薄れている。

 何が演劇になるのか。いや、そもそも、演劇という何かにならなければいけない理由もないのではないか。ボーダーレスな表現が、演劇の形態も変えていくのだろう。『親殺しのパラドックス』もその萌芽の一つなのかもしれない。しかし、演劇というジャンルの進化が起きているとしても、まだまだそれは途上にある。やってみることができるからこそ、やってみた先に何が訪れる可能性があるのか、それは観客に何をもたらすのかを、想像してみる必要がある。