番外 かつて「スイッチバック」がこの駅に存在、過去訪問時撮影より、長崎線「旧線」本川内駅構内探訪 | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 

 当ブログでもこれまでもご紹介しておりましたし、もちろんご覧の皆様もご存知の方もいらっしゃると思いますが(ご存知でない方は時刻表の路線図をご覧になってください)、上の画像にあります長崎県諫早市の喜々津駅から、長崎市の浦上駅の間には長崎線は2線に分かれておりまして、電化されておりまして特急「かもめ」や快速「シーサイドライナー」が運行します市布経由と呼ばれます区間が「新線」、非電化区間でもっぱら普通列車が運行されます長与経由と呼ばれます区間が「旧線」と呼ばれております。

 

 このうち「旧線」に関しましては明治31年に全線開通しました路線でありまして、今年で123年にもなる路線でもありまして、昭和47年に市布駅を経由します「新線」が開通するまでは長崎線のメインの区間でもありました(ちなみに、全通(鳥栖~佐賀~肥前山口~武雄温泉~早岐~大村~諫早~長与~長崎間)は明治42年です)。

 

 現在は、先述のように特急列車(「かもめ」)・快速列車(「シーサイドライナー」)は新線メインで運行されておりますが、この旧線区間内は普通列車メインで運行されておりまして、画像にもありますように行先表示は「長与経由」と書かれている行先の列車が運行されております。

 

 (現在は見られなくなった、キハ66・67系気動車より)

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 この「旧線」では、このうちの東園~大草間(ともに諫早市)で見られます大村湾の光景が美しい所でもありまして、東園駅の諫早方手前にあります第16号トンネルを抜けますと、天気がいい日には後述の画像のように海側には美しい大村湾の光景をご覧いただく事ができます。しかも、対岸には直線距離で約3キロ前後と言う事もあり、大村市の南部地区の姿も見る事ができておりまして、大村市が近い事が見ていて実感できるのではないかと思います。

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 (別の位置より)
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 そう言った美しい光景を抜けますと、列車は山沿いを通って行きます。その途中にありますのが、画像の長与町にあります本川内駅であります。今回は、以前この駅に訪れておりましたので、皆様にご紹介してまいります。

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 (令和3年訪問時画像より)

 

 (駅名標)

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 この本川内駅は、昭和18年に信号場として開設しまして、昭和27年には駅に昇格しまして本川内駅として営業されている駅でもありますが、実はこの駅はかつてはスイッチバック式の信号場→駅として至っていた経歴がありました。

 

 この本川内駅付近は、画像にもありますように勾配が続いている中に駅がありまして、蒸気機関車と言った昔の列車は一気に登る事ができませんでした。そのため信号場が開設されまして、後に駅に昇格した訳ではありましたが、元々利用者が少ない駅であった事や、交換が不可能でもあった事などから、通過線(本線)を使い駅自体を通過する列車もあったほどでありまして、夜行普通列車「ながさき」も通過扱いとなっておりました。

 

 (諫早方)~令和3年訪問時より

 

 (長崎方)~平成23年訪問時より
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 しかも、現在は高馬力の気動車が使用されるようになってからはこのスイッチバック自体の必要もなくなった事、さらに長崎線でワンマン運転が行われる事になりまして、折り返しの時間が生ずる事になった事もありまして、平成14年に勾配があります通過線上にホームをつくりまして、スイッチバック自体が廃止と言う結果に至っております。尚、これによりまして全列車がこの本川内駅に停車するようにもなっております。

 

 【以下平成23年撮影画像より】
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 (キハ66・67系気動車(9番ユニット)、長崎行き入線)

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 さて、ここからはかつてのスイッチバックの名残を見て行きたいと思います。かつての名残はほぼ駅舎付近に残されておりまして、線路や信号跡も撮影時には残されておりました。また、以下画像を見ますとわかりますように、手前側が本線でありましたが、奥にあります線路が駅に進入する線路でもありました(現在は上の画像にありますように線路はつながっておりません)。
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 実際に、諫早方面からやってきた列車で例えますと、まず坂を下りながら画像右側の旧ホームに入線する事になりまして、そのホームで乗り降りを行っておりました。それにしても、旧ホームの有効長はおそらく5両はあったようでありまして、その下の画像にもわかりますように、ホームは奥まで登っていた事もわかるのではないでしょうか。
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 (旧ホーム)~ホーム自体が登っている事がわかります
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 そして旧ホームにやって来ました列車は、向きを変えまして、分岐線の奥にあります雑草に覆われました引き上げ線へと向かいまして、ここで再び向きを変え、本線を経まして長崎方面へと進むようになっておりました。一方、諫早方面に向かう列車はその逆の事を行っておりまして、本線→引き上げ線→ホーム→本線と進むようになっておりました。
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 以下画像は、上の画像に見えておりますより本川内駅全体が見渡せる橋へとやって来まして撮影をおこなっておりました。画像からもわかりますように、この橋からは全景が見渡せておりまして、以下画像がアップした画像でありましたが、現ホームへ向けてまっすぐとした所が本線で、奥の引き上げ線が旧ホームへと進む線路でありました。一方、ご紹介しておりますように手前側にも引き上げ線があった訳ですが、この時には草に覆われておりまして、引き上げ線全体の面影は見る事ができませんでした。
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 さらに引いて見ますと線路横の草に覆われている部分がかつての引き上げ線であった部分です。この時点でも残念ながら先述のように面影は見られなくなっておりまして、線路跡も見られなくなっておりました。
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 この撮影時には、引き上げ線・旧ホーム向けの信号機が残されておりました。しかも、残念ながら使用する事ができなくなっている訳でありましたし、かつての信号場でもあった時代を思い出す部分でもありましたが、手前側が草に覆われかけていた姿が何とも残念な印象を感じさせられる部分でもありました。
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 現在は、上の画像・以下画像にもありますように、引き上げ線跡は線路はつながっておりません。それでも、かつての名残は残されておりまして、この駅がスイッチバックの駅であった事を現在も伺う事ができております。本当に1つの線路にホームと言う姿に変わりましたが、面影があるだけでもまだいいのかなとも思う所でもありましょうか。

 

 (引き上げ線跡の部分)

 

 

 今回は、「旧線」の本川内駅に関しまして、以前訪問時及び令和3年訪問時と併せてご紹介しましたが、九州のスイッチバック駅でこのような勾配のある駅での場合でしたら豊肥線の立野駅、そして現在「令和2年7月豪雨」で休止中の肥薩線大畑駅や真幸駅が思い出させるのではないかと思いますが、これら駅よりも勾配がないとは言いましてもかつては蒸気機関車でも登り切れないほど「旧線」では難関区間でもあった事が伺わせます。現在は、馬力がある気動車が運行されておりまして必要がないと言う印象ではありますが、かつてはこの駅でもそう言った姿が見られていた事を存じていただければと思います。
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