NO.1440 廃止から42年、世知原線廃線跡探訪(その1、概要・旧世知原駅~編) | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 長崎県佐世保市吉井町の松浦鉄道吉井駅から、佐世保市世知原町の旧世知原駅間には、旧国鉄の旧世知原線が存在しておりました。

 この旧世知原線は、佐々川流域にあります炭鉱からの石炭輸送のために、明治30年代に九州松浦炭礦専用鉄道として佐々駅~世知原駅間で軽便鉄道として建設が始まったのが始まりでありまして、その後松浦炭礦の鉱業権者であります岡本彦馬の個人経営へ移行した事から、昭和7年に岡本彦馬専用鉄道と改称しております。

 しかし、この珍しい個人名の鉄道会社も翌年昭和8年には佐世保鉄道に買収、そして鉄道営業を始めまして、その後昭和11年には国有化され、松浦線として営業するようになるも、昭和20年にはこれまで伊万里線と呼ばれていた有田~伊万里~平戸口(現・たびら平戸口)~肥前吉井(現・吉井)間を松浦線(現・松浦鉄道西九州線)と呼ぶようになりまして、肥前吉井~世知原間は世知原線として営業する事になります。

 すでに、戦時中でありました昭和19年には軽便鉄道時代の762ミリから現在の1067ミリに改軌されておりましたが、その後沿線の炭鉱が相次いで閉山された事で利用者も衰退してまいりまして、昭和30年代からは、元祖「レールバス」でありましたキハ02形が運行されるほどになりましたが、それでも歯止めがかからなかった事もありまして、結局昭和46年には廃止されてしまいまして、その後廃線跡のほとんどはサイクリングロードとして現在に至っております。

 そんな廃止からもう42年経過しました、世知原線の廃線跡区間を今回出向いてまいりましたので、今回より3回に分けまして、皆様にご紹介してまいります。

 まず、画像は旧世知原駅跡であった所からのご紹介です。ここは現在は公園(「躍進の泉公園」)となっておりまして、残念ながらかつての面影はありません。
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 (「躍進の泉公園」の看板)
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 かつてここには、片面1線のみのホームがあったようですが、炭鉱があった頃にはそれ以上の線路があったのではないかと思われます。それでも、かつて駅があった証としまして、以下画像のようにSLの動輪が保存されておりまして、これがかつての名残を残していると言ってもいいかと思います。
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 また、この公園には中倉万次郎と呼ばれる方の頌徳碑が建立されておりますが、この方も佐世保軽便鉄道の設立や、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた方でもあります。まさにこの方があってこそ、世知原線が工事されるに至った方ですので、この方の存在は大きかった事も伺えます。
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 さらに、この旧世知原駅から100メートルほど東に行った所に、「世知原炭鉱資料館」と呼ばれる資料館があります。ここは元は松浦炭坑事務所として建てられたものでありましたが、現在は資料館として現在に至っておりまして、炭鉱に関しました資料や、旧世知原線に関しました資料も置かれているのだそうです。残念ながら、私は中に入る事ができませんでしたが、機会がありましたらご覧になってみてはいかがかと思います。
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 では、ここから吉井駅まで西に進んでまいります。線路は、画像の奥のほうまで続いていたのではないかと思われますが、残念ながら面影は見られません。
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 画像は、世知原地区では最大の病院であります松浦病院であります。旧世知原線の廃線跡を利用しておりますサイクリングロードは、この病院の所から吉井まで続いておりまして、病院構内までは自動車も出入りする事が可能となっております。

 (正面)
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 (サイクリングロード内でもあります病院構内)
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 佐々川の支流にあります川の所に架かる橋であります。ここからは自転車・歩行者のみが通る事になりますが、この橋自体は、かつての橋梁をそのまま活用しているようでありまして、その下の画像にもありますように、かつて鉄道が通っておりました橋梁の名残を残しているようにも思います。
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 (緑色の橋がかつての鉄道時代の名残を残す)
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 橋を渡りまして、先へと進んでまいります。ここを見ましても、道幅自体はそれほど広くはない事もありまして、サイクリングロードらしさが出ているのではないでしょうか。
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 さらに進みますと、「3」と書かれた数字がありますが、これは何を意味するのか気になります。また、自動車の出入りができないように柵が取り付けてありますが、こう言った対策が施されている事はいい事ではないかとも見ていて思いますね。
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 ちなみに、ここには画像奥に見えております工場への出入口にもなっておりますが、こうして見ますと、まさに踏切だった頃を偲ばせます。特に、以下画像にあります、夜間には閉じられる事になると思われる開閉式の門が、踏切だった頃の姿をより連想させてしまうほどでもあります。
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 (サイクリングロードだった部分より、旧踏切の部分)
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 こうして、旧世知原駅から約600メートルまでの区間までご紹介しましたが、42年も経過している事もありまして、残念ながらあまり名残が残っていない事がわかりました。それでも、サイクリングロードとして残っている事だけでも、かつての姿がわかる分いいのではないかと思いますね。次回は唯一の途中駅でありました旧祝橋駅などをご紹介してまいりますが、この3回で旧世知原線の存在を皆様もわかっていただければとも思います。
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