【死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス】 死の過程はより孤独に、より機械的に、より非人間的になった | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

科学が発達すればするほど、大切なものが見えなくなったのならば、

それは、進歩・発達と言えるのでしょうか。


■死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス

・死の恐怖について


科学が発達すればするほど、
私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなる
それはなぜなのか。

私たちは死に対して「婉曲法」を用いる。
たとえば眠っているかのように死に化粧をほどこす。

患者が幸いにも自分の家で死ぬと、
大人たちの不安や混乱から守るために、子どもたちを遠くに追いやる。
病院で親が死に瀕していても、子どもたちを見舞いに行かせない。
患者に真実を告げるべきかどうかを巡って、長々と激しい議論をする。
そのように冷静に死を直視するのを避ける理由はいろいろあるだろう。

最も重要な事実は、今日、死の過程がいろいろな意味で
以前よりつらいものになったということである。
死の過程はより孤独に、より機械的に、より非人間的になった


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現実から目を反らすのは、

人間から目を反らすのと同義だということでしょう。

「人間の死」を忌み嫌うことが、死を機械化させてきた。

避けていたのは、「死」だけのはずが、

「死」を避けることが、実は、

人間らしい「生き方」をも誤魔化すことになってしまった。

臭いものにフタをしても、それは解決にはならない。



人間が、一番人間らしくなるのは、

最後の燃え尽きる瞬間であると言われます。


死を見つめて初めて、人間らしい生き方を探し始める、とも。


その、最も大切な時間を、

非人間的なものにしてしまうのは、あまりに勿体ないし、

あまりに淋しい。


なぜ死をそこまで恐れるのか。


まずは、そこを問いなおしてみる必要がありそうです。


ただ、今あるものが失われ、全てが無くなってしまうだけではない気がします。

死ねばどうなるのか。

自分の人間性、やってきたこと、思ってきたこと、

丸裸の自分が照らし出されるような、そんな恐ろしさがある。

他人の目に映る自分でもなく、

一生懸命ごまかして、自己弁護してきた自分でもなく、

一切のメッキがはがれて、ありのままの自分がさらけ出される。


自分自身と向き合うことを誤魔化し続けて生きてきたから、

それを恐れているんじゃないかと思えてなりません。



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