久しぶりにこのブログを開きました。

前回の書き込みが2021年4月11日だから4年8ヶ月ぶり?

その間に社会のありかたは随分と変わりましたが、僕の境遇も大きく変わりました。

 

【金刺さんシリーズ】と【アウシュヴィッツシリーズ】はまだ結論を書けてなかったのですが、近々書こうと思います。

書くのに十分な社会情勢や情報が集まりましたから。

 

しかし今日の話題はAIです。

4年前はAIは社会的な話題になっていませんでした。

急に話題になるときはウラに何かある。

そう考えるのは歴史を見ればわかります。

 

僕が4年前に勤めていた会社では、給与計算にすでにAIを導入していました。

だから何をそんなに騒いでいるのかという気がしないわけでもありません。

 

熊本の企業の方々に伺うと、どのようにAIを導入したらいいのかよくわからないといいます。

そんな皆さんはコストカットを考えておられるようで。

そこ、野良コンサルが虎視眈々と狙ってますよ!といいたい気持ちは置いておいて。

 

こんな記事が出てました。

Gigazine

「ヨーロッパの銀行がAI導入で20万人の雇用削減を計画」‼️

 

まあ「Gigazine」のコタツ記事ですから話半分の可能性大なのですが。

「こんなことになってまっせ」と地方の(いや都会も含めて)中小零細企業にSiriを叩きに来るのが上記のコンサルです。

で、いいなりになって導入すると混乱があって人を切って残った社員が忙しくなったりして。

 

なんどか海外に業務で行き、先方で企業や組織を視察して思ったことがあります。

それは組織としてのパーパス(社会的目的)が明確で組織内で共有されており、それによって組織員一人ひとりのミッション(役割)が明快で、それにより組織員ごとの業務範囲が定められていたことです。

だから、自分の仕事が終われば隣の人が忙しくても“That's not my job”ということで帰っちゃう。

でも組織のパーパスとミッションが明確だから、「社会を良くする私」という意識が明確で、その分、ものすごい集中力を出すことができ、意見の相違がある場合には議論することを厭わない。そして議論の勝ち負けは「社会を良くする私」の衝突であって、その結果自分の意見を曲げることになっても「社会を良くする私たち」のアウフヘーベン的な思考の一致という建前であと腐れなく終わる(場合によってはあるし、まあ、ほんとはある)。

そんな立て付けになっとるわけです。

まあ大きめの社会的にきちんと稼働しているところばかりだったので中小零細組織だったりすると違うとは思いますが。

 

そのような組織でAIを導入するとどうなるか。

たとえば事務作業。

僕がいた会社のように、人件費計算に従事している人がいるわけです。

その作業が代替可能となったらその人は不要となる。

わかりやすいですね。

Gigazineの記事はエキセントリックだと思いますが、そういう単純作業の人が膨大な事務作業を抱える銀行には多くいたことと思います。

 

日本企業はどうでしょうか。

そういう意味での多少の人員整理は出てくると思います。

しかし日本の企業や組織で欧米と大きく違うことがあります。

それは社員・組織員のミッションや業務範囲が欧米の大企業や大組織ほど明確ではないということです。

もっといえば人事考課で指定されたミッションや業務範囲が、企業や組織がその人に求めていること全てではないというところが問題です。

日本では専門職を除いてゼネラリストとして採用されます。

大半の新入社員が幹部候補生だということです。

むかしは東大京大一橋出身のみが幹部候補といわれていましたが、現在は多くの大組織でそれより人物人格能力本位に変わってきています。

それでも東大京大一橋や早慶が多いというのは、切磋琢磨や集中力や人脈において一等地抜けているということでしょうし、日本の社長で一番多いのが日大だったり、地方においては地方国立大学出身の社長が多いというのもまた理由があることだと思います。

そういう幹部の器になる可能性ある行動や成果について、コンサルが作るような人事考課のミッションや業務範囲で明文化できているのか。

もちろんできていません。

それは上司が見て、明文化されない部分をあわせて判断されていきます。

 

つまり、日本の組織においては、組織的に明文化され割り振られたミッションや業務範囲ではない部分で人は評価されている部分がある。

そしてそれが組織として重要な人事評価であったりする。

恣意が入り込む余地はとても大きいのですが、1990年頃に「日本企業は人件費比率が高すぎる」という財界の掛け声でアメリカ型の成果給制度・能力給制度を日本型雇用に無理やり持ち込んだ結果、こんなことになってしまいました。

 

で、この状況で社内や組織内で定められた「業務範囲」表に基づいて、AI導入で人を切ることが可能だろうかと。

それは本当は有用な人材を切ることになるわけです。

もちろん現場としてはそれをよくわかっている。

人事部もわかっている。きちんと仕事をしている人事部ならば。

 

 

そういうわけでGigazineの記事は煽りとしてはいいのですが、日本の企業社会が全く同様に動くとしたら、その組織には危機が訪れる予感しかしないわけです。

まず企業としてのパーパスと、それに紐づく部署と人員のミッションと業務領域、そして部署ごとに差配して部員のミッションと業務範囲をきれいにしてみてはどうかと思う次第です。

しかし地方の中小零細企業の場合はそこまで整理するのが難しいかもしれません。

そのような場合は人員整理とか経費削減のためにAIを使うのではなく、売上を上げる、社員活動の効率を上げるためにAIを導入してはどうでしょう。

AIは、いわばこれまでプロや職人的な人が積み上げてきたような衆知を集めて平準化するシステム。つまり素人が下積みや切磋琢磨なくそこそこのアウトプットを得られる神のような存在です。

それなりのアウトプットが期待できます。

ただしそのアウトプットがいいかどうかを見極めるのは上司の役割です。

あと下積みや切磋琢磨や研鑽というプロセスがないために、AIで作業をするだけだとスキルが上がりません。AIシステムのスキル的なものは上がりますけれどもそれは使い手の能力のアップではありません。

企業や組織にとって有用な人材を10年後・20年後を見据えて確保していこうと考える経営者は、そこを考えて組織員のミッションや業務範囲を考えなくてはならないという新たな課題を抱えることになりました。

みなさん、頑張ってね。

 

(上の画像はGROKが描いた「AIで解雇されそうで困った人々」)

 

いやあ、地方にいると、あと組織社会から半身引いて落ち着いてモノゴトを観察できるって本当にいいですね。

雨は小雨になったりやんだりになっていた。

金指潤平さんの浮浪雲工房まで山道を登っていく。

 

山道とはいっても、クルマ一台が十分通れるくらいの舗装された道。

過酷さはない。

むしろこんな整備された道が山の上までいく筋も、網の目のように張り巡らされているのが水俣の里山の姿なんだなと思いながらぐんぐん坂を上っていく。

 

歩き始めて約40分。

坂が終わり、畑の向こうに桜が今を盛りと咲いていた。

その筋向かいが浮浪雲工房。

 

 

工房に案内されて。

小さなだるまストーブをテーブルに見立てて金刺潤平さんと向き合う。

奥様が「いらっしゃい」ということばと手絞りのみかんジュースを。

すっぱ甘くて美味しい。

 

今回の訪問のお礼を述べつつ、潤平さんのお話しを伺うために、僕からの前提として自己紹介を含めてお話しさせていただいた。

いままで何度も取材などでお会いしてきたのだけれど、水俣との関わりを中心に自己紹介するのは初めてだ。

 

ブログを読んでいただいている皆さんも、なぜ眞藤がそんなに水俣のことが気になっているかわからないと思うので、かいつまんで書いてみる。

 

 

僕は熊本市内生まれ・育ちなので物理的には水俣から80kmほど離れたところで幼少の頃過ごしていた。

テレビや新聞で水俣のことは報道されていたが、それはメディアを通して知るよその町の話。

町や墓地を自転車で走り回る、ひと一倍アホな子供時代、少年時代を過ごしていたのだが、ふたつほど特殊だったことがあった。

 

ひとつは父が新聞記者だったこと。

家では仕事の話をしない人だったが、新聞に載ったことを質問するといろいろ答えてくれた。

水俣についての答えのなかには綺麗事ではないことがいくつもあった。

 

もうひとつは家が熊本地方裁判所の近くだったこと。

「なんか裁判所のあたりが騒ぎになっとる」

水俣の事象は情報としてやってきて争議として捉えていた。

 

少し大きくなって大学を受けるとき面白そうと思ったのが政治社会学という分野。

そうして立教大学の栗原彬先生のゼミに首尾よく入ることができた。

 

栗原ゼミではいろいろやった。

そのうちの一つが水俣病問題。

水俣が縁遠くも身近なものでもあった少年時代を過ごした僕はゼミで取り上げる水俣病に少し距離を置いていた。

そんなだから夏休みに水俣生活学校へ行ってボランティア活動してきた学生が鼻息荒くゼミで発表しているのを見ても、そのノリにはノリきれない。

同じ夏、僕は室原知幸の蜂の巣城の跡を見に下筌ダムあたりを原付でトコトコ走って、蕎麦とか食っていた。

ありていにいえば僕はゼミで水俣の件についてはハンパもんだった。

 

 

就職活動で最初に内定を頂いたのは水俣病の原因企業のチッソ。

受ける会社のことは愛するまで調べるのが流儀。

OB訪問もしっかりした。

いまでもご対応いただいた方との会話は覚えている。

面接に至る準備のなかで、公害を出した企業とはいえ同社のプロダクツの社会貢献というか私たちの生活への貢献のすごさを知った。

 

たとえばチッソは水俣病の教訓をカタチにするため神奈川に環境研究所をつくり、その成果を千葉の五井工場建設に活かしている。

そうして同社の五井工場は世界一クリーンな工場となり、それが世界水準となった。

水俣市にチッソ(現在はJNC)があることで水俣市内の状況が複雑だというが、単に経済的なことだけではなく、チッソという会社の価値がわかっている人が多いからこそ、難しいところがあるという理解はしておいた方がいいかもしれない。

 

なお、水俣フォーラムの理事を務めていた栗原先生のもとで学んでいる僕に内定を出したという、この会社の懐の深さは素晴らしいと思う。

一方で内定のことを栗原先生に報告したら苦笑いされた。

こちらも奥深い先生であった。

 

 

次に水俣と具体的な関係を持ったのは、東京の広告会社から九州へ転職した直後のことで、1996年のチッソと被害者団体5団体との一時金支払いと紛争終結の協定締結のころ。

もういちど水俣のことを勉強し直した。

 

その一環で水俣で行われた座談会に立ち会っていたとき。

「水俣に住んでいるからといって、なんで僕らばかりが環境意識が高くないといけないんですか?」

と発言したのは少年アッキー。

頭でっかちになりそうだった僕の心にグサッと刺さった。

その情景と声は忘れられない。

 

 

読み込んだ資料のなかに坂本フジエさんの話だったか、胎児性水俣病のお子さんを産んだ母親の文章があった。

その文章が真に迫ったのは2000年に妻が娘を出産したときだった。

時代も違うし娘が水俣病になる要素は全くない。

けれど「五体満足に生まれてほしい」という願いはすべての親に共通する。

初めて妻の出産を病院の分娩室の前で待つあいだその文章のことを思い出していた。

生まれてくる赤ん坊への不安と望みと決意は、文章で読むだけでは理解できないということをまざまざと思い知った。

 

 

その頃から、水俣と水俣病の捉え方が変わってきた。

胎児性水俣病の方がたの授産施設にプライベートで訪問するようになった。

そして出会ったのが2012年の「水俣・芦北のことを世界に発信する」というしごと。

水俣は1996年の政治決着のあとも落ち着かなかったが、吉井正澄市長(1994〜2002年のあいだ市長職)が「もやい直し」(心のつなぎなおし)を提唱し、市内の人びとが主張を超えて、未来を志向し始めていた。

 

吉井市長の考えの出発点になったのは梅原猛氏の著書「森の思想が世界を救う」(小学館ライブラリー)。

僕も梅原さんの書籍は中学校の頃から読み込んできた。

このしごとを創り上げるにあたり僕の特異点があったとしたら、それもあるかもしれない。

いくつものアウトプットの一つとして映像作家の永川優樹さんと二人で作った映像は、公開した国際会議場でアフリカ諸国をはじめとして多くの方々に好評を博し、患者支援団体の方にも環境省ほか行政の方にもご好評いただいた。

会場での公開と同時にアップしたYouTubeには、水俣のことを知らない諸外国の方から「beautiful!」という声が多国籍の言語でコメント欄に寄せられている。

映像を通して僕らが伝えたかった水俣の姿を、立場やイデオロギーを超え、水俣への知識の多寡を超えて伝えることができた。

 

 

2013年に福岡で水俣フォーラムの「水俣・福岡展」が開催された。

それまで同展を何回か見ていたから展示の多くは既視感もあったのだが、ひとつの映像が僕の心を捉えた。

水俣公害発生当時の行政のトップに近い人へのインタビュー映像だった。

 

チッソの排水に含まれていた水銀が早々に原因だと突き止められたとしてあなたはすぐに工場操業を止める措置を取れたか?という質問に対して、

そのひとはまず考え込み、ことばを一つひとつゆっくりと噛みしめるように

「いや…できなかったと思いますよ」

と答えるシーン。

これは主催者が水俣病を「患者(生活者)の健康よりも経済優先」の結果であることを印象づけようと企図したもの。

けれど僕は別の意味で受け取った。

 

2005年に映画「3丁目の夕日」が公開された。

1950年代あたりからの地域コミュニティや家族が生きていた時代がノスタルジックに描かれている。

だが。その映画のなかで黙殺されていることがある。

それは当時、貧困のため多くの死者が出ていたという事実。

「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」(小板橋二郎・ちくま文庫)などを読むと、この時代の貧困ゆえに軽んじられる命のことが描かれている。

餓死のほかに、赤痢など貧困による不衛生のための病死も多かった。

 

石油化学工業への転換は日本の大衆を貧困から中流クラスに引き上げる唯一の処方箋だった。

それを止める決断が、あなたはできたのか、という問い。

 

AIの進歩の課題としてトロッコ問題が最近よく話題に上るが、この時代から同様の決断の局面はあったのだ。

貧困のために年間何百人、何千人の人が亡くなっているという現前の問題と、あらたに原因不明の病気で猫が狂い人が亡くなり始めたという問題と。

どちらを取るか。

 

僕は1963年生まれ。

幼少のころの家は二軒長屋で貧乏な暮らしだった。

そこから社会が豊かになり、僕のような人間もそれなりに生活できるようになってきた。

近代化、石油化学工業化社会のおかげである。

この恩恵に預かっていない日本人はいない。

 

そんな日本人の一人として、あらためて水俣のことをどう考えるのか。

その答えを現在の水俣に関する報道や教科書での水俣の説明は持ち得ていないのではないかというのが、このとき僕が純平さんに伺いたい最初の話だった。

 

そんな僕のあらためての自己紹介をお話ししたら、純平さんは水俣に来た時からの経緯を含めてお話しくださった。

その実に分かりやすい話は次回で。

 

 

 

撮影場所:熊本県水俣市袋42あたり 浮浪雲工房前

     同市水俣駅前 チッソ(現JNC)水俣工場を望む

撮影機材:OLYMPUS O-MD EM-5Ⅱ

      +LEICA DG SUMMILUX f1.4 25mm 

朝から雨が降っていた。

明かりをつけてもなんとなく暗い感じ。

テレビの画面は煌々と明るくて、日曜の朝のバラエティをいつも通りやっている。

 

春は別れと出会いの季節。

別れはいいとして、なにか新しい局面と出会うべきなんではなかろうか。

ふと、そう思った。

 

 

ここ数年、悶々としていることがある。

そんな悶々がその日曜の雨の朝にもあーんと蘇ってきた。

水俣のことだ。

 

いま新聞記事を読んでも、水俣病事件を広報している諸団体の方がたの話を伺っても、みな一様に「風化してきた」「伝わりにくい世の中になった」と嘆息されている。

 

そこの間になにがあるのか。

あるいは何もないのか。

 

僕は「教科書や新聞紙上で流布されてきた水俣のこと」は、捉え直しをするべき時に来ていると考えている。

 

僕は当事者ではないし、支援団体として患者さんと接したりしているわけでもない。

そんな僕は、水俣の経験は私たちの世代以降がきちんと受け取って、これからの世の中に必要な知恵をそこから学んでいくべきと考えていて、それは世界の水銀汚染研究の第一人者の方がたとも共通する思いであることを知った。

 

とはいえ子供の頃から感じていた水俣病のいろんなことへの違和感、立教大学のゼミで触れた水俣のことへの違和感、1995年頃に感じた政治決着にまつわるいろんなことへの違和感、そして近年のうごきへの違和感が抜き去り難くある。

 

数年前、その違和感は日本の多くの大衆・一般生活者として普通に感じる違和感なのではないかと思い至った。

違和感があるから、そんな面倒臭いことを理解するのはイヤなのだ。

現代人は忙しい。

受け取り側のそんな事情も含めて、なんやかんやで伝わりにくいことになってるんじゃないか。

あるいは今までの報道される情報自体が「皆が持つべき知見」としての伝え方をしてこなかったということもあるだろう。

 

そう思って長年積み重ねてきた違和感を、見知ったことや経験をもとに因数分解したら。

意外なことに今後の道が見えてきた。

 

子供のころの違和感も、大学のころの違和感も、前世紀末の政治決着の中で出会った少年アッキーの「なんで水俣に住んでいるというだけで環境意識が高いことが求められないといけないんですか?」という問いに対する答えも、整理できた。

 

そのことをひとことで書くと「水俣の経験を皆で共有するためには、新たな展開が必要だ」ということ。

ちょっと大雑把な書き方だけど。

 

その前提として「水俣の経験は何か」ということと「そもそも水俣の経験を皆で共有しなければならないのか」あるいは「共有することのメリットはあるのか」ということも考えなくてはならない。

特に前者はそうとう力量がいる話だ。

けれど、現在まで報道や、教科書に載った情報ではそこが語られなかった。

「良識ある人なら共感して理解して当たり前」といわんばかりだった。

 

 

そんな違和感を分解しながら漠然とながら整理できてきたことを、水俣病闘争の「戦士」が集まった店として有名な「カリガリ」の女将のイソさんに話をしたりして。

 

でもここに集まる新聞記者あるいは論説委員あるいは偉い人と話をしてみたら、どうもすっきりしない。

 

では僕が考えていることが大きく間違っているのか、ズレているのかと。

そう思うけれども、「水俣のことに一家言ある」という誰と話をしても暖簾に腕押しのような返事した来ないので悶々としていたのだ。

 

そんな日々だったのだけれど、この日曜の朝、ついに思いついた。

 

 

「話してみる相手が間違っていたのかもしれない」。

 

 

そのとき脳裏に浮かんだのは金刺潤平さん。

そうだ!潤平さんと話をしてみたらどうなんだろうか。

潤平さんはもともと水俣の方ではない。

僕が栗原彬ゼミで水俣のことに触れ始めた1980年代の中盤、潤平さんは水俣に来た。

 

最初はよそ者だった。

当時の水俣病の患者支援の本拠地の一つ、水俣生活学校を支えた人である。

その彼は石牟礼道子さんに薫陶を得て和紙作りを始め、いまでは行政からも認定される伝統工芸師だ。

潤平さんは水俣生活学校の場所をそのまま浮浪雲工房という工房に変えて、現在も素晴らしい和紙を漉いている。

奥様も無農薬の綿花を栽培し、素材を織り、草木染めの作家として活動されている。

水俣にあって、現在と未来を見据えた暮らしをされている(ように見える)。

 

そんな経歴だから、もしかするといままで話してみた人々と異なる話を伺えるかもしれない。

そう思った午前9時。電話を差し上げ、13時のアポイントメントをいただいて、バタバタと僕は家を出た。

 

 

雨の日曜日の朝。

最寄りの停留所からのバスは空いていた。

JR九州の南へ向かう二両編成の電車の大きな窓からは垂れ込めた雨雲が大きく山に垂れ込めていた。

 

 

お世辞にも明るいホリデーの朝とはいえない風景。

僕は「長年の悶々が整理できるかも」という、雲間から一筋の日差しだけがさすような、不安と期待が入り混じる微妙な心持ちで電車に揺られていった。

 

※この1日の旅の概略はnoteにも書いています。

 

 

 

 

撮影場所:熊本県熊本市水道町交差点あたり

     同県氷川町有佐駅あたり

撮影機材:Phone 11

     back dual wide camera 4.25mm f/1.8

昨日も宮城県で震度5の地震があった。

東日本大震災から10年。

あのときのことを思い出した方も多かったのではないか。

熊本も大地震から5年たつが、まだときおり地鳴りを伴う地震がくる。

大地の奥底のことはわからない。

地球の殻の上べを這い回る僕らは、生き延びる方策を状況に合わせて採っていくしかない。

 

さて、2018年10月19日の福島の夜の最後の話を書くよ。

午後10時ころ。

会津郷土料理「楽」では、あえて満腹にならないようにした。

福島といえば魚介ダシ醤油味のラーメンだ。

喜多方までは行けなかったので、このあたりで食べられないかと。

 

 

ぶらぶら歩いて駅方面に戻るが、何かしらの嗅覚を元に横道に入り込むのは持って生まれた性(さが)。

スナックの行灯がちらほらする中央通り。

 

いい感じのラーメン屋さんがあった。

東京の居酒屋のようなコの字カウンター。

調理場は奥にあるようで見えないが、ごま塩頭のおじさんが一人で切り回しているようだった。

 

 

入ろうかと逡巡していたら「うちにも寄ってねー、そこだから」とおばちゃんから声かけられた。

「そのビルの2階のスナックだから、絶対きてよね」

福島のおばちゃんは強引である。

 

それはそれとして、まずはラーメンだ。

中に入ると先客が一人。

壁のお品書きからネギラーメンをオーダー。

 

 

手書きの酒肴のメニューがしぶい。

持ち帰りのチャーシューがある。絶対旨いヤツだ。

残念なことに明日は終日移動。

常温だと持たないと思って諦めた。

 

そこにラーメン到来。

目の前にあったゆで卵の殻をむき、ラーメンに投入。

黄緑に縁取られたネギ、白髪ネギ、黒胡椒、透明感ある褐色のスープ。

そんな水面から見えるシナチクとチャーシュー。

いいビジュアルだ。

 

 

思った通り酔腹にやさしいスープ。

多加水系でもっちり感ある太めのちゅるちゅる麺。

チャーシューはやたらと主張しないがスープに馴染み麺と食べると豚肉のニュアンスを伝えてくる。

驚いたのはシナチク。

これはうまい。

手作りだろうか。

しっかりとした太さ、味付け。

やはり旨いなあ、福島。

 

そうして次に向かったのは、

丸信ラーメンのトイ面の建物の2階にある「スナック香り」。

 

入って行ったら、期待はしてなかった客がやってきた!という感じでおばちゃんがやたら歓待してくれた。

ほかに客が全くいなかったこともあったろう。

千円札が並んでやってきた!という感じだったかも。

 

お名前はカオリさんなんですか?

そうたずねると「いやー、わたし韓国人だから違うんですよー」

すこしイントネーションが違うと思ったら、そして押しがやたら強いなと思ったら、そういうことだったですか。

 

 

韓国の話などをしながら更けていく福島の夜。

地震の後の復興需要はすでに一段落。

この街の夜の経済も厳しかろう。

でもこのおばちゃんは持ち前の押し出しでバンバン行きそうな気がする。

目の前で飲んでいる僕はその元気を分けてもらっている。

 

いいなあ、福島の夜。

ラーメン屋のおじさん、スナックのおばちゃん、コロナ禍は大丈夫だろうか。

今日も書いていて、また行きたくなってきた。

 

 

 

撮影地:福島県福島市置賜町5丁目あたり 「丸信」「スナック香り」

撮影機材:iPhone 7 back camera 3.99mm f/1.8

2018年10月19日、午後7時半ころ。

福島駅西側から自由通路通って向かったのは駅東の会津料理屋「楽」さん。

 

熊本人として会津の馬刺しは食べておかないという気持ちがあった。

それに、熊本地震のあとに福島の震災トークに呼ばれた友人の相藤さんが「福島に行ったら絶対行くべきだよー」とこの店を激推ししていたから。

 

人気店で、なかなか空いていないらしい。

直前に予約してカウンター席に座ることができた。

 

 

一日中運転した疲れを、まずはご苦労様のビールで洗い流す。

昨日の浪江の風景、相馬の風景、山間の磨崖仏の風景、そして会津の佇まい。

左に座ってる方も旅行者のようで、そんな風景を思い出しながら会話も弾む。

 

 

大人だから最初はサラダ。

ミョウガの清冽な香りがいい。

 

 

念願の馬刺しは赤身肉。

学生時代に先輩の相葉さんから東京でご馳走になったときは、もろみ味噌のようなもので頂いた。

この店では醤油ベースのタレを合わせる。

熊本の馬刺しに少し近い感じ。

熊本では落として比較的すぐに食べるけれども会津は少し寝かすとも聞いた。

舌触りはねっとり感が強いように思ったが、寝かした効果なのか部位の違いなのかはわからなかった。

だが、それはそれとして酒は進む。

会津の地酒がうまい。

 

 

ここへきて少し胃袋を休める気持ちで「こづゆ」を。

具材は7種類、9種類など奇数が縁起が良いとされており、朱塗りの浅めの椀で出される。

上品な一品。

清酒を飲む合間に汁物をいただく幸せ。

もっと食べられるのになーというところで食べ終わる。

お代わりしたかったけれど控えた。

後から調べたら、お代わりの所望は失礼に当たらないらしい。

すればよかったな。

三杯は行けたはず(w

 

 

もう一杯地酒を行きたかったので、

味噌田楽を。

熊本の味噌田楽よりも味噌の甘みが控えめ。

酒がふくよか系なのでとても合う。

 

 

いい感じに仕上がりました。

お店の方のお料理の説明も心地よく、そのひとつひとつが楽しかった。

福島はほんとに食べ物も人も味わい深い。

また伺ってあれこれ話しながら酒を酌み交わしたい。

 

 

撮影地:福島県福島市置賜町8–36 会津郷土料理「楽」

撮影機材:iPhone 7 back camera 3.99mm f/1.8