オオカミの伝承を調べていたら、

源義経をかくまった奥州の王・藤原秀衡が登場して。

熊野参詣に向かう途中で出産した赤子を狼が守護し育てていたという。

源義経ゆかりの場所へ行った記憶を辿っていました。

 

義経が修行した鞍馬寺

(義経の降魔必勝の小太刀を買いましたよ!)

静御前との出会いの場と伝わる神泉苑

(空海の雨乞いの儀式でも有名・祇園祭とも関係)

 

そしてもうひとつ、

首途八幡宮(かどではちまんぐう)

 

初めて見た時は「首途」の文字にちょっとびっくり

でも、以前はよく使われていた言葉だそうですね。

「首/しゅ」は“はじめ”の意味を持っている

 

車通りの多い道から少し入って

お隣には公園、静かな空気が漂ってる

 

最初の鳥居をくぐると

参道がのびて、ふたつめの鳥居

 

奥の階段の手前右には赤い鳥居

弁財天が祀られるお社があります。

 

階段を昇ると、

首途八幡宮本殿

 

 

門や瓦、手水舎に鳩のしるしが散りばめられていました。

八幡様の御使いがいっぱい

 

御祭神

応神天皇 比咩大神 神功皇后

宇佐八幡宮の神霊を勧請したと記されている

 

桃園親王の旧跡とも

 

桃園親王(873~916)

貞純親王 清和源氏の祖の一人という説あり

ー(Wikipedia

 

義経首途之地の石碑がどーんと

 

首途八幡宮と呼ばれる由来についての案内板

 

1174年3月3日夜明け、鞍馬山から、ここ首途八幡宮に参詣し旅の安全と武勇の上達を願い、奥州の商人金売橘次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへと首途(旅立ち)した。この地に橘次の屋敷があったと伝えられ、この由緒により元「内野八幡宮」は「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。

時に源義経16歳であった。

 

900年前後、桃園親王のお屋敷だった場所が

金売橘次のお屋敷になっていた

 

金売橘次=金売吉次

 

どちらかというと「吉次」て記憶していたので

あれ?橘だったっけ?というところから

追いかけてみたら、

金売吉次の父、炭焼藤太に繋がったのです。

(吉次本人が炭焼藤太という説もあり)

ー(前記事: 藤太から繋がっていく

 

 

 各地に伝わる炭焼長者の伝承

 

炭焼藤太、炭焼長者のお話が

こちらの本にありました

 

 

鬼の本なので、竈門炭治郎くんと絡めて紹介されてました。

 

京のある姫は顔に痣があったため、良縁に恵まれなかったが観音のお告げで豊後へ赴き、炭焼小五郎(藤太)と出会って妻となる。姫は小五郎に金の小判を与えて買い物に行かせるが、小五郎は「こんなものは炭焼の山にはいくらでもある」といって小判を淵に投げ棄ててしまう。

だが、姫に小判の値打ちを教えられると、小五郎は身辺に小金をたくさん見つけ、たちまち長者となる。そして姫が淵で顔を洗うと、痣がとれて美人となった。

(略)

これと同じような民話は主人公の名を五郎、藤太などと変えながら、北は青森、南は沖縄まで、全国各地に伝わっているのだ。

(略)

金売りは諸処に仮住して鋳物の業を営んだが、金属の製錬には木炭が欠かせなかったからであり、諸国を遍歴した炭焼兼鍛冶師の民間伝承ではないか

ー 飯倉義之(2021年) 『鬼と異形の民俗学ー漂泊する異類異形の正体』

ここで紹介されているのは大分の伝承ですが、

源義経と藤原秀衡を繋ぐだけあって

もちろん東北にも残っていて、

宮城には炭焼藤太夫妻のお墓もあるそうです。

所在地:宮城県栗原市金成日向

(住所がまさに金成!かんなりと読むのだそう)

 

妻となる京の姫が藤原氏の娘であるとか

名前が「おこや」とか「あこや」とか「豊丸姫」とか

いろんなパターンがあるみたい。

 

金売吉次に繋がるお話としては

二人の間に橘次・橘内・橘六の三人の子供が生まれたとのこと。

 

奥州藤原氏ともやりとりのあった金の商人。

やがて京都にも屋敷をかまえて

義経と秀衡を繋いだ、ということになる。

 

橘次(吉次)については

歴史書に正式に存在は認められないものの

のちに奥州へ逃げる義経に付き従った堀景光と同一視されているよう

ー(『平治物語』Wikipedia

 

この伝承と同じパターンで

炭焼ではなく芋堀のバージョンも見つけたのですが

そちらも名前が藤太だったり藤五郎だったり。

五、五郎というのもなにかカギなのかな。

 

 

こうして、義経からまた

金、製鉄、東北、と繋がっていったのですけど

言われてみれば

奥州へ向かう義経が元服した場所・鏡の宿

田原藤太の百足退治の舞台三上山の近く

蒲生郡に鏡神社がありました。

逃げた義経を追う平家が

「稚児の姿の男児を探せ!」てなって

慌てて元服したんですよね、確か。

 

当時の奥州へのルートとして

一般的なものだったのか、

はたまた炭鉱や製鉄のルーツを持つ

金売吉次が引率するからこその経路だったのか。

 

気になるところ。

 

 

 

 

 

 

琵琶湖のほとりの藤ヶ崎龍神で

百足退治伝説の田原藤太(藤原秀郷)に出会い、

百足退治の伝説

 
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した ー(Wikipedia

藤ヶ崎龍神とは少し離れた場所

田原藤太に百足退治を依頼した大蛇(龍?)がいたという

瀬田の唐橋へ行ってきました。

 

瀬田川にかかる唐橋

 

鉄と絡めて夢想するなら、

この水辺に製鉄に携わる人々がいたのですかね

 

日本三大名橋!

 

日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋。古くは、瀬田橋・瀬田の長橋とも呼ばれ、日本書紀にも登場する。現在の状態は、織田信長により現在の状況(大橋・小橋)に整備された。「唐橋を制するものは天下を制す」とまでいわれるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であることから幾度となく戦乱の舞台となった。
ことわざ「いそがばまわれ」の語源となったエピソードでも有名。

ー ( BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE

「いそがばまわれ」の語源なこともびっくり

 

看板にもしっかり

「唐橋を制するものは天下を制す」

 

藤太の伝説だけじゃなく、

壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、

木曽義仲の戦死、承久の乱、本能寺の変、

たびたび、歴史の大きな出来事の舞台となったよう。

 

橋からほど近く、

田原藤太が祀られている

勢多橋龍宮秀郷社がありました。

 

ご祭神 大神霊龍王 藤原秀郷公

大神霊龍王は、藤太に百足退治を依頼した龍

元々は龍だけが祀られていたのだとか

写真を撮ってないのですが
鳥居に「龍宮」と書かれていました。
 
境内から見える瀬田川の水面
川から吹く風で神社幕が揺れて厳かな気分になりました。

 

それでいて周りは民家に囲まれ
お手入れもしっかりされていて
大切にされている場所なのだなと感じます。

 

百足退治の絵と共に神社の縁起

百足退治ののちに招かれた竜宮とはここのこと??

 

昔の唐橋の写真

 

川のほとりにも貼られている百足退治の大きな絵

たまたまやってきたカラス。

 

こちらを訪れたのも4年前。

記憶を辿りながら書いてます。

 

 藤太から繋がっていく

田原藤太=藤原秀郷

田原とは百足退治のお礼に俵をもらったからだとも。

だから俵藤太と言われることもある。

 

で、別のルートから

炭焼藤太という名前に出会ったのです。

 

それは、源義経を奥州へと導いた金売吉次(橘次)から、

そのお父さんが炭焼藤太だということで。

吉次本人が炭焼藤太って説もあるっぽい。

 

藤太って印象的な名前、

田原藤太とも関係あるのかなと思ったら

関わりアリと言われる説もあるみたい。

 

さらに、芋掘藤太という名前も出てきました。

 

炭焼藤太は炭焼から金の商人となった長者

芋掘藤太は芋堀から砂金を見つけて長者に

 

芋堀のイモは鋳物師(いもじ)のいも?

あと、は砂鉄の採取に関わる説も。

 

藤太、藤、金売吉次、源義経、奥州藤原氏、

とかとか、気になるワードがまた繋がって

またまた「鉄」

 

炭焼藤太を知るきっかけとなった

義経ゆかりの神社のお話を、次回は。

 

 

 

 

数年前にスピ的ロマンを追いかける以前から
白狐が気になる存在で。
あちこちの稲荷神社へ行ったり
安倍晴明の母が白狐という伝説を追いかけたり。
 
そうこうしてる内に
気になってるのって実は山犬?
というよりオオカミ??
となってたところで止まっていました。
 
数年空いて、ここ最近
「オオカミ」のワードが頻繁にやってきてた中で
八重の桜で会津熱が高まって
調べてたらオオカミにまつわる神社があるそうではないですか!
天井画が狼だそうな。(山津見神社/福島県相馬郡飯舘村)
(この神社からも源氏や橘氏、安倍氏と気になるお話にいっぱい出会った!)
 
狼というと関東の三峯神社が思い浮かぶのですけど
東北にも狼信仰?があったのですね。
 
いずれにしても遠方なので
今は本から知識をゲット、するべく
真弓常忠さんの『古代の鉄と神々』と併せ読んでいる1冊

菱川晶子(2009) 『狼の民俗学』
 
各地に残る伝承、説話などを通して
オオカミについて語られている。
 

本に出てきた、気になったお話たち。

 

熊野の本地

室町時代に製作された社寺縁起のひとつ

修験者や熊野比丘尼(熊野に属した女性宗教者)によって

各地に伝搬されたらしい

<おおまかなあらすじ>
天竺、ある王の后が身籠り、他の后達の策略によって
国を追い出され山中で王子を産んだものの首をはねられてしまう。
不思議なことに首のない后の体から母乳が出て、
その母乳と山の獣たちの守護によって王子は成長する。
成長した王子は聖人に保護され国に戻り、王と対面する。

聖人の秘儀によって蘇生した后と三人で熊野の地に移る。

他にもいくつかのパターンがあるらしいこのお話

山の獣は虎だったり、オオカミだったり、他にも何種類も。
登場する獣は山神として扱われている説や
修験道との関わりがある説について書かれていました。
 

藤原秀衡の子が狼に育てられた話

熊野本地の類話として紹介されていました。

紀州藩主南竜公の命で元禄年間(1688~1703)に

児玉荘左衛門によって著された『紀南郷導記』の中の「滝尻」

<おおまかなあらすじ>

藤原秀衡が身重の妻と熊野参詣に向かう途中に

妻が出産してしまう。赤子を熊野には連れて行けないので

岩窟に赤子を置いて参詣を済ませて戻ってきたら

狐狼に守護されて元気に育っていた。

こちらもいくつかのパターンがあるらしい。

↑で出てくる赤子は三男和泉三郎忠衡だけど、

赤子が秀衡で熊野参詣をしたのは父・基衡という説も。

舞台となったのは滝尻王子社(和歌山県)
岩から滴る乳で赤子が救われたお話もあって
「乳岩」も各地に残っているらしい。
赤子の無事を祈って咲かせた「秀衡桜」という桜もあるそう。
 
このお話でも、
オオカミと山の神や修験道との関わりを感じるけど
同時に、登場人物が藤原秀衡というのも興味深い。
 
源義経をかくまった奥州の王の伝承が
和歌山に残っているとは驚きでした。
それほど熊野信仰人気が高かったということか。
 
ベタに義経も気になるんですよね。

 

鍛冶屋の婆

これも初めて知ったお話ですが

まんが日本昔ばなしにも登場する有名なお話なんですね。

<おおまかなあらすじ>

侍が産気づいた妊婦に出会う。

杉の木にやぐらを組んで出産に臨むところへ

狼たちが梯子となって乗りあがってくる。

やってくる狼を侍が一匹ずつ倒していたら

狼の一匹が「鍛冶ヶ嬶を呼んでこい」と叫んだ。

そうしてやってきた狼をまた倒して、夜が明けた。

あくる日、鍛冶屋へ行ってみると婆が怪我をしており

狼である正体を現して襲い掛かってきた。

婆は倒したが、その子孫は代々狼の毛並みを持って生まれてくる。

こちらも同様にパターンの多いお話。

狼が群れで、梯子・肩車で襲ってくるお話自体も

「千疋狼」というお話で有名らしい?

 

鍛冶屋の婆のお話は鉄とのつながりを想わせるけど

「千疋」となると布とのつながり?

 

千疋…布を数える単位一疋=二反。千疋=二千反の布。

 

 

 

 オオカミも鉄に繋がる??

ずっと気になってたオオカミと

最近追いかけ始めた古代の鉄

 

古代の鉄といえば、山だから

山にいた狼もそりゃ繋がるか…繋がるか?

 

あと、この本では

「狼は塩が好き」とも紹介されていました。

他の獣で塩と関連するものは少ないのだそう。

 

塩となるとやっぱり塩竃神社、塩椎神様を思い出すけど

なるほどここでまた東北…。

塩と鉄も繋がったりして?

塩=海=水=鉄?

水の美しい真名井神社奥の宮にも

塩椎神の磐座がありました、確か。

 

スピ的ロマンで追いかけてた

瀬織津姫も水で鉄に繋がるし、

ベタに気になってた義経と近い秀衡も登場したし

鉄を追いかけたら、いろんな点が繋がり出すのかな。

 

 

 

会津つながりで  (過去記事:『いまさら八重の桜』)

くろ谷 金戒光明寺へ訪れました。

 

 京都守護職本陣、新選組発祥の地

京都守護職を任じられた会津藩が本陣を構えたお寺

 

君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日午前九時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった。 ー ( 金戒光明寺HP「会津藩と黒谷と新選組」

松平容保が上洛した同じ年に結成された浪士組が、翌年3月に京都守護職預かりとなり、八月十八日の政変での活躍により「新選組」と名付けられる。

 

新選組の面々と松平容保がはじめて対面したのもこのお寺の謁見の間。

 

 

立派な山門
写真を撮り忘れたけどここより先にあった門も立派でした!

 

山門の完成は1860年だそう

会津藩の方々は、出来て間もない立派な山門を

くぐり抜けられたのですね。

 

一段一段大きく作られている石段

馬でも登れるってことなんですかね この大きさは

(時代劇のロケ地として使われることが多いそう)

 

石段を登りきって振り返る

パッと見で平安神宮の鳥居が目に入ります

 

 

小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。

 

ー( 金戒光明寺HP「本陣に選ばれた3つの理由」

現在でさえ見晴らしのいい場所

当時は大坂城まで見えていた可能性もあるらしい

 

 

重苦しく、先行き不安なお役目ながら

(守護職を引き受ける前は家臣に相当止められてる)

 

当時、この場所に立った会津の方々は

肚をくくって士気を高めていったのかな

 

 

 會津藩殉難者墓地

このお寺の奥に、当時京都で亡くなった会津藩の方々の墓地があります。

 

文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。ー ( 金戒光明寺HP「会津藩と黒谷と新選組」

朝敵となった会津藩の弔いをするのは命がけだった様子。

 
また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。
會津小鉄は本名こうさか仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。ー ( 金戒光明寺HP「会津藩と黒谷と新選組」

会津の方々の墓地までは、通行止めとなっていて行けませんでした。

 

 

 

手を合わせようと訪れたものの、

浅い知識と簡単な想いで訪れてはいけないのかもな、と反省。

 

振り返った景色はやっぱり見晴らしがよくて

この空に故郷を想ったのだろうなぁと図々しくも想像する。

せめて静かにお休みされていますように。
 

 

 アフロ大仏ならぬ五劫思惟阿弥陀仏

会津に興味を持つ以前から

アフロ大仏がある、というお話はたまに聞こえてきていました。

まさかこちらにいらっしゃるなんて。

 

お堂ではなく墓地の中にいらっしゃいました。

五劫思惟阿弥陀仏 

 
五劫とは時の長さで一劫が五つということです。
一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。
そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。ー ( 金戒光明寺HP 『五劫思惟阿弥陀仏』 )

世の為、人の為に、考えて考えて考えて考えて

ボリュームたっぷりになった螺髪

 

いわゆる通常の量の螺髪でさえ

人智を超えた存在であるあかし、だそうなのに

なんてありがたい仏様。

 

本堂内の売店では

しっかりグッズも販売されていました。

アフロ大仏パッケージの金平糖がかわいかった!

(螺髪部分が透明のパッケージで金平糖の色のアフロになってる)

 

 

 歴史の中の「敗者」に想うこと

改めて会津に興味を持って調べ進めると

幕末の会津藩は本当に心痛む出来事が多いし

悲しみ、苦しみ、無念の内に命を落とした方々について

想像すること自体が無礼に思えるほどです。

 

かといって、彼らを

悲劇や不幸、かわいそうな敗者として

外側から勝手に位置づけ意味づけをするのも

また違うのかな、と感じています。

 

新島八重さんのように

生き延びてたくましく未来への種を撒いた人もいる

藩主松平容保は、

朝敵ではない証明ができたかもしれない

ご宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を

生きている間に人に見せることがなかったのだそう。

(容保の死後10年ほどで公開されたという)

その理由は分からないけれど、

やはりなんとなく、たくましさを感じる。

心とか芯の強さ、みたいなもの。

 

数年前に古代ロマンや神話を追っていた時も、

そして今になって古代鉄文化を調べていても、

古くからあった存在や土着のものが

新しい勢力や文化に追われたり飲み込まれる様子は感じる。

堂々と融合したのかもしれないし、

戦いに負けたのかもしれないし、

いずれにしても表舞台からは消えている。

 

かといって、消えた存在達を

「敗者」の一言で片づけてはいけないな、と

会津の強さに触れて改めて思ったのでした。

 

「歴史は勝者によって書き換えられる」とも言うけれど

勝者は本当に勝者だったのか、それも分からない。

 

会津に対して官軍を率いて新政府を創った西郷隆盛も

その後の西南戦争で新政府軍と戦い敗れていく。

それもまた、「敗者」なのかは分からない。

 

もちろん表面的な勝敗はあるけれど

その「勝者/敗者」の仕分けをすることで

本質的なところを見逃さないようにしたいなと思うのです。

 

今もう一度、古代を夢見るにあたって。

 

会津を調べていたら、(前記事:『いまさら八重の桜』)

田原藤太(藤原秀郷)に繋がりました。

 

歴史やロマンを辿っていると

こういうことがあるので楽しくなる

 

田原藤太の家系は織田信長の娘婿・蒲生氏郷に繋がり、

豊臣秀吉の天下になった時に氏郷は会津の地を任されている(1590年)

 
黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。7層楼の天守を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。
築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。 ー(Wikipedia

後継問題などで上杉家や加藤家に当主が移り変わったのちに

1643年、保科正之が藩主となり幕末まで続く会津藩が出来上がる。

この時に徳川家光から受けた恩義によって「会津家訓十五箇条」が定められ、

この家訓によって幕末会津は悲劇へと向かうことになるのですね・・・。

 

会津のはじまりの遠い先に、田原藤太がいた。

とはいえ、田原藤太と蒲生氏郷の家系の繋がりは

後付けなのではないかと疑わしいものらしい。

 

ただ、どちらも滋賀の蒲生という土地に関わっていたのは確かなこと。

 

藤ヶ崎龍神の石碑にも「蒲生

「龍王ト龍神ナトハ夫婦ニテ 名高キ藤太家名藤原 (江州蒲生郡牧村藤ケ崎神社ノ龍神略縁起)」

 

 

 原始的な製鉄「倭鍛冶」とスズ

 

真弓常忠さんの『古代の鉄と神々』を片手に鉄の話


田原藤太の百足退治伝説のある三上山の東にある日野町

そこに「鋳物師(いもじ)」という土地があり、

近江国蒲生郡の式内社菅田神社に比定される竹田神社がある。

 

蒲生 = 蒲の生えている土地

菅田 = 菅の生い茂る田  

 

蒲や菅をはじめ、

沼沢、湖沼、浅海、湿原に生える植物のある土地は

原始的な製鉄が行われていた場所なのではないか、と書かれている。

 

水辺の植物の根を地下水に溶解した鉄分が包み、固い外殻ができ、

内部は脱水・収縮して外殻から分離する。

振ると音が鳴る、自然のスズが出来上がる。

スズ→鳴石・鳴岩・壺石・鈴石

愛知県の高師原で見つかったことから高師小僧とも名付けられている

 

スズ=錫鉄鉱、丹=赤鉄鉱を原料とし、

自然通風に依存するタタラ製鉄が

弥生時代の原始的な製鉄倭鍛冶」なのではないか、とのこと。

 

実際に、そうした土地の付近では銅や鉄が見つかるらしく

竹田神社のそばからも、大量の銅銭、和同開珎が出土したそう。

「鋳物師」の地名の通り、鉄・銅の鋳造が行われていた可能性が高い。

 

このことから、

「スズ」や「鈴」の名がつく土地に土着の製鉄民がいたのではないか

とも書かれている。

「火」「日」「朝日」という名にも触れられている。

 

あと「水」があるところ鉄あり、ということもある。

だから蛇(龍も?)=水=鉄、百足=銅

 

竹田神社のある日野町から東へ行くと

鈴鹿山脈、水沢峠、

真弓さんは、ここもまたスズの在り処とされている。

 

鈴鹿は、数年前瀬織津姫を追っていた頃に

チラホラ気になっていた場所なので

ここももう少し調べてみたい。

 

そして、水沢峠を越えて辿り着く「水沢」に

ヤマトタケルが歩けなくなったことに関係のある

足見田神社があるらしい。

ヤマトタケルもまた、鉄を軸に読むと

見えてくるものがあるのですかね。

 

 

原始的な製鉄倭鍛冶に対して

大陸からやってきた新しい手法の製鉄、

水辺や山中から砂鉄を選別して

露天タタラよりも進んだ技術を用いたものが

韓鍛冶なのではないか、とのこと。

 

 

抵抗、受容、融合、

各地それぞれに新しい文化となっていく。

読み進めている中の1冊
真弓常忠(2012) 『古代の鉄と神々』[増補第三版]
 
この本の中で「田原藤太の百足退治」に触れられている。
 

 田原藤太  

別名【俵藤太・藤原秀郷

平安中期の武将で平将門を討った人物

 

百足退治の伝説

 
琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した ー(Wikipedia

 

田原藤太の名前には以前出会っていました。

SNSに残していた写真を遡ったら2018年の10月

藤ヶ崎龍神にその名前がありました。

 
(写真はスマホに残っていないのでインスタからスクショ)
 
琵琶湖のほとり
琵琶湖を背にした外宮(上の写真)
対して、琵琶湖に面する向きで
崖の割れ目の中に内宮がありました。
 
内宮の脇に石碑
 
当時はやけに龍宮城を追いかけてたのです
龍王ト龍神ナトハ夫婦ニテ
名高キ藤太家名藤原

(江州蒲生郡牧村藤ヶ崎神社ノ龍神略縁起)

 
当時はあまりピンとこないまま、
百足退治伝説から
その舞台となった三上山に天之御影命を祀る御上神社があり
天之御影命は製鉄の神・天目一箇神と同一である
というところまで辿りつきました。
 
この時は単純に
「“百足”=鉄に携わってた民?」とかぼんやり思ってました。
 
が、“百足”を退治した上で製鉄の神が祀られているのですよね。
鉄の以前にあったものが“百足”
 
じゃあ“百足”は何か?というお話が
真弓さんの本に書かれていました。
 
“百足”とは銅の文化を持っていた民
鉄は蛇(水にも関わるから)なので
蛇と百足の戦い=鉄と銅の戦い
百足退治は鉄の文化が銅の文化の優位に立ったあらわれ
なのではないか?
 
というお話。
 
なるほど。
 
では退治の後に招かれた龍宮も鉄に関わるのかしら?
と、過去の写真に問いかける。
 
 
ところで
百足退治伝説に出てくる瀬田の唐橋と
藤ヶ崎龍神の距離はなかなか離れているのですけど
 
御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する ー(Wikipedia)

とのことなので、御伽草子の説が色濃い藤ヶ崎龍神、なのですかね。

 
太平記では助けを求めるのが男性だったり、
三上山ではなく比良山だったりするらしいので
この違いも気になるところ。
 

 冥王星逆行終了と満月

9日、破壊と再生の冥王星が逆行を終了して
10日、十二星座のはじまり牡羊座で満ちる月。
(10月10日 5時55分頃)
おわってはじまり、かわってゆく感

イザナミも、個人的には破壊と再生
生み、海、産む、要の時を知らせる

もう一度はじめから、わたしも。


数年前に各地を巡っていた頃は
どちらかというとスピリット目線が強くて
それはそれで楽しかったけど

肝心なところをフワフワと濁してる気分になり
足元と目の前をちゃんとしていよう、と立ち止まった

そして今度は
地続きにあるものを探っていきたい

変わりゆく中で
変わらずそこにあるものが
見つかるのかも 見つからないのかも
どちらでもいいから進む


 月の神といえば


月の神様 ツクヨミは
イザナミが黄泉の国へ行ったあと
イザナギの目から生まれたのだっけ

性別も謎な神様だけど
丹後で訪れた浦嶋神社(宇良神社)の由緒書で
浦嶋子の祖が月読命である、とされている


 

浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延長5年(927)「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長2年(825)、浦嶋子(うらしまこ)を筒川大明神として祀る。その大祖は月讀命の子孫で当地の領主、日下部首(くさかべのおびと)等の先祖であると伝わる。

伝承によると、浦嶋子は雄略天皇22年(478)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇の天長2年(825)に帰ってきた。常世の国に住んでいた年数は347年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁(おののたかむら/802~853、官吏・文人、遣隋使を務めた小野妹子の末裔)を勅旨として派遣し社殿が造営された。

浦嶋子の子孫に当たる日下部氏については、『新撰姓氏録』「弘仁6年(815)」の和泉皇別の条に「日下部宿禰同祖、彦座命之後也」とみえる。彦座命は第9代開化天皇(紀元前157~98)の子、従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、その大祖は月讀命(浦嶋神社の相殿神)の子孫で当地の領主である。

−  浦嶋神社ホームページより 




これも、改めて辿りたい点のひとつ


浅く調べただけでも土蜘蛛の気配がするのと

最近は「」もカギなのだと知りました


 

日下部首[くさかべのおびと]とは、古代、丹後半島の海岸部を治め、大きな勢力を持っていたとされる海人[かいじん]で、日下部[くさかべ]一族を指す。海人とは漁労だけでなく、海を介して農業や養蚕、鉄などを扱うのに欠かせないさまざまな技術や文化を大陸と交流していた民

  伊根に伝わる浦島伝説「浦嶋子」 



海人の祖が月読命


さて、どう繋がるのか



2012年、白狐とイザナミを意識するようになり
神社や史跡をめぐる日々がはじまりました。
 

生まれの愛知の神社から、伊勢神宮、

愛宕神社、北海道神宮、斎場御嶽、
鹽竈神社、青麻神社、岩手桜山神社、
気比神宮、高野山、、、
住まいを京都に移してからもあちらこちら
 
とはいえここ数年、ぱったりと腰が重くなり
神話や古代へのアンテナも興味も鎮まっていました。
 
 
それが少し前から
白狐ならぬ狼のワードがたびたび現れて
数年前の心が呼び覚まされ気味。
 
そしたら、当時に出ていたキーワードも次々にやってきて
また改めて、この点と点たちを辿ってみたくなったのです。
 
新たに訪ねていく場所、
過去に訪ねた場所のおさらい、
神話や伝承、古代史の考察
 
自分の記録用にブログに残そうと思います。
 
という第一歩。秋の日に。
 
 

 
ひさしぶりにアメブロに登録したら
知識たっぷり深い考察どっさりな方のブログに出会い
ついつい夢中で読み耽っています。
 
 
おぼろげな記憶と少しの知識ながら
私も自分の言葉で残そう、と思うのでした。