(劇評)「役者の力を見た『八人の女』」中村ゆきえ | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2020年11月28日(土)19:00開演のチロルマーケット『8人の女』についての劇評です。

 石川県内の演劇を見るようになってまだ数年の私ですら、名前を見て期待せずにはいられないキャスト陣だ。楽しみにしていた人も多いだろう。ただ、残念ながらコロナ禍での上演のため客席は通常の約半分で、チケットを取れなかった人もいたのではないだろうか。チロルマーケット『八人の女』(原作/ロベール・トマ、翻訳/和田誠一)はドラマリーディングという形式をとっていた。これもコロナ禍の影響を受けてのことだろう。
 物語は当主の娘のシュゾン(金山古都美)が冬休みに帰省してくるところから始まる。妹のカトリーヌ(宗村春菜)が父・マルセルを起こしに行くと父は背中を刺されて死んでいた。状況から犯人はこの8人の中にいる。そこで今帰ってきたばかりのシュゾンが自分は無関係とばかりに推理を始める。8人の女たちはみんな少しずつ嘘をついていて、その嘘が徐々に明らかになっていく。
 舞台上は十分な距離を取って椅子が置かれていた。そのうちの2脚は奥の階段4段分ほど高くなっている場所にあった。演者たちは芝居に応じて動いたり移動したりしていたので完全に座りっぱなしではない。立ち居地もかなり移動する。移動する場合は距離を取る。話にあわせて袖に捌ける場面も何回かあった。感染防止に配慮しながらも思った以上に動きがあってとてもよかった。しかし、何か物足りない。
 この『八人の女』の時代設定は1950年代だが、演じる役者たちに時代的な違和感がない。この違和感のなさはすごいと思う。屋敷の主は工場を営んでいて、自分の家族の他にお手伝いさんを2人と妻の母と妻の妹を一緒に住まわせている裕福な家だ。犯人探しをしていくうちに女たちの嘘や秘密が次々にばれていくが、この嘘や秘密は女たちが生きるために必要なことであろう。おそらく自分で収入を得て生活をしているのはお手伝いのシャネル(山本久美子)くらいだ。それもきっと十分ではない。だから女たちは強くしたたかでなくては生きていけない。生きていくために彼女たちがこだわったのはマネーだ。女たちはお金のために嘘をつき駆け引きをした。その駆け引きとは無縁だったのが15歳のカトリーヌだった。
 主役は8人の女たちだ。当時の女性が置かれている状況がよくわかるように描かれているが、悲壮感はあまり感じない。女たちが強く生きる姿と俳優たちの芝居のパワーがうまく合致しているし、8人のバランスは拮抗していて見ていて楽しい。キャラクターは確立されていたし、一人ひとりの役者について語りたいくらいだ。細かいことを言えば、何人かセリフを噛んだり言い直したりしていて、普通の舞台演劇なら流せるところで目立ってしまったのが残念だった。他のリーディング公演でも普段よりセリフを噛む役者が多いと感じていたので、この形式の公演ではありがちなのかもしれない。思い描いたものとちょっと違ったなと感じた人もいたが、私の勝手なイメージなのでそれは置いておく。でもそれを置いたとしてもどこか引っかかる。
 もしかしたらこれもリーディングあるあるなのかもしれないが、テンポが速くて慌ただしく感じる。セリフを噛むのはこのテンポのせいなのでは?とも思ったが、早口なわけではない。セリフの速さというより「間」が全体的に短縮されているような気がする。舞台上にはその芝居を少しも見逃したくない8人の女がいるのだ。見ている方は結構忙しい。間が短いことで芝居そのものに余韻がなかったのかもしれない。せっかくの演技を味わう暇がない。もっとゆっくり堪能したかった。そこが物足りなさを感じた理由かもしれない。いつか通常の演劇作品でこの8人の競演を見てみたい。