(劇評・12/29更新)「自分の役割」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2021年12月18日(土)16:00開演の劇団羅針盤『教室に先生と勇者』についての劇評です。

 誰にも役割がある。それは好きで選んだ場合もあるだろうし、そうではないこともあるだろう。自分の役割に納得していたとしても、もし、違う役割をやってみることができたら? と想像してしまうことがあるだろう。劇団羅針盤第53回公演『教室に先生と勇者』はロールプレイング(役割演技)ゲームをモチーフにした芝居だった。

 舞台上手に置かれた黒いボードは、RPGゲームのコマンド選択画面を模していた。白字で「はい」と「いいえ」、そしてカーソル位置を表す横向きの三角形。下手には黒板などが置かれている。中央背面には鉄パイプのようなもので、校舎を簡略化した形が作られている。校舎中央の突出した部分の上部に時計があり、時刻は10時10分を指している。舞台中央には木製の椅子がぽつんと一脚、置かれている。

 教室で応真(平田知大)は生徒の出席を取る。そして数学の授業を始める。しかし、いつもあるタイミングになると、生徒の一人、加藤(能沢秀矢)が席を立ち、どこかに行ってしまうのだ。しかし、他の生徒はその行動について何も気にしてはいない。加藤は大怪我をして登校してくることもある。かと思えば、次の日には怪我がすっかり治っているのだ。怪しい社会の教師、風祭(間宮一輝)や、7年留年しているらしい番長(朱門)に話を聞きながら、応真は謎を探る。どうやら加藤は「勇者」らしい。

 勇者加藤が戦うのは、氷の魔神(能沢秀矢)、炎の魔神(朱門)、風の魔神(間宮一輝)、土の魔神と、魔王(平田知大)。それぞれ二役を演じる彼らは、体勢を変え、瞬時に別の役柄になる。その素早さが、芝居の展開にスピード感を与える。そして戦いの場面では、彼らが得意とする、勢いと迫力のある殺陣を観せる。観客を上演に参加させてしまう仕組みもあった。座席の座布団の下に、番号と文字を書いた紙が忍ばせてあったのだ。筆者の観劇時にはノリのよい観客が役を引き当てたため、観客参加ならではの賑わいが芝居に交えられた。

 学校世界とは違う世界に、加藤は勇者となって向かう。その二つの世界は別々なようで関連がある。加藤のクラスの生徒達は、実はもう一つの世界では、道具屋や宿屋など、別の役割を生きていたのだ。魔王達の手によって死んでしまった彼らを救うには、勇者が魔王を倒すしかない。そのために加藤は毎日戦っているのだ。そして番長はかつての勇者で、仲間達を救うことができず、複雑な思いを抱えながら学校に残っていたのだった。このように二つの別世界が存在していることが、ファンタジー世界そのものを芝居にした作品との大きな違いだ。別世界の存在を一段上から見るように設定したのは、どんな意図があるのだろうか。

 そこに、自分の普段の役割とは違う役割を演じてみたい気持ちの表現はあるだろう。特にPRGを遊んだことがある者にとっては、勇者や戦士、魔法使い、僧侶などの職業のキャラクターをゲーム上で動かすことに親しみがあるはずだ。勇者として派手に戦ってみたい。そんな気持ちは、劇団羅針盤の活気ある舞台で再現するにふさわしい。彼らの得意な殺陣も存分に演じることができる。ただそれは、純粋なファンタジー世界を演劇として展開しても実現できる。

 二つの世界を同時に存在させたのは、われわれの生活が、一つの世界だけに留まっていないことの現れなのではないか。実生活ではおとなしく地味に過ごしている人物が、SNS上では元気な人気者だったりすることがある。人にはいくつかの面があるが、そのどれかが正しく、どれかが間違っているわけでもなく、どれもが自分なのだ。そして、そのように違う自分を表現する術も、SNSをはじめさまざまに存在する。演劇だってその一つではないか。自分とは違う役になってみることができる。

 しかし、この役割がこの芝居では「勇者だから善」「魔王だから悪」というように固定化されていて、その前提には何の疑問も呈されていなかった点は気になった。例え悪の魔王であっても、悪として行動するには何らかの理由があることだろう。その掘り下げがなされていると、物語に深みが出たのではないか。

 違う世界でちょっと違う自分になることはできる。しかし、どんな世界に行こうとも、自分がやるべきことはある。出演者達は、演じる自分を手に入れ、観客を楽しませる役割を担った。観客は芝居の上演中、演者達の表現を受け止める役割に着いている。観客がいなければ舞台は成立しない上に、この舞台では、俳優が観客を生徒と見なしたり、魔神と見なしたりと、観客も舞台の一部として取り込んでいたのだ。現実世界から距離を取った演劇世界の中で、演者も観客も、しばし違う自分を体験する。それは演劇の一つの効能であり、楽しみである。意気揚々とかっこよく、勇者や魔神、魔王の役割に扮した彼らの躍動感溢れる演劇世界に、心を躍らせる時間だった。


(以下は更新前の文章です)


 誰にも役割がある。それは好きで選んだ場合もあるだろうし、そうではないこともあるだろう。自分の役割に納得していたとしても、もし、違う役割をやってみることができたら? と想像してしまうことがあるだろう。劇団羅針盤第53回公演『教室に先生と勇者』はロールプレイング(役割演技)ゲームをモチーフにした芝居だった。

 舞台上手に置かれた黒いボードは、RPGゲームのコマンド選択画面を模していた。白字で「はい」と「いいえ」、そしてカーソル位置を現す横向きの三角形。下手には黒板などが置かれている。中央背面には鉄パイプのようなもので、校舎を簡略化した形が作られている。校舎中央の突出した部分の上部に時計があり、時刻は10時10分を指している。舞台中央には木製の椅子がぽつんと一脚、置かれている。

 教室で応真(平田知大)は生徒の出席を取る。そして数学の授業を始める。しかし、いつもあるタイミングになると、生徒の一人、加藤(能沢秀矢)が席を立ち、どこかに行ってしまうのだ。しかし、他の生徒はその行動について何も気にしてはいない。加藤は大怪我をして登校してくることもある。かと思えば、次の日には怪我がすっかり治っているのだ。怪しい社会の教師、風祭(間宮一輝)や、7年留年しているらしい番長(朱門)に話を聞きながら、応真は謎を探る。どうやら加藤は「勇者」らしい。

 勇者加藤が戦うのは、氷の魔神(能沢秀矢)、炎の魔神(朱門)、風の魔神(間宮一輝)、土の魔神と、魔王(平田知大)。それぞれ二役を演じる彼らは、体勢を変え、瞬時に別の役柄になる。その素早さが、芝居の展開にスピード感を与える。そして戦いの場面では、彼らが得意とする、勢いと迫力のある殺陣を魅せる。観客を上演に参加させてしまう仕組みもあった。座席の座布団の下に、番号と文字を書いた紙が忍ばせてあったのだ。筆者の観劇時にはノリのよい観客が役を引き当てたため、観客参加ならではの賑わいが芝居に交えられた。

 学校世界とは違う世界に、加藤は勇者となって向かう。その二つの世界は別々なようで関連がある。加藤のクラスの生徒達は、実はもう一つの世界では、道具屋や宿屋など、別の役割を生きていたのだ。魔王達の手によって死んでしまった彼らを救うには、勇者が魔王を倒すしかない。そのために加藤は毎日戦っているのだ。そして番長はかつての勇者で、仲間達を救うことができず、複雑な思いを抱えながら学校に残っていたのだった。このように二つの別世界が存在していることが、ファンタジー世界そのものを芝居にした作品との大きな違いだ。別世界の存在を一段上から見るように設定したのは、どんな意図があるのだろうか。

 そこに、自分の普段の役割とは違う役割を演じてみたい気持ちの表現はあるだろう。特にPRGを遊んだことがある者にとっては、勇者や戦士、魔法使い、僧侶などの職業のキャラクターをゲーム上で動かすことに親しみがあるはずだ。勇者として派手に戦ってみたい。そんな気持ちは、劇団羅針盤の活気ある舞台で再現するにふさわしい。彼らの得意な殺陣も存分に演じることができる。ただそれは、純粋なファンタジー世界を演劇として展開しても実現できる。

 二つの世界を同時に存在させたのは、われわれの生活が、一つの世界だけに留まっていないことの現れなのではないか。実生活ではおとなしく地味に過ごしている人物が、SNS上では元気な人気者だったりすることがある。人にはいくつかの面があるが、そのどれかが正しく、どれかが間違っているわけでもなく、どれもが自分なのだ。そして、そのように違う自分を表現する術も、SNSをはじめさまざまに存在する。演劇だってその一つではないか。自分とは違う役になってみることができる。

 違う世界でちょっと違う自分になることはできる。しかし、どんな世界に行こうとも、自分がやるべきことはある。受け入れなければならない役割がある。あるいは自分から求めて手に入れる役割もある。出演者達は、演じる自分を手に入れ、観客を楽しませる役割を担った。観客は芝居の上演中、演者達の表現を受け止める役割に着いている。観客の中には、誰かに感想を伝える役割に着く者もいれば、上演について記して残す役割の者もいる。

 会場にいる全員に、演劇から離れた生活の上での役割がある。それを楽しんでいる者もあれば、そうではない者もあるだろう。現実世界から距離を取った演劇世界の中では、演者も観客も、しばし違う自分を体験することができる。それは演劇の一つの効能であり、楽しみである。意気揚々とかっこよく、勇者や魔神、魔王の役割に扮した彼らの躍動感溢れる演劇世界に、心を躍らせる時間だった。