【死ぬ瞬間 キューブラー・ロス】 患者の苦しむ顔が思い出させてくれること | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

医療って難しいですね。

どこかで線をひかないといけないわけですが、なんとも。。。



■死ぬ瞬間 キューブラ-・ロス

1.死の恐怖について

患者は病気が重くなると、
しばしば意見を言う権利の無い人間のように扱われる。

入院するかどうか、いつ、どの病院にするか、
それを決めるのは当人ではないことが多い。

だが、病人には感情があり、願望や意見がある。
そして、これが最も大事なことだが、話を聞いてもらう権利がある。

(中略)

休息と安らぎと尊厳がほしいのだと叫ぼうにも、
点滴や輸血を受けていて、人工心臓装置に繋がれ、
必要があれば気管切開までされてしまう。

だれか一人でいいから、
一分間だけでもそばに来てくれたら、
ひとつだけ質問したいと願う。

ところが十人以上の人がベッドの回りにいながら、
全員の関心は彼の心拍数、脈拍、心電図、
あるいは肺機能、分泌物、排泄物だけに向けられ、
人間としての彼にはだれも目を向けようとしない。

それに異議を唱えたとしても、すぐに黙らされることだろう。
――これらはすべて患者の命を救うための処置なのだ。

患者の命が救えさえすれば、
そのあとでゆっくり患者を人間として考えれるようになる。
患者をまず人間として考えたりしていては救命の好機を失ってしまう!――

この論理は少なくとも救命医療の根本原理
または正当性を示しているようにみえるが、
はたしてそうだろうか?

ますます機械化され、個人の人格を無視した医療は、
じつは治療する側の自己防衛メカニズムなのではなかろうか。

つまり、このような医療は、
末期患者あるいは重篤患者が治療する側に与える不安に対処し、
軽減するため
の独特の方法なのではなかろうか。

機械や血圧に関心を集中するのは、
差し迫った死を認めまいとする私たちの必死の試みなのではなかろうか。

私たちにとって死はとても恐ろしく不快なものなので、
知識のすべてを機械に委ねてしまうのではないのか。

もう一人の人間の苦しんでいる顔よりは、
機械のほうが遠い存在だから
だ。

だが患者の苦しむ顔は
人間は全能ではなく限界や失敗があること、
また、これがいちばん重要なのだが、
人間は死ぬものだということを、
もう一度、思い出させてくれるのではないだろうか。




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患者さんの顔は、人間だれしも死んでいかねばならないということを、

思い出させてくれる。

「だから」見たくないわけですけど、

キューブラー・ロスは、

「だから」大事なんだと。


同じことをみても、

同じことを聞いても、その受けとり方は180度違います。

まるで、まったく別のものを見聞きしたように。


ということは、

世界の見え方、身の回りの出来事の感じ方は、

心の向きに由って、180度変わり得るということです。


決して避けられない未来は、

臭いものにはフタをして、

目をつぶって誤魔化し続けるべきなのか、

避けられないからこそ、向き合うべきなのか。



必ず死ぬのに、なぜ生きるのか。

生きる意味を信じられるかどうかが、カギになる気がします。