NO.2873 松浦鉄道西九州線に存在する「日本最西端の駅」、資料館もあるたびら平戸口駅構内探訪 | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 

 長崎県平戸市(旧田平町)に、松浦鉄道(MR)西九州線のたびら平戸口駅があります。


 このたびら平戸口駅は、昭和10年の旧国鉄時代に開業したものでありまして、当時は「平戸口駅」と呼ばれておりました。その「平戸口」と呼ばれる理由としましては、これまでもご紹介しておりましたように、この駅から平戸大橋が開通するまでは当時は離島でありました平戸島への最寄駅であった事からこの名称となっていたものであります。

 

 そして、この駅から10分近く歩いた所に平戸口桟橋(田平港)が存在しておりまして、当時はそこから平戸島へフェリーが運航されておりました(現在は的山大島へのフェリーが運航されております)


 その後、昭和62年に国鉄からJR九州の駅として、さらに昭和63年には松浦鉄道に移管されまして松浦鉄道の駅として、そしてその翌年の平成元年に、現在の名称であります「たびら平戸口」の駅名に変わりまして、現在に至っております。

 


 そんなこの駅は、皆様もご存知のように、以下画像にもありますように日本最西端の駅としても知られておりまして、日本最西端の駅をあらわう記念碑が立てられてもいまして、撮影に来られます姿も時々見られております。

 

 

 さて、今回ご紹介しますのは、そのたびら平戸口駅の駅内をご紹介してまいります。また、この駅内には資料館もありまして、撮影許可もいただいておりますので、合わせて皆様にご紹介してまいります。

 

 

 まずは駅内をご紹介します。以下画像は12年前の平成23年訪問時撮影、その下の画像が今回訪問時撮影です。この当時は画像のように土産物や菓子・飲み物類などを販売する売店が設けられておりましたが、その後閉店しておりまして、現在はちゃんぽん店に改まっております。ただ、そのちゃんぽん店もこの訪問日は休業しておりまして、平成23年訪問時としたら寂しくなった印象でもありましょうか。

 

 (平成23年訪問時撮影)

 

 (今回撮影)

 

 

 こちらはたびら平戸口駅の時刻表です。以下画像が平成23年訪問時撮影、その下の画像が今回訪問時撮影です。この時は佐世保方面が23本、松浦方面が17本の本数となっております。尚、佐世保方面はJR佐世保線乗り入れが一度廃止されていた頃でありまして、全列車佐世保行きとなっております。現在は、その下の画像にありますように、佐世保方面は17本、松浦方面は16本に減便しておりまして、ピーク時よりも減っている事もお分かりいただけます。

 

 (平成23年改正時)

 

 (今回訪問(令和5年改正)時)

 

 

 たびら平戸口駅のホームです。ホームは駅舎から1~3番ホームまで存在しておりまして、方面は上の画像の時刻表からもわかりますように、1番ホームが主に伊万里方面、2・3番ホームが主に佐世保方面と言う形になっております。

 

 今回訪問時は時間的に発着列車を収められませんでしたので、過去撮影画像からご紹介しますが、ちょうど同時発で伊万里・佐世保方面の列車が発車する事になっておりました。この時は、伊万里駅から来ました佐世保行き列車が2番ホームに到着、佐世保駅からの列車と行き合う事になります。

 

 その数分後、佐世保駅から伊万里行きの列車が1番ホームに到着しました。この時は、画像でもわかりますように1番ホームの伊万里行きの列車はMR-600形気動車のトップナンバーであります黒帯の601号、2番ホームは上の画像にありますように2次車の青帯の615号が入線しておりました。

 

 この後、同時に佐世保行き・伊万里行き列車が発車しました(佐世保行きは最後の画像も)。その時にこうして並びを収める事ができておりましたが、同じ形式とは言えども、ここまで塗り分けが違うのかと改めて思う所でもありましょうか。


 

 ここからは、たびら平戸口にあります展示物をご紹介してまいります。まずは外にある展示物からご紹介しますが、石炭車と腕木式信号機の姿を見る事ができております。

 

 このうち石炭車セラ1形貨車(2206号)からご紹介します。今回は過去撮影画像からご紹介しますが、製造年はわかりませんが、改造が1回目が鷹取工場で昭和35年、2回目が若松車両センターで昭和56年に改造されております。この改造からも、恐らくは筑豊地区で活躍しておりました石炭車をこのたびら平戸口駅に保存しているようでありますが、かつて松浦線時代にはこのような石炭車が活躍していた経緯もありますので、それを思いますとこの保存は分からなくない所でもありましょうか。
イメージ 8

 

 (1回目の改造・鷹取工場で昭和35年に改造)
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 (2回目の改造、若松車両センター(←若松工場)で昭和56年改造)
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 尚、これらの工場も現在は既に閉鎖されておりまして、鷹取工場は平成12年に、若松車両センターは昭和60年には閉鎖されておりますので、これら銘板からも当時は存在していた事がわかります。しかし、北九州地区に2つも車両工場があった事がこれらからもわかるのではないでしょうか。

 


 ここからは駅内にあります鉄道資料館であります。先述のように駅員さんから撮影許可をいただいておりましたので、ご紹介してまいりますが、日本最西端の駅でありますこの駅に様々な方々が見えられていた事がサインの姿を見ましてもお分かりいただけるのではないかとも思います。

 

 

 こちらの画像は、たびら平戸口駅で撮影されていた画像からご紹介しますが、まず以下画像が平成14年に長崎県で開催されました「全国豊かな海づくり大会」に伴いまして、天皇・皇后両陛下(現、上皇・上皇后さま)を乗せて運行されておりました、キハ185系気動車の「お召列車」であります。この時は、たびら平戸口駅から大村駅まで運行されておりまして、第3セクター鉄道→JRと乗り入れて運行されてもいました。

 

 こちらは、MR-100形気動車のラストラン時の姿であります。この列車は平成24年3月に運行されておりましたが、最後に残りました3両が運行されておりました。尚、その後は当ブログでもご紹介しておりますようにミャンマーへ渡っておりまして、新たな地で第2の車生を歩んでいるようであります。

 

 

 こちらの画像は、恐らくMR-600形気動車以外の車両が納車した際に贈られました記念ハンドルであります。そのMR-600形気動車は日本車両製でありますが、それ以外の車両は新潟鐵工所製でもありますので、MR-100形気動車~MR-500形気動車のうちのいずれかが納車した際のものである事がわかります。

 

 

 こちらは、MR-100形気動車~MR-300形気動車のいずれかに取り付けられておりました行先表示器であります。行先表示器は手動式でありますので、回す際は人力で回す形となっていた事が伺わせております。それにしても、右側の「伊万里」は分かりますが、左側の快速 伊万里」は普段でも見られない行先でしたので、貴重な部分で止まっている事がわかります。

 

 

 こちらは、タブレット閉塞時代に使用されました閉塞機とタブレットキャリアであります。当時、松浦線時代にもそのような姿が見られてもいましたが、タブレット閉塞機からタブレット(通票)を引き出しまして、それをキャリアに入れまして運転士に渡すようになっておりまして、渡さないと走れないと言った姿がかつて見られておりました。

 

 (時計に掛かったタブレットキャリア)

 

 

 こちらは、レール銘板でありますが、実際に使用されていたものを切ったもののようであります。また、後方には「松浦鉄道 昭和63年」と書かれた銘板も見えますが、この銘板は当時所有しておりましたMR-100形気動車~MR-300形気動車いずれかの銘板であったようであります。

 

 

 そして、中央には「JR松浦線 さようなら」と書かれましたヘッドマークが見えますが、このヘッドマークは昭和63年3月31日で廃止される事にもなります、キハ58系気動車で運行されました急行「平戸」に掲示されていたヘッドマークであります。しかも、大きなヘッドマークである事がわかりますが、これは中央の貫通扉の上部の窓に取り付けられておりました。また、DE10 1のプレートも見えますが、四国にありました車のプレートがあるとは、まさに貴重かなと思う所でしょうか。

 

 

 こちらは、いずれもサボであります。よく見ましても今は使用されませんので、懐かしさがこみ上げてくる所ではありますが、旧松浦線などでこうしたサボが使用されていた事がわかるのではないでしょうか。

 

 (松浦線向けのサボ)

 

 また、昭和63年の廃止時まで使用されておりました、急行「平戸」のサボ等であります。実は私自身も急行「平戸」の最終日に唐津~平戸口~佐世保間で利用しておりましたが、このサボを見ますと当時の「平戸」の姿を思い浮かべます。その時は先述のように「松浦線 さようなら」のヘッドマークを掲示しながらでしたので、正直懐かしい部分でもありましょうか。

 

 

 こちらは、松浦線のダイヤグラムでありまして、有田~伊万里~平戸口~佐世保間全線のものであります。よく見ますと伊万里~有田間の系統が多く見られているのがわかりますが、それとともに濃いライン部分が見られますが、これは急行「平戸」を表しておりまして、伊万里~佐世保間で表示されていた事がお分かりいただけます。

 

 (アップ)

 

 

 ここからは当時の時刻表を収めたものです。ここでは、昭和28年・昭和35年・昭和43年・昭和53年、そして昭和63年の時刻表でありますが、昭和28年当時は筑肥線との直通はありませんでしたし、昭和35年当時は当時の枝線(世知原線・柚木線)と佐々・佐世保駅へ直通運行されていた事がわかります。

 

 (昭和28年時刻表)

 

 (昭和35年時刻表)

 

 

 さらに、昭和43年時刻表では急行「平戸」の前身の急行「九十九島」が運行されていた頃であった事や、昭和53年時刻表では全線運行の普通列車が2往復存在していた事もお分かりいただけます。

 

 (昭和43年時刻表)

 

 (昭和53年時刻表)

 

 

 そして、末期の昭和63年時刻表では、急行「平戸」が廃止、筑肥線からの直通列車も廃止となりますが、この時刻自体も改正から6日しか見られなかった訳ですので、より貴重さが伺えるのではないでしょうか。それにしても、現在の本数としますと、国鉄・JR時代が非常に少なかった事もお分かりいただけるのではないでしょうか。

 

 

 今回は、日本最西端の駅でもあります、松浦鉄道西九州線たびら平戸口駅訪問時の模様をご紹介しましたが、正直、この駅の存在も大きい存在ではなかったかと思います。残念ながら、MR化後に減便を強いられてしまった事は現状を考えますと仕方ない所ではありますが、それでも日中は数少ない有人駅である事も大きいのではないでしょうか。また、鉄道記念館内部の内容に関しましてはほんの一部を紹介しましたが、それ以外にも大変興味があった部分も見られましたし、参考になるものもあった事もよかったでしょうか。ご覧の皆様も、出向く機会あります際にはこのたびら平戸口駅にも訪問してみてはいかがかとも思っております。