【死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス】 死の過程はより孤独に、より機械的に、より非人間的になった | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

婉曲法(えんきょくほう)とは
一般に、否定的な含意を持つ語句を直接用いず、他の語句で置き換える語法である。
具体的には聞き手が感じる不快感や困惑を少なくする目的で、
あるいは話し手がそのような不都合やタブーへの抵触を避ける目的で用いられる。

(wikipediaより)


■死ぬ瞬間 キューブラー・ロス

1.死の恐怖について


科学が発達すればするほど、
私たちはますます死の現実を恐れ、認めなくしようとしなくなる
それはなぜなのか。

私たちは死に対して「婉曲法」を用いる。
たとえば眠っているかのように死に化粧をほどこす。
患者が幸いにも自分の家で死ぬと、
大人たちの不安や混乱から守るために、子どもたちを遠くに追いやる
病院で親が死に瀕していても、子どもたちを見舞いに行かせない。
患者に真実を告げるべきかどうかを巡って、長々と激しい議論をする。

そのように冷静に死を直視するのを避ける理由はいろいろあるだろう。

最も重要な事実は、今日、死の過程がいろいろな意味で
以前よりつらいものになったということである。

死の過程はより孤独に、より機械的に、より非人間的になった。


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死は、

非日常的な、異常な事態であって、あってはならない出来事。


でも、現実から目を反らすのは、

人間から目を反らすのと同じことなのかもしれません。


限界ぎりぎりまで、もうどうしようもない、という時まで、

必死で隠し、誤魔化し、口にすることすらタブー視することで、

得られるものは何なのでしょう・・・。


避けていたのは、「死」だけのはずが、

「死」を避けることが、

人間らしい生き方をも誤魔化すことになってしまったと。


臭いものにフタをしても、解決にはならない。


命を、無味乾燥な機械化、数値化することと、

血の通った、あたたかな命という人間の現実には、深い隔たりがあります。


悲しい別れだからこそ、

最後に伝えたいことが、お互いにあるはず。

命とは何か、

悔いのない人生とは何かを、

生きてきてよかった、幸せだった、と

喜びに満ちたものとして味わってほしいし、

その命のメッセージをきちんと受け継がなければ。



人間の真実は、胸から胸へ。

心から心、人から人へ。

そうでなければ伝わらない、大切なことがあるはずです。