番外 JR貨物ED76形電気機関車では継承車最若番、JR化後「試験塗装」までも施していた37号機 | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)


 
 JR貨物に所有しておりますED76形電気機関車は、現在8両がいずれも北九州市の門司機関区に所属しておりまして、九州内の貨物列車が運行されている路線で活躍しております。
 
 そんなED76形電気機関車も、これまでは「日本海縦貫線」で活躍しておりました富山機関区からのEF81形電気機関車が、EF510形電気機関車の新製導入や「北斗星」や「カシオペア」として使用されておりましたJR東日本からのJR貨物移籍によります余剰で門司機関区に転属しまして、それによりましてED76形電気機関車及びEF81形電気機関車の古参タイプを廃車に追いやっておりましたし、最近は門司機関区にもそのEF510形電気機関車の増備車も導入が始まっておりまして、その結果現在のように8両まで両数を減らしております。
 
 現在活躍(在籍)しておりますED76形電気機関車は、最も古いタイプで上の画像1・2の81号機で昭和50年製、そして最も新しいタイプで1000番台3次タイプでもあります画像2の1022号機で昭和54年製となっておりまして、いずれも車体側面には更新を受けた事を表します白いラインが入っているのがお分かりいただけるのではないかと思います。
 
 ただ、もう新製導入から40年前後になる訳ではありますので、考えてみましても置き換える時期である事には間違いない所ではあります。実際に、先述のように新たな「銀釜」でありますEF510形300番台電気機関車が導入されてはおりますが、今年に入りましてから新たに導入が見られておりまして、今後運用を開始する事になりますと置き換えも進む事にはなるようでありますので、運用が置き換えられる事になりますEF81形電気機関車に加えまして、このED76形電気機関車もあとどのくらいかという域である事には間違いない所ではあります。
 

 そんなED76形電気機関車でありますが、今回ご紹介しますのは、かつてはJR貨物の試験塗装もまとった事もあります、昭和45年製のED76 37号機を皆様にご紹介してまいります。
 

 この37号機は、昭和45年の鹿児島線川尻(熊本市)~鹿児島間電化に伴いまして導入されました34両(0番台24両、1000番台10両)のうちの1両でありまして、製造されましたのは東芝、新製配置は旧鹿児島機関区でありまして、以来鹿児島線・日豊線の貨物・旅客列車の先頭として活躍しておりました。
 
 その後、分割民営化前~JR化後に機関車整理のために一度一休車扱いになりますが、昭和62年暮れに門司機関区所属として運用に復帰しまして、その際には青白のツートンカラーのいわゆるJR貨物試験塗装をまといまして運行されておりました。

 残念ながら画像にはありませんが、青白の「試験塗装」をまといましても、長崎・佐世保線を含みます九州内の貨物列車の先頭として活躍してまいりましたし、JR貨物の中では最若番を貫き通し続けておりました。
 
 
 その後、上の画像のように元の赤地の塗装に塗装変更がなされましたが、現在在籍しておりますED76形電気機関車のような更新はなされずに運行されておりました。
 

 そして、この37号機は平成22年秋に運用を離脱しました。離脱の際には画像にありますように他の2両(43号機・1007号機)とともに大分市の西大分駅にて疎開留置しておりました。しかし、離脱してからおよそ2年半、平成25年に門司機関区へ廃車回送されまして、その後その下の画像にあります門司機関区構内で解体となってしまいました。
 
 (解体場所の門司機関区構内)

 
 
 私自身、この機関車に関しましては正直そんなに収めておりませんでしたが、それでも「JR貨物試験塗装」をまとっていたと言う実績があった事から今回の掲載に至ったほどでした。やはり、正直その頃の姿を収めていれば尚の事よかったように思いますが、それを収める事ができていなかったのは残念ではありました。
 

 今回は、試験塗装も経験しました37号機をご紹介しましたが、冒頭でも述べておりますように、ED76形電気機関車自体もEF81形電気機関車の導入などで大きく両を減らしておりまして、その中にはかつてJR九州に所有していた車両(81・83号機)も含みますが、そのJR九州車も現在はおりません。今後、車齢が高い事もありまして、さらに徐々に両数を減らして行くと思われるED76形電気機関車ではありますが、このJR貨物になりましてからの最若番37号機の存在も、同僚が国鉄末期~JR化後に廃車となった事を思いますと大きな存在ではなかったのかと思わずにはいられない所ではなかったでしょうか。