雨は小雨になったりやんだりになっていた。

金指潤平さんの浮浪雲工房まで山道を登っていく。

 

山道とはいっても、クルマ一台が十分通れるくらいの舗装された道。

過酷さはない。

むしろこんな整備された道が山の上までいく筋も、網の目のように張り巡らされているのが水俣の里山の姿なんだなと思いながらぐんぐん坂を上っていく。

 

歩き始めて約40分。

坂が終わり、畑の向こうに桜が今を盛りと咲いていた。

その筋向かいが浮浪雲工房。

 

 

工房に案内されて。

小さなだるまストーブをテーブルに見立てて金刺潤平さんと向き合う。

奥様が「いらっしゃい」ということばと手絞りのみかんジュースを。

すっぱ甘くて美味しい。

 

今回の訪問のお礼を述べつつ、潤平さんのお話しを伺うために、僕からの前提として自己紹介を含めてお話しさせていただいた。

いままで何度も取材などでお会いしてきたのだけれど、水俣との関わりを中心に自己紹介するのは初めてだ。

 

ブログを読んでいただいている皆さんも、なぜ眞藤がそんなに水俣のことが気になっているかわからないと思うので、かいつまんで書いてみる。

 

 

僕は熊本市内生まれ・育ちなので物理的には水俣から80kmほど離れたところで幼少の頃過ごしていた。

テレビや新聞で水俣のことは報道されていたが、それはメディアを通して知るよその町の話。

町や墓地を自転車で走り回る、ひと一倍アホな子供時代、少年時代を過ごしていたのだが、ふたつほど特殊だったことがあった。

 

ひとつは父が新聞記者だったこと。

家では仕事の話をしない人だったが、新聞に載ったことを質問するといろいろ答えてくれた。

水俣についての答えのなかには綺麗事ではないことがいくつもあった。

 

もうひとつは家が熊本地方裁判所の近くだったこと。

「なんか裁判所のあたりが騒ぎになっとる」

水俣の事象は情報としてやってきて争議として捉えていた。

 

少し大きくなって大学を受けるとき面白そうと思ったのが政治社会学という分野。

そうして立教大学の栗原彬先生のゼミに首尾よく入ることができた。

 

栗原ゼミではいろいろやった。

そのうちの一つが水俣病問題。

水俣が縁遠くも身近なものでもあった少年時代を過ごした僕はゼミで取り上げる水俣病に少し距離を置いていた。

そんなだから夏休みに水俣生活学校へ行ってボランティア活動してきた学生が鼻息荒くゼミで発表しているのを見ても、そのノリにはノリきれない。

同じ夏、僕は室原知幸の蜂の巣城の跡を見に下筌ダムあたりを原付でトコトコ走って、蕎麦とか食っていた。

ありていにいえば僕はゼミで水俣の件についてはハンパもんだった。

 

 

就職活動で最初に内定を頂いたのは水俣病の原因企業のチッソ。

受ける会社のことは愛するまで調べるのが流儀。

OB訪問もしっかりした。

いまでもご対応いただいた方との会話は覚えている。

面接に至る準備のなかで、公害を出した企業とはいえ同社のプロダクツの社会貢献というか私たちの生活への貢献のすごさを知った。

 

たとえばチッソは水俣病の教訓をカタチにするため神奈川に環境研究所をつくり、その成果を千葉の五井工場建設に活かしている。

そうして同社の五井工場は世界一クリーンな工場となり、それが世界水準となった。

水俣市にチッソ(現在はJNC)があることで水俣市内の状況が複雑だというが、単に経済的なことだけではなく、チッソという会社の価値がわかっている人が多いからこそ、難しいところがあるという理解はしておいた方がいいかもしれない。

 

なお、水俣フォーラムの理事を務めていた栗原先生のもとで学んでいる僕に内定を出したという、この会社の懐の深さは素晴らしいと思う。

一方で内定のことを栗原先生に報告したら苦笑いされた。

こちらも奥深い先生であった。

 

 

次に水俣と具体的な関係を持ったのは、東京の広告会社から九州へ転職した直後のことで、1996年のチッソと被害者団体5団体との一時金支払いと紛争終結の協定締結のころ。

もういちど水俣のことを勉強し直した。

 

その一環で水俣で行われた座談会に立ち会っていたとき。

「水俣に住んでいるからといって、なんで僕らばかりが環境意識が高くないといけないんですか?」

と発言したのは少年アッキー。

頭でっかちになりそうだった僕の心にグサッと刺さった。

その情景と声は忘れられない。

 

 

読み込んだ資料のなかに坂本フジエさんの話だったか、胎児性水俣病のお子さんを産んだ母親の文章があった。

その文章が真に迫ったのは2000年に妻が娘を出産したときだった。

時代も違うし娘が水俣病になる要素は全くない。

けれど「五体満足に生まれてほしい」という願いはすべての親に共通する。

初めて妻の出産を病院の分娩室の前で待つあいだその文章のことを思い出していた。

生まれてくる赤ん坊への不安と望みと決意は、文章で読むだけでは理解できないということをまざまざと思い知った。

 

 

その頃から、水俣と水俣病の捉え方が変わってきた。

胎児性水俣病の方がたの授産施設にプライベートで訪問するようになった。

そして出会ったのが2012年の「水俣・芦北のことを世界に発信する」というしごと。

水俣は1996年の政治決着のあとも落ち着かなかったが、吉井正澄市長(1994〜2002年のあいだ市長職)が「もやい直し」(心のつなぎなおし)を提唱し、市内の人びとが主張を超えて、未来を志向し始めていた。

 

吉井市長の考えの出発点になったのは梅原猛氏の著書「森の思想が世界を救う」(小学館ライブラリー)。

僕も梅原さんの書籍は中学校の頃から読み込んできた。

このしごとを創り上げるにあたり僕の特異点があったとしたら、それもあるかもしれない。

いくつものアウトプットの一つとして映像作家の永川優樹さんと二人で作った映像は、公開した国際会議場でアフリカ諸国をはじめとして多くの方々に好評を博し、患者支援団体の方にも環境省ほか行政の方にもご好評いただいた。

会場での公開と同時にアップしたYouTubeには、水俣のことを知らない諸外国の方から「beautiful!」という声が多国籍の言語でコメント欄に寄せられている。

映像を通して僕らが伝えたかった水俣の姿を、立場やイデオロギーを超え、水俣への知識の多寡を超えて伝えることができた。

 

 

2013年に福岡で水俣フォーラムの「水俣・福岡展」が開催された。

それまで同展を何回か見ていたから展示の多くは既視感もあったのだが、ひとつの映像が僕の心を捉えた。

水俣公害発生当時の行政のトップに近い人へのインタビュー映像だった。

 

チッソの排水に含まれていた水銀が早々に原因だと突き止められたとしてあなたはすぐに工場操業を止める措置を取れたか?という質問に対して、

そのひとはまず考え込み、ことばを一つひとつゆっくりと噛みしめるように

「いや…できなかったと思いますよ」

と答えるシーン。

これは主催者が水俣病を「患者(生活者)の健康よりも経済優先」の結果であることを印象づけようと企図したもの。

けれど僕は別の意味で受け取った。

 

2005年に映画「3丁目の夕日」が公開された。

1950年代あたりからの地域コミュニティや家族が生きていた時代がノスタルジックに描かれている。

だが。その映画のなかで黙殺されていることがある。

それは当時、貧困のため多くの死者が出ていたという事実。

「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」(小板橋二郎・ちくま文庫)などを読むと、この時代の貧困ゆえに軽んじられる命のことが描かれている。

餓死のほかに、赤痢など貧困による不衛生のための病死も多かった。

 

石油化学工業への転換は日本の大衆を貧困から中流クラスに引き上げる唯一の処方箋だった。

それを止める決断が、あなたはできたのか、という問い。

 

AIの進歩の課題としてトロッコ問題が最近よく話題に上るが、この時代から同様の決断の局面はあったのだ。

貧困のために年間何百人、何千人の人が亡くなっているという現前の問題と、あらたに原因不明の病気で猫が狂い人が亡くなり始めたという問題と。

どちらを取るか。

 

僕は1963年生まれ。

幼少のころの家は二軒長屋で貧乏な暮らしだった。

そこから社会が豊かになり、僕のような人間もそれなりに生活できるようになってきた。

近代化、石油化学工業化社会のおかげである。

この恩恵に預かっていない日本人はいない。

 

そんな日本人の一人として、あらためて水俣のことをどう考えるのか。

その答えを現在の水俣に関する報道や教科書での水俣の説明は持ち得ていないのではないかというのが、このとき僕が純平さんに伺いたい最初の話だった。

 

そんな僕のあらためての自己紹介をお話ししたら、純平さんは水俣に来た時からの経緯を含めてお話しくださった。

その実に分かりやすい話は次回で。

 

 

 

撮影場所:熊本県水俣市袋42あたり 浮浪雲工房前

     同市水俣駅前 チッソ(現JNC)水俣工場を望む

撮影機材:OLYMPUS O-MD EM-5Ⅱ

      +LEICA DG SUMMILUX f1.4 25mm