(劇評・1/7更新)「作り手の思いをもっと伝えて」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2021年12月18日(土)16:00開演の劇団羅針盤『教室に先生と勇者』についての劇評です。

ひと皮剥けた、と言っても良いのではないか。12月17〜19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた劇団羅針盤の公演『教室に先生と勇者』(作・演出:平田知大)。この劇団に対しては、以前の劇評(2017/12/15「奔放なイメージに追いつけない言葉と身体」)で苦言を呈したことがあったが、今回は息もつかせぬハイスピードな展開にもかかわらず、役者たちの発声が良いのでセリフが聞き取りやすかった。特にcoffeeジョキャニーニャの間宮一輝、劇団KAZARI@DRIVEの朱門という2人の客演が功を奏したと思う。彼らと共同作業を行う必要性から、従来の飛躍し過ぎた世界観がややセーブされ、言葉が俳優の肉体にしっかりと根を下ろして普通に見やすい作品に仕上がっていた。羅針盤のコアなファンではない私にとっても楽しめた。

高校の教室。授業中に「来たか!」とか「くそっ!」などと叫んで突然出て行ってしまう生徒・加藤(能沢秀矢)は、腕や頭に負傷して包帯を巻いて帰って来たりする。担任の数学教師・応真(平田知大)は心配する。社会教師・風祭(間宮一輝)によれば、加藤はロールプレイングゲーム(RPG)で勇者として戦っているらしい。彼はゲームに熱中するあまり、先生から進路希望を聞かれた際も「勇者」と答えるのだった。同じクラスには7回も留年して今だに高校3年生の番長(朱門)がいる。いつも3階のトイレでタバコを吸っている彼もまた、ゲームの世界で役割を演じていた。応真は生徒のことを理解するため、風祭に訊ねながら、ゲームを始めてみる。やがて応真は、自分がかつてその世界で氷の魔神(能沢)や炎の魔神(朱門)、風の魔神(風祭)らを従える魔王だったことを思い出していく。

スリムな体つきに少年のようなボサボサ髪の加藤、ガテン系の筋肉質な体型に人懐っこい笑みを浮かべる番長、むっつりした外見の下に野望を隠し持った風祭先生、生徒思いが高じてゲームの世界まで追いかけて行く応真先生とそれぞれのキャラクターが役者にぴったりとはまって魅力的だった。4人の登場人物が現実(高校)と虚構(ゲーム)の世界を行き来しながら、1人で何役も演じ、刀剣を手に殺陣を繰り広げる。加藤と番長のイケメン2人は現「勇者」と元「勇者」というライバル同士であり、競い合いながらもお互いをさりげなく思いやる関係性が素敵だ。番長というキャラクター自体、1980年代の学園物ドラマを連想させて懐かしかった。一方では風祭と応真のコンビも、トボけた感じが絶妙に可笑しかった。

個々の場面は面白い、面白いの連続。つい声を上げて笑ってしまったシーンも少なくない。随所に盛り込まれたチャンバラもスリル満点で見事だった。とは言え、全体としてどういう話なのかと考えてみると、よくわからない。錯綜するストーリーの中から次第に何らかの意味が浮かび上がって来るのかと期待したが、そういう仕掛けもなかった。最初はゲームの世界に取り込まれた生徒を先生が助けに行く話なのかと思った。しかし、いつの間にかミイラ取りがミイラになり、先生があちらの世界でも主役級の「魔王」になっている。しかもなぜそうなってしまったのかがよくわからない。そもそも魔王という奴はどの程度の悪者なのか。人類を滅ぼそうとしているのか。そいつがいたら誰か困るのか。そういう情報がまったくない。ただ魔王は、魔王だから、魔王なのだという感じ。そんな魔王と勇者は何のために戦うのかが理解不能だった。見ている間はそれなりに刺激的なのだが、見終わった後で何も心に残らない。

終演後の舞台挨拶で平田は「コロナ後も北陸の皆さんに娯楽を届けたい」と語っていた。「娯楽」という言葉につい引っかかった。まるで都合のいい免罪符のように響いたからだ。彼の言い分によれば、「娯楽」なのだから、テーマなど必要ない、切れ味の鋭い殺陣をお見せすれば、満足してもらえるはずだ、ということなのだろうか。しかし、1時間半も席に座っていた観客としては、この作品はこういうことを言いたかったのかと見た後で気付くようなテーマを明確に伝えてくれた方が納得できるし、何かをもらったような気分で家へ帰れるんですけど、と言いたいのだ。

「ゲーム」というキーワードでつい連想してしまったが、昨年のNetflixで世界的に大ヒットした『イカゲーム』という韓国ドラマがある。謎の無人島に集められた人々が「だるまさんがころんだ」や綱引き、ビー玉といった誰でも知っているゲームに挑戦する。最終的な勝者には数十億円もの賞金が約束されている一方、途中で負ければ命を奪われるという残酷なルールになっている。バイオレンス満載の殺伐としたドラマなのだが、それでも登場人物たちがゲームをクリアする過程でハラハラドキドキさせられたり、男女の濡れ場があったり、人間にとって本当の強さとは何かと考えさせられたりもする。しかも見終わった後で、まぎれもなく現代の厳しい格差社会を反映した作品だとわかるし、人々がこんなゲームに参加せざるを得なくなった事情についてもきちんと描かれているので納得できる。娯楽性とテーマ性は決して相反するものではなく、深い次元で両立可能なのだ。劇団羅針盤においても、「娯楽を届けたい」と宣言するからには、チャンバラカッコいい、ギャグウケる、だけでなく、作り手の思いが観客側にもちゃんと伝わるような作品作りをぜひともお願いしたい次第だ。

(以下は更新前の文章です。)

(劇評)「2人の客演が奏功して見やすく」原力雄

ひと皮剥けた、と言っても良いのではないか。12月17〜19日に金沢市民芸術村ドラマ工房で行われた劇団羅針盤の公演『教室に先生と勇者』(作・演出:平田知大)。この劇団に対しては、以前の劇評(2017/12/15「奔放なイメージに追いつけない言葉と身体」)で苦言を呈したことがあったが、今回は息もつかせぬハイスピードな展開にもかかわらず、役者たちの発声が良いのでセリフが聞き取りやすかった。特にcoffeeジョキャニーニャの間宮一輝、劇団KAZARI@DRIVEの朱門という2人の客演が功を奏したと思う。彼らと共同作業を行う必要性から、従来の飛躍し過ぎた世界観がややセーブされ、言葉が俳優の肉体にしっかりと根を下ろして普通に見やすい作品に仕上がっていた。羅針盤のコアなファンではない私にとっても楽しめた。

高校の教室。授業中に「来たか!」とか「くそっ!」などと叫んで突然出て行ってしまう生徒・加藤(能沢秀矢)は、腕や頭に負傷して包帯を巻いて帰って来たりする。担任の数学教師・応真(平田知大)は心配する。社会教師・風祭(間宮一輝)によれば、加藤はロールプレイングゲーム(RPG)で勇者として戦っているらしい。彼はゲームに熱中するあまり、先生から進路希望を聞かれた際も「勇者」と答えるのだった。同じクラスには7回も留年して今だに高校3年生の番長(朱門)がいる。いつも3階のトイレでタバコを吸っている彼もまた、ゲームの世界で役割を演じていた。応真は生徒のことを理解するため、風祭に訊ねながら、ゲームを始めてみる。その世界では加藤は氷の魔神、番長は炎の魔神、風祭は風の魔神でもあった。やがて応真は、自分がかつてゲームの世界で魔王を演じていたことを思い出していく。

スリムな体つきに少年のようなボサボサ髪の加藤、ガテン系の筋肉質な体型に人懐っこい笑みを浮かべる番長、むっつりした外見の下に野望を隠し持った風祭先生、生徒思いが高じていつの間にか魔王になってしまった応真先生とそれぞれのキャラクターが役者にぴったりとはまって魅力的だった。4人の登場人物が現実(高校)と虚構(ゲーム)の世界を行き来しながら、1人で何役も演じ、刀剣を手に殺陣を繰り広げる。加藤と番長のイケメン2人は現「勇者」と元「勇者」というライバル同士であり、競い合いながらもお互いをさりげなく思いやる関係性が素敵だ。番長というキャラクター自体、1980年代の学園物ドラマを連想させて懐かしかった。一方では風祭と応真のコンビも、トボけた感じが絶妙に可笑しかった。

個々の場面は面白い、面白いの連続。つい声を上げて笑ってしまったシーンも少なくない。随所に盛り込まれたチャンバラもスリル満点で見事だった。とは言え、全体としてどういう話なのかと考えてみると、よくわからない。錯綜するストーリーの中から次第に何らかの意味が浮かび上がって来るのかと期待したが、そういう仕掛けもなかった。最初はゲームの世界に取り込まれた生徒を先生が助けに行く話なのかと思った。しかし、いつの間にかミイラ取りがミイラになり、先生があちらの世界でも主役級の「魔王」になっている。しかもなぜそうなってしまったのかがよくわからない。そもそも魔王という奴はどの程度の悪者なのか。人類を滅ぼそうとしているのか。そいつがいたら誰か困るのか。そういう情報がまったくない。ただ魔王は、魔王だから、魔王なのだという感じ。そんな魔王と勇者は何のために戦うのかが理解不能だった。見ている間はそれなりに刺激的なのだが、見終わった後で何も心に残らない。

終演後の舞台挨拶で平田は「コロナ後も北陸の皆さんに娯楽を届けたい」と語っていた。「娯楽」という言葉につい引っかかった。まるで都合のいい免罪符のように響いたからだ。彼の言い分によれば、「娯楽」なのだから、テーマなど必要ない、切れ味の鋭いチャンバラをお見せすれば、満足してもらえるはずだ、ということなのだろうか。しかし、1時間半も席に座っていた観客としては、この作品はこういうことを言いたかったのかと見た後で気付くようなテーマを明確に伝えてくれた方が納得できるし、何かをもらったような気分で家へ帰れるんですけど、と言いたいのだ。