【なぜ生きる】 『歎異抄』と人生の目的:全てから見放されて、丸裸でどこへゆくのだろうか | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

歎異抄は、けっこう色んな人が賞賛している。


哲学者・西田幾多郎は、

「一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる。」


作家・吉川栄治は、

「私は、何ということなく、親鸞が好きだ、蓮如が好きだ。
 好き嫌いで言うのは変だけれど、
 正直な表現でいえば、そうなる。」

「歎異抄 旅に持ちきて 虫の声」


作家・司馬遼太郎は、

「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ。」

「(歎異抄は)非常にわかりやすい文章で、
 読んでみると真実のにおいがするのですね。」


その歎異抄に、「人間に生れてよかった」と言えるような、
人生の目的が書かれている(らしい)。



■なぜ生きる

・『歎異鈔』と人生の目的


私たちは、健康から、子供から、恋人から、友人から、
会社から、金や財から、名誉や地位から、
捨てられないかと戦々恐々としてはいないだろうか。

幸福に見捨てられるのではなかろうかと、
薄氷を踏むようにいつも不安におびえている
捕らえたと思った楽しみも一夜の夢、
握ったと信じた幸福も一朝の幻、
線香花火のように儚いものだと知っているからである。
たとえばしばらくあったとしても、
やがて、すべてから見放されるときが来る

蓮如上人の遺訓を聞いてみよう。

 まことに死せんときは、
 かねてたのみおきつる妻子も、財宝も
 わが身には一つも、相添うことあるべからず。
 されば、死出の山路の末、三塗の大河をば、
 ただ一人こそ行きなんずれ。
     (『御文章』)

「今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、
 いよいよ死んでゆくときは、何一つ頼りになるものはない
 すべてから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。
 丸裸でいったい、どこへゆくのだろうか

咲き誇った花も散るときが来るように、
死の巌頭に立てば、必死にかき集めた財宝も、名誉も地位も、
すべてわが身から離散し、一人で地上を去らねばならな

これほどの不幸があるだろうか。
こんな大悲劇に向かっている人類に、
絶対の幸福の厳存を明示されているのが、親鸞聖人である。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)
“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、
万人の求めるものであり、人生の目的なのだ。



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見捨てられないだろうか、

飽きられてないだろうか、

嫌われてないだろうか・・・。


好きになればなるほど、

一緒に居たければ居たいほど、

逆に不安も大きくなる。

「怖いくらい幸せ」と言ったのは誰だったろうか。


「生れてきてよかった」と思えるものを求めずに終わってしまう人生は、

きっと、最期の最後で、

自分自身に対して「何をやっていたんだろう」と失望し、

我ながら嫌気がさして、

自分で自分に裏切られたような悲しみに襲われる気がする。



自分のことが信じられなくなって、

最期を終えるようなことにはなりたくない。

そう自戒しながら、生きていきたいです。




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